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【その後のふたり】
その先輩がどれだけすばらしい人であるか、本質的に理解しているのは広いオフィスの中でこの俺ただ一人だと思う。
「えー、そんなもの食べてるんですかー」
「いや、あるあるだよ。一番金ないときは実家から送られてきた米にとりあえず醤油かけて食べてたし」
「やだあ、なにそれー」
送別会という名の飲み会がはじまって少し時間が経った団体席には、ゆるい空気がまとわりついていた。ここぞとばかりに女性社員に声をかける者、部下を座らせて叱る者、壁にもたれて眠りこける者さえいた。
「あははっ、深瀬さんほんとおもしろーい」
その中で深瀬さんは主役の女性社員につかまっていた。今月いっぱいで退社する女性社員はまつげやつまさきから虹色のフェミニンを振りまきながら、深瀬さんのとなりをキープし続けている。
俺は斜向かいの席にちんまり座り、もう、そりゃもう面白くないけれど、ふたりをつなぐエピソードが「貧乏時代の苦労話」という色気のないものであることを唯一の救いとしながら終始観察することしかできなかった。
「そんな食生活じゃ栄養かたよっちゃいますよー?」
「あー、そうかもなー。もうオッサンだから体調……」
「わたしがご飯作りにいきましょうかー?」
「えー? はは」
「あ、そうだ。連絡先ちゃんと聞いておいていいですか? 前に業務連絡用の電話番号だけ伺ったんですけど、アドレスとかも」
「あー……」
「これからは業務連絡じゃなくても連絡したいし」
女子がサーモンピンクのケースに入ったスマートフォンを取り出したとき、大学生と思われる居酒屋店員が「失礼しまーす、ラストオーダーでーっす」とラフに乱入してくれたので、俺はすぐさま立ち上がり強引に場をおさめ、解散を促すことができた。
「なんなんですかあれ」
「えーそれ俺に言うー?」
店を出てからも、「なんなら二件目」と言うように深瀬さんにつきまとう女子社員を引きはがすため「深瀬さん終電でちゃいますよー、いきましょー」と腕をひいて駅をめざした。しかし深瀬さんが帰る場所は会社のすぐ近く、電車に乗る必要のない距離にある。駅の近くまで早足で向かったあと、遠回りをしながら戻っていった。酔ったなかのウォーキングのおかげで、思考は散漫に、語感は厳しくなる。
「なんか見ててすごいいらいらしました」
「俺はどっちかって言うと迷惑こうむってた方なんですけど」
「でも、深瀬さんだってまんざらでもなさそうだったじゃないですか」
「えー、なんだよお前まで。めんどくせぇなぁ」
歩くたびに脇腹が痛くなる俺とは裏腹に、俺よりも多く飲んでいたはずの深瀬さんはけろっとしていた。そしていつもと変わらない冷静さで、溜息をついた。
手にとるまでもないほど分かりやすい言葉でいったのに、深瀬さんは「嫉妬か」と気づいて指摘してくれない。にやついた顔でからかわれたっていいと思っていたのは、それがまぎれもなく嫉妬だからで、俺はこの気持ちを隠すにも揉み消すにも自信がなかったからだ。
だから、あえて誇大表現した感情は、深瀬さんにとっては「めんどくせぇ」ものであったらしい。
「お前今日どうすんの」
「……自分ちに帰ります」
「え、あ、そうなの? うち来ねぇの?」
「はい。もっかい駅前もどってタクシー拾います」
「なんだ。そういう意味じゃなくて、まっすぐ俺んち来るのかその前に飲み直すのかコンビニ寄るのかって聞いたつもりだったけど」
「今日は、ひとりで寝たいんで」
「そうか」
信号を待つ少しの時間、火照った首筋に夜風を受けていると視界が明瞭になり様々なことに気づく。主に深瀬さんについてのことだ。こうして肩を並べ、対岸に灯る赤信号を同じように眺めてみて改めて知った。俺よりも視点が低い。手持無沙汰な時間は耳の後ろを触るのがくせらしい。
「ほら、行くぞ」
そうしているあいだに信号がかわり、深瀬さんは横断歩道に向けて足を踏み出した。
先を行く背中を見てもうひとつ気づく。深瀬さんはこんなに、こんなに近くにいる人なのに、ほんとうは誰も追いつけないほどに先を行っている。
仕事の能力値についても、精神的な成熟度についても。年下の俺にそれらが眩しく見えるのは当然のこととして、飲み会の場で年齢も地位も関係なくなると余計に深瀬さん自身が持つ圧倒的な力が浮き彫りになる。
「おま……っ」
「ふかせさん……」
「……なに? 酔ってんの?」
深瀬さんの背中に届かなくなる前に、追い掛け力まかせに抱きしめた。ちょうど横断歩道の真ん中だったが、駅からすこし遠ざかったオフィス街には人も車もなく、外灯にもテールランプにも照らされなかった。
万が一明るみに差し出されたとてかまわない。さらには先ほどの女性社員に目撃され、深瀬さんにつきまとう気味の悪いやつだと差別的な目を向けられたっていい。むしろ、深瀬さんはこれほどに完璧な人なのだから、大袈裟なくらいにアピールしておいたほうがいいだろう。
アルコールのせいかそれ以外の理由もあるのか、脳髄まで熱くなった俺を、深瀬さんは苦笑いしながらなだめる。ぺしぺしと頬あたりをやわく叩きながら、あくまで常識人として。
「おら、酔っ払い」
「……酔ってません」
「いーから早く帰るぞ」
深瀬さんはどこまでも冷静に俺を引きはがし、先へ行ってしまった。俺は冷えていく身体を持て余しながら、追い掛けることしかできなかった。
出会った、同じ職種に就けた、パーティションを挟んだとなりで仕事ができた、触ることができた、キスができた、嫌われなかった、むしろ受け入れてもらえた。
溜めこんだ欲は少しずつ発散され、はじめの頃では想像できなかったほどの多幸感を手に入れた。それなのに、欲はさらに膨れ上がってしまった。
これほど幸せな俺は、その上なにを望んでいるのだろう。
「中野ぉ」
「……はい」
横断歩道もあと少しで向こう岸にたどり着く。この信号を渡り、右にいけば駅。左にいけば深瀬さんのアパートだ。俺の私物があちこちに散らばった深瀬さんのアパートだ。時間が永遠であるような金曜日の夜、それらは一人きりの深瀬さんを静かにとり囲むだろう。
ふいに振りかえった深瀬さんは、拍子抜けするほど子供っぽい顔をしていた。
「なんかけがしてた」
「……は?」
「知らないあいだに切ったっぽい。ここ」
「……どこですか」
そして無邪気に、俺の眼の前にてのひらをかざしてきた。暗闇の中で目をこらしてみるものの、その地味なけがのあととやらを発見することができない。そもそも血が浮かぶか浮かばないかの傷を、いま肉眼で確認したところでどうすればいいのだろう。深瀬さんもやっぱり酔っているのかもしれない。
「え」
そのときふいにてのひらが消え、次に目の前にあったのは深瀬さんの顔だった。そして唇が触れた。そして離れた。そのうちに手首をつかまれた。深瀬さんが歩きはじめた。横断歩道を渡り切り、左の方向へ、深瀬さんのアパートの方向へ、ほとんど強制的に。
「ねぇ深瀬さん……」
「んー?」
「深瀬さんはなんでそんなにかっこいいんですか……」
「はは、惚れろ惚れろ」
「もう惚れてます何年も前から」
「キスしてやろっかー?」
「お願いしま……あーやっぱ」
「いいの?」
「あとで自分からします」
後ろ姿を眺めているだけで気づく。深瀬さんは笑っている。職場でよくわからないおもしろいはずのはなしに巻き込まれたときや、女の子に強引に距離を縮められたときのような唇の端が震えるあいまいな笑顔でなく、思わずこみあげたような少しいやらしい笑い方で。
深瀬さんの家を目指し歩いているうちに、数時間前に退勤し、もう誰もいないオフィスの前を通りがかった。電気の消えたエントランスの暗い窓に、深瀬さんに手をひかれるままに歩く従順な自分の姿が映っていた。
前を行く人を追い抜く日は当分訪れそうにない、だからこそ、腕をひかれることが恐ろしく幸福に思える。
「中野ぉ」
「うあ、はい」
「ぼーっとしてんな、今お前エロいこと考えてたろ」
「……バレました?」
「……冗談だったんだけど」
「何考えてたか聞きますか? 詳細に説明しますよ」
「いいです遠慮します」
そのまま歩いているうち、道の向こうにゆっくりと見えてきた古いアパートの外観がとつぜん愛おしくなり、手を握る力を強めると深瀬さんがまたちいさく、笑った。
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