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【その後のふたり さよなら編】
「中野、上がれるか?」
「あーすいません、あとちょっと、クライアントの返事待ちです」
「そうか。じゃあ先行っていいか? スーパー閉まるの早いんだよ」
「はい! すぐ追いかけますね。深瀬さんの手料理楽しみです!」
「あんまでかい声で言うな、っていうか大したもんじゃねぇから楽しみにすんな! じゃあな!」
手料理と言えるもんじゃないしもらいもんの人参とかジャガイモぶった切って今から買いに行くカレールーを投入するだけ。それでも中野にとってはご褒美みたいなもんらしい。誰もいなくなったオフィスで油断した声をあげるくらいに。頼れる後輩であり愛すべき忠犬の中野は、手をぶんぶん振りながら俺を見送っていた。
はじめは、自宅まで帰るのが億劫だから、会社から遠くない俺のアトリエに泊めてほしい、というような話だった。とってつけたような理由はすぐに必要なくなり、中野は今や自宅のように俺の家を利用している。その中でなんとなく、洗い物は俺がやる、とか、洗濯は中野がする、とかいうルールが出来て、なんとなく気が向いたら飯も作る。ただそれだけなのに、中野は子どもみたいに楽しそうにしている。
愛されているな、と思う。
朝、「夜はカレーでも作ってやる」と言っておいたから、帰宅したときはすでに白米の準備がされていた。大切にされる分だけ、同じように返してやりたいと思うのはきっと至極まっとうな考え方だ。不器用で鈍感な俺でも、中野に愛されていることは十分分かる。
「おう、おかえり! ちょうど出来たところだぞ、福神漬け好きって言ってたよな、買っておいた。食うだろ?」
「……はい」
「どうした?」
わくわくしながら帰ってくるかと思っていたが、玄関を開けた中野の表情はあまりに暗い。心ここにあらずという様子でスーツを脱ぎ、食卓につき、盛り付けたカレー皿を見下ろしたあと、意を決したように結ばれた口を開いた。
「……帰りに、部長に声をかけられて」
「あれ、部長もまだ帰ってなかったのか」
「はい。関西支社の人と電話してたみたいで。ちょうどよかった、って呼び止められたんです」
「うん?」
それは、中野の関西支社配属の話。言うまでもなく、栄転だ。
「新しい企画の進行役として、俺が指名されたそうです。自治体と合同の企画で、公共機関にもデザインが採用されるんだとか」
「すげーな! まじかよ! 良かったなあ! うちみたいな中小企業に持ちかけてくるなんてそうそうないことだぞ、お前ほんとすげーな!」
「俺、断ろうと思ってて」
「は?」
たった一瞬のあいだに夢の世界と現実の下層を行き来したような感覚。どこからどこまでが冗談で、嘘で、本気なのか分からず中野を見る。じりりと寄せられた眉が、すべて本気だと語っている。
「その仕事を受けたら数年は向こうで暮らさなきゃいけないらしいんです。もしかしたら一生かも。そしたら深瀬さんと一緒にいられない」
「は……? いや、いやいやいや、そりゃそうだろうけど、そんなの断る理由になんねぇだろ」
「十分な理由です。断ります。もう決めました」
「バカなこと言うな、会社の信用問題に関わるんだぞ」
中野は俺を睨むように見た。なぜ自分が、責められるように見つめられているのか分からない。明確な反抗心は、自宅モードの俺の姿勢を正させる。
「じゃあ深瀬さんも一緒に来てください」
「俺その仕事ノータッチだから無理。一気に二人抜けたらこっちの仕事も回んなくなるし」
「じゃあやっぱり断ります」
「ダメだっつってんだろ、なに意固地になってんだよ」
「意固地とかじゃないんです、本当にそれが最善の策だと思ってるんです。深瀬さんを手放してまでやりたい仕事はありません」
「手放すって……会社が変わったら別れるとでも思ってんのか?」
「少なくとも俺は耐えられないです。一緒に食事したり同じ空間にいられる幸せがなくなって、深瀬さんがどこで何してるのかも分かんなくなったら俺は頭おかしくなる」
「ガキじゃねぇんだからワガママ言うな」
「俺はガキです」
「開き直ったなこの野郎」
「ガキです、俺は深瀬さんがいないならこの仕事に就いてる意味もない。もし今回の話を断ることが解雇につながるんだったら、喜んで辞めます。深瀬さんとずっと一緒にいれる場所で次の生活費を稼ぐ手段を探します」
耳を疑った。頼りがいのある可愛い後輩のことを、本気で馬鹿なんじゃないかと思った。物理的な距離がなんだと言うのだろう。同じ日本国内、多少の距離が出来たってその代わりに俺じゃ到達もできないところまで行けるようになる。何を足踏みしてんだ、と叱りたくなるけれどそれは誤りなのだろう。俺にとって人生を語るための重要なパーツも、中野にとっては金を稼ぐための一手段でしかない。
「俺はでかい仕事で有名になりたいとか、そんなことは一度も思ったことありません。ただ深瀬さんに近づきたいって気持ちだけでやってきました」
自分がそのとき、どんな表情をしていたのかは分からない。きっとひどい顔をしていただろう。中野のことがさっぱり分からなくなってしまったと、油断した眉や瞳にあらわれていただろう。
「……もうやめましょう、この話。話し合えばどうにかなることじゃないし、もう終わりにしましょう」
「おい……」
「……すみません、今日は自分の家に帰ります」
「……そうか」
「カレー、美味しかったです。ごちそうさまでした」
中野は本当に帰ってしまった。追いかけてほしかっただろうけれど、そうしないことがせめてもの反抗だった。しばらく経ってからテーブルの上に残された皿を片づけようと立ち上がったけれど、一口も手をつけていない2つのカレーに手を伸ばすことができず、ただ過ぎる時間に身を委ねて立ちすくんだ。
中野はとんでもない奴なのに、俺なんかじゃ一生かかっても追いつけないような天才なのに、謙虚で優しくて大馬鹿ものだ。せめてあいつに天才の自覚があればよかった。仕事に関することなら特に、謙虚に振る舞われるたび情けなさで死にたくなる。俺を視界の外に置けば世界へだって羽ばたけるだろうに、中野は小さな四畳半で、俺を殺し続けようとする。
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深瀬さんの実感以上に、俺は深瀬さんのことが好きだ。
「おはよう、ございます」
「……おう」
年を重ねるごと激情の賞味期限は短くなり、翌朝には随分沈静している。その状態で不始末を正さなければならないので、年を重ねるのは面倒なことだ。出勤したとき、深瀬さんはすでにデスクについてせわしなくキーボードを叩いていた。挨拶時には目が合うこともなかった。
「あー……あのファイルどこやったっけなあ……」
パーティションの向こうから独り言が聞こえる。急ぎの仕事など入っていないことは知っていたが、深瀬さんの不器用な優しさに敬意を示したいと思った。怒っているのではなく、不機嫌なのではなく、忙しいから相手ができないというふりをしてくれる深瀬さんがいとおしい。
いつでも正しく、俺の上司でいようとする深瀬さんが悲しい。
はじめて出会ったのはこの場所で、部長の紹介を受けて名を名乗った。かねてより憧れのアーティストだった深瀬さんと、はじめて目が合った。ずっと前から、俺にとって深瀬さんは他にない憧れの人で、深瀬さんにとって俺は数いる後輩のひとり。
当たり前のことを反芻しているうちに時間だけが過ぎて、とうとう会話を交わさないまま一日が終わった。翌日も、その翌日も過ぎ去るのは一瞬だった。
「深瀬さん……」
誰もいない自室に帰るたびふがいなさにたまらなくなって、焦りが募って情けない声まで漏らしてしまう。頑固で常識人な深瀬さんに比べ、俺の発言がただのわがままに過ぎないことは分かり切っているので、改めて話し合う場を設ける度胸もない。このまま会話もなく、部長から具体的な話を切り出されるまでの猶予期間をつぶさなければならないのだろうか。
腑抜けた日々の真ん中、気の抜けた昼休み、背中を丸めて廊下を歩く俺のもとに、決定打が降ってきた。
「中野ぉ」
「……っ、はい!」
後ろから聞き慣れた声。名前を呼ばれるのも久しぶりで、思わず背筋が伸びた。振り返ると深瀬さんは、いつもとなんら変わらない表情をしていた。
「部長が呼んでるー」
「え……?」
「だからあ、部長が呼んでる。ぼさっとしてないで早く行ってこい」
視界がぐわりと揺れた。こんなに当たり前のように、何気ない日常の延長の中で、俺と深瀬さんを引き裂く指令が下される。よりによって深瀬さんが仲介役として俺を呼びにきた。
その前にせめて深瀬さんと話がしたい。感情的なわがままでなく、理性的な理想論でなく、深瀬さんと話がしたい。しかしいつでも良い上司としての姿勢を崩さない彼が、社内でそんな話に応じるわけもない。そうしているあいだに深瀬さんは俺に手を振りながら去ってしまった。
絶望的な気持ちを持て余したまま、部長のもとへ足を運ぶ。誰もいない会議室で、真剣な表情をした部長は、静かに口を開いた。
「この前伝えた話なんだけど……相手方の意向で今回は見送る形になった。正式な依頼として落ち着いてから話せば良かったんだが、つい先走って中野くんに伝えたせいで期待を裏切るような形になってしまって申し訳ない。許してほしい」
苦しそうな表情の部長に対し、どう答えたか覚えていない。とにかく俺はまったく気にしていないので部長もどうか気にしないでほしいという旨を早口で告げ、会議室を飛び出し、残り少ない昼休みの時間を費やして深瀬さんを探した。自動販売機の前に立つ姿を見つけたとき、感情が先走るあまりそこに深瀬さんが立っているという事実だけで涙が溢れそうになった。
「深瀬さんっ!」
「んー?」
「あの! 俺、深瀬さんに謝りた」
「中野ぉ!」
「はいっ!」
「あのさー」
「は、はい……?」
「冷凍したカレー、食べに来る?」
そのときの、深瀬さんの子どもみたいな笑い方がどれだけ可愛かったか。たった数日でも離れられないことを、実感した。
「まあよくあることだよ。他の仕事全部後回しにして相手の希望全部強引に詰め込んで徹夜で仕上げたモンがあっさりボツになったりなんて今まで何回もあったし。そこでお前のデザインが採用されて嫉妬したこともあったなー……なんか懐かしいな」
帰り道、深瀬さんの言葉は大きなプロジェクトを逃した後輩に対する慰め、のふりをしながら、安心感でコーティングされていた。自宅に到着したころには、数日間溜め込んだ深瀬さんへの思いが振り切れた。
「この容器っていきなりレンチンして大丈夫かな? あ、鍋でやりゃいいのか」
「深瀬さんっ!」
「うわ、びびった」
冷蔵庫の前に立つ深瀬さんの背中に、勢いをつけて抱きつく。部屋の匂いも首すじの匂いも体温もたまらなくて、簡潔に表す言葉はひとつ。
「だいすきです」
「知ってるー」
「深瀬さんのことほんと好きなんです」
「とっくに知ってますけど」
「だから深瀬さんも、俺のことを好きになってください」
「は?」
「後輩としてじゃなくて、俺のこと、好きになってください」
職場でも自宅でも、深瀬さんは俺の憧れの人で愛する人だ。だからこそ、職場でなく自宅で、深瀬さんに「先輩としての助言」をされると悲しくてたまらなくなる。でもあの日は間違えた。俺のことを考えてくれる愛してやまない人生の先輩を、むげに扱うべきではなかったと、冷静になってから感じた。
「……俺、別に後輩だからとかそんなこと思ったことないけど」
「そうなんですか? 知らなかったです」
「そりゃお前はよくやってる後輩だけど、そういうことじゃなくて俺は最初っからお前が……お前だから――……」
「……はい」
「…………とりあえずメシ食うか」
「いや、冗談ですよね?」
「やめろはなせ」
「その先はなんですかお前だから何なんですか言ってください言わないとはなしません」
「あーもーめんっどくせぇなお前!」
「ここまで格好悪いとこ見せてたらもう関係ないですなんなんですか言ってください深瀬さん」
タッパー片手に逃げようとする深瀬さんを、後ろからもう一度抱きしめ直す。色気も何もない、子ども同士のようなやりとりができるだけで、十分に幸福だった。
「大体なあ、できる後輩なんてほかにもいっぱいいんだよ、だから……っ」
「はい。そうですね、それでなんですか?」
「だから……、大貴だから好きになったんだろ」
十分に、十分すぎるほどに幸福だった俺の耳に、消え入りそうな甘えた声。抱きかかえた身体が熱い。多分、俺の体温も同じくらいだろう。
「……深瀬さん俺の名前知ってたんですか」
「あほか部下の名前知らない上司がいるか」
「あ、またそうやって先輩後輩の話引き出して……でもいいや、もうなんでもいいや……」
「なんだよ」
「しあわせすぎて死にそうです」
「死ぬな。死ぬ前にカレー処理してってくれ」
「はい。深瀬さんより先には死にません」
「話がデケェよ」
「深瀬さんのことぜったい一人にしませんから、死ぬまで一緒にいてくださいね」
「……プロポーズ?」
「そうです」
「そうですじゃねえよ」
「本当にプロポーズです」
「はは、お前俺にプロポーズしてんの」
「そうです。愛してます」
「はは!」
「深瀬さんのこと一生大切にします」
「はははっ、お前面白すぎるだろ!」
「深瀬さんのこと、死ぬまで大切に、幸せにします」
「はははっ、お前ほんと面白いな、ははは!」
「……深瀬さん」
「はは、はは……っ」
「深瀬さん」
「は……っ」
「泣かないで」
年齢ばかりを無意味に重ねて未だ幼く、頭の悪い俺に思いつく手段はそれしかなかった。婚約者がいるので自己判断で環境を変えることはできません、と真っ直ぐに言うことだけが社会と対峙する唯一の手段だ。冷蔵庫に寄りかかったまま、泣きながら笑う深瀬さんは、おまえほんとばかだよ、とため息をつくように言った。俺という個人に対して、最上級の褒め言葉だ。
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