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【その前のふたり 学生編】
(深瀬さん・中野くん学生の頃の話)
「中野、進路どうすんの?」
子どもみたいに走り回って騒いで楽しんで、長い一日を消化していく俺たちはいつもその言葉の前で立ち止まる。進路とか未来とか。夢とか希望とか。休日の午後、自宅で寝転がっていたところへ、おもむろに友人が切り出した話に漫画から顔をあげずに答えた。
「わかんね。なんか、ノリでどーにかする」
「ノリってお前さー、俺らみたいなのがノリで就職できんのかね?」
「さーねぇ」
将来や未来のことを考えると横っ腹が痛くなるから、今しか考えられないことにも無関心を貫く。選択を間違えたら終わってしまいそうな自分の人生より、何度もニューゲームできる漫画の世界を眺めている方が安全だ。
「そういうお前はどうすんだよ」
「んー……まあ、好きなことで食えたらとか思うけど、現実そんな甘くねぇよなあ」
「あー、美術系?」
「そうそう」
なんとなく仲良くなった友人は、子供のころから絵を描くのが好きで今も休日には美術館やギャラリーへ足を運んでいるらしい。それほどの熱量がありながら、未来という視野で好きなものをとらえられないらしく、適切な距離を置いて鑑賞している。そんな友人の前で、好きなものも得意なこともこれと言ってない俺が、将来にわくわくできるはずもない。
「あ、そうだ。今度の週末、イーストギャラリーってとこに個展見に行くんだけど中野も一緒に行かね?」
「へー、誰の個展?」
「○○美大の学生の人」
「学生なの? ふーん……でも俺そういうの全然分かんね……」
漫画に差し込むように渡されたフライヤーに目を通しながら、反射的に漏れたのは否定の言葉だ。アートとかカルチャーとか、なんだか大層で高尚なものは、どうせ俺に分かるわけがない。そう思っていたのに、フライヤーに大きく印刷されたその人の作品を目にしたとき自分でも無意識のうちに別の言葉が出た。
「……やっぱ行こうかな」
「お、まじで? 行こうぜ、この人本当すげー人なんだよ」
俺は美術で良い成績をとったことが一度もないし、ましてや美術館やギャラリーなんて足を運んだこともない。
それでもその日、ドアをくぐれば緊張やうわついた気持ちに支配される暇などなくなった。壁を覆うように敷き詰められた大小さまざまな作品と、中心を飾る彫刻作品はどれも温度と空気をまとっている。そうして、フライヤーの作品を見て感じた気配に、四方を囲まれたのだから仕方ない。
「なんか、なんつーのこういうの……す、ごいな……」
隣で同じく圧倒されている友人に声をかけるも、互いに何と言えばいいか分からないでいた。すごい、きれい、かっこいい、おもしろい、日常生活で自動手記のように発する言葉はどれも不適切なように思えた。すごいしきれいだしかっこいいのは確かだけれどそうではなくて、足の裏から沸き立つような興奮をどう説明すればいいのか分からず、言葉にする代わりに焼き付けるように作品を見入る。
ふと、顔をあげた友人がさらに興奮したように俺の肩をたたいた。
「あ、中野あそこ見ろ」
「え?」
「ほら、あの人が作家の――……」
友人に指を指され目を向けると、白壁の前で女子に囲まれ困ったように苦笑いしている男性がいる。ラフなTシャツとジーンズの姿で、涼やかな目元に確固たるプライドと意志を秘めて、初めて見た深瀬さんは観衆の視線を集めていた。既に、ヒーローだったのだ。
「俺、決めたわ。やっぱ美術系の進路に進む」
帰り道、友人が口にした決意の言葉に驚きはなかった。あんなにすごいものを見せられたのだから、その結論に落ち着くのは真っ当だ。
「親とか先生の話聞いて、なんとなく『安定』ってしなきゃいけないんだと思ってたんだよ。高い給料もらうとかそういう安定。でも福利厚生の整った会社で鬱こじらせながら働くんだったら、不安定でも自分の好きなことしたい」
誠実に生きる友人を何歩も後ろから眺めながら、俺はと言うと偶然勝ち取った大手企業の内定にしがみついていた。俺みたいなのが大手企業の内定を頂いたのだから、ありがたいに決まっているのだ。しがみつくしかない。友人と会える時間も共通の話も少なくなっても、これでいいのか、と、考えないようにしながら。
「本日より○○部に配属になりました、中野と申します」
職業を割り当てられればやるべきことも当然増える。忙しさにかまけて学生時代よりさらに受動的に月日が過ぎ去るのを眺めているだけでも、「仕事」と思えばなんとなく腑に落ちてしまうのだから怖い。あまりにも恐ろしくなった夜には、衝動的に部屋の掃除をしてみたりして、不安な気持ちに無理やり蓋をした。
蓋を、したつもりでいた。ある日、引きだしから出てきたファイリングされたフライヤーに出会うまでは。
「うわ、懐かし……」
個展のフライヤーは、そのとき目にしても新鮮な感動を与えた。学生時代に比べればいくらか成長しているはずなのに、やっぱりこの恐ろしいほどの感動を言語化する術はない。いつしか連絡をとらなくなってしまったあの友人ならば、うまく表現できるのだろうか。もしくは俺にこの人のような才能があったら。せめて、この人と同じ世界に生きていたら。
昔から嫌いだった「進路」の話が、社会に出てからはじめて視界をかすめたとき、心臓がばこんと鳴った。
今からでもこの人と同じ世界に行くことはできるのだろうか。出来なくはないだろうけれど、きっととんでもなく難しいことだ。昔から絵を描くことが好きだった友人でさえ、その進路を選ぶのに相当な勇気を振り絞っただろう。なんの知識も技術もない俺に何が出来るのだろう。たった一度目にした光景にしがみつくようにその世界へ飛び込んで、いったいどれほど活躍できて、何を得られるのだろう。
これほど、諦めるべき理由が見つかるのに、未だ悩んでいるのはなぜだろう。
「今月いっぱいで、退職させて頂きたいのですが」
働きやすい環境だった、人も良かった、待遇も良かった。辞める理由など見つからないほど勿体ない環境だったらからこそ、俺の願いは思いつきのようにしか聞こえなかっただろう。直属の上司は呆れていた。常務は「最近の若い子は根性がない」と一般論を語るように直接的に責めた。
その日の帰り道は、頭の中で絶えず音楽が鳴り続けていた。速くてうるさくて明るい音楽だ。あまりにうるさくて速足になる。足がもつれる。鼓動が速くなる。走る。息が乱れる。苦しいのに、それ以上にうれしくて足を止めることができない。これがきっと希望であり夢だ。あの人に会いたい。
俺は、あの日見たTシャツにジーンズ姿のヒーローに会いたい。あの人みたいになりたい。その気持ちだけでどこへでも行ける気がした。
(そして01へ)
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