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【その後のふたり 女社員編】
(モブ女子社員視点)
「だからァ、何回言ったら分かんだよ。こういうケースならそんなことしなくていいんだよ、初心者みてーなミスいつまでもしてんな。さっさと覚えてくれ」
深瀬のことは、説教くさい男だ、と思っていた。
「あ、コピー機使ってる?」
「あっはい。良かったら、私やっておきましょうか?」
「あー悪ぃね。A4で50枚よろしく」
「はぁーい」
自分の分と上司に頼まれた分の書類を持ってコピー室を出て、部署に戻ったときもまだ説教は続いていた。叱られているのは、中途採用の中野くんだ。別業界の大手から、うちのような中小企業にやってきたときは、社内で話題になっていた。きっと深瀬が入社したときも、こんな風になっていたのだと思う。
入社早々に深瀬の存在について強く意識したのは、部署の違う私のもとへも「お前の同期の深瀬って奴すごいんだな」と噂が回ってきたからだ。その頃の私はモチベーションも上々だったので、早くも好成績をあげている同期に負けはしないと、勝手に敵対視していた。
「すみませーん、先ほどのコピーです」
「おー悪いね。……あれ、なんでモノクロなの」
「え? あ、カラーコピーでしたか? すみません、聞いていなかったので……」
「はー……、なに、俺が言ってないのが悪いって言いたいの? 聞いてなくっても分かんだろ」
「……すみません。やり直してきます」
誰にも手にとってもらえない、回転寿司の余り皿のようだ。
会社の方針が変わり注力していたプロジェクトが破綻したあと、色んな部署をぐるぐる回らされる自分のことを客観視したところで、お茶くみOL以上の何かになれるわけではない。むなしい気持ちで飛ばされた先で、はじめて向き合った深瀬という人は私のすさんだ心にちょうどフィットしたのだと思う。
「あの……大丈夫?」
「えっ?」
「さっき、かなりきびしく言われてたみたいだから」
昼休み、財布を持って会社を出ていく中野くんを見つけ、思わず後を追ってしまった。中野くんは、少し驚いたような表情を見せた。
「え、深瀬さんのことですか」
「うん。私あの人の同期なんだけど、ちょっと苦手なんだよね……結構感情的な物言いするでしょ。もっと言い方ないのって思っちゃう」
「あー、確かに言葉キツいですよね。さすが体育会系出身って思いました」
そう言って笑う中野くんの横顔が晴れやかで驚いた。同時に、自分の能力不足を棚にあげて共通の敵を作り、愚痴をこぼそうとした自分の稚拙さを意識して恥ずかしくなる。
会社の外へ一歩出ると、きびしい日差しが照りつけている。たいいく、という言葉から連想するだけで、首筋を汗が流れていくような気がした。
「……ていうか深瀬って体育会系出身なの? そもそもそれ知らなかったんだけど」
「らしいですよ。子どもの頃から色んな少年団入って、野球とかサッカーとかバスケとか、一通りやってきてるらしいですね」
「ふーん……子どものときから絵とかデザインが大好き、ってタイプじゃないんだ。そりゃ天才だわ」
「なんでもできちゃう人なんですよね、本当すごいですよね」
ためらいなく褒める中野くんの前で、私の分かりやすい嫉妬心だけが取り残される。あちこちのオフィスビルからスーツ姿の人々が出てきて、誰もがすでに疲弊しきった顔をしている。中野くんは、その真ん中を堂々と歩く。
「はたから見てると、深瀬は少しきびしすぎるんじゃないかなって思うんだけど、中野くんとしてはどう?」
「んー、そうですね。たまに凹むこともあるんですけど、凹むっていうのはやっぱり、深瀬さんの指摘が的確だからだと思うんです」
「ふーん……」
「それに深瀬さんは毎回、ありがとうって言ってくれますから」
「ありがとう、って?」
「どんなに厳しく叱ったあとでも、ちゃんと成果を出せば『ありがとう』とか『悪かった』って言ってくれるんです。深瀬さんのそういうところが大好きです」
夏の日差しがぱたぱたっと頭の上に落ちてきた。それに目を奪われ、反応が遅れた。中野くんは、甘くとろけるような目で、道路の向こう側を見ていた。驚いた。そこに深瀬がいるのかと思った。もちろんそんなわけもなく、交差点を渡り、その先の弁当屋にたどり着く。
「あ、今日の日替わりしょうが焼きなんすね。じゃあしょうが焼き弁当大盛りで1つと、ヒレカツ弁当1つ。あとしじみの味噌汁とポテトサラダと単品餃子ください。……決まりましたか?」
「え、あ。じゃあ、チーズハンバーグ弁当ひとつ」
注文をしてから弁当が用意されるまでの短い時間、何気ない会話をきっかけに、またひとつ新しいことに気がついてしまった。
「結構食べるんだね」
「そうですね。深瀬さん最近体重気にして揚げ物食べないんですけど、弁当でもラーメンでも毎回大盛り頼んでるし、絶対サイドメニューつけるからあんまり意味ないですよね」
……ん? 私の「結構食べるんだね」は、注文した弁当をすべて中野くんが食べるのだろうと思ったからで、そうでないのならそれはひとつ納得できるのだけど、なに、何だ、中野くんは深瀬の分まで買いに来ているのか。しかも好きそうなメニューまで把握していて、それがあまりにも当然のことすぎるから、私が「深瀬はよく食べる人だ」と言ったと思っているわけで、それに笑いながら答えていて、なんていうか、なんだ、それは何だ。
完成した弁当を受け取って、オフィスへ戻るあいだにも悶々と考えこんでしまう。その姿は、中野くんの目に不審に映ったのだろう。
「あの、気になりますか、やっぱり」
「え? な、なにが?」
「さっきから、深瀬さんのこと、たくさん聞いてくるじゃないですか。気持ちは分かります、やっぱり気になりますよね」
やっぱり、って何だ。ていうか何だ。なんで中野くんは、そんなに深瀬のことを。
「……深瀬さんのこと、好きなんですか?」
風も吹かない生ぬるい正午、コンクリートから立ち上る照り返しの熱に平手打ちされた気分。中野くんの目もとは、深く沈んだ色をしていた。
「……まさか」
聞きたいことはたくさんあるし例えば同じ質問を返してみたい、けれど頭が働かない。どうにか搾り出すように、その一言を口にした。
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数日経ってからも、あの日のことをふいに思い出し、その度に頭の上に太陽が落っこちてきた瞬間の暑さを思い出してしまう。あの日、中野くんはオフィスに戻るなり深瀬に弁当を届けて、ふたりでどこかへ消えていった。午後一番の深瀬は少し大人しかった。でもまた夕方ごろからいつもの怒号を飛ばしていた。そしてふたりで一緒に帰っていった。
コピー機から排出される大量の紙を見つめながら、その光景に取り付かれてばかりいる。
「あ、コピー機使ってる?」
「……もう終わるとこ」
コピー室に入ってきたその人に声をかけられた瞬間、思わずびくりと反応してしまった。すぐに平静を装って、深瀬に向き合う。相変わらず深瀬は、きびしい目をしている。
「お前さ、もし暇だったら――……」
「あ、昨日作ってたクラウド上のデータなら出力しといたよ、A4カラーで10部ずつ。一応グラフ入りのやつとなしのやつ両方刷ったから、使えそうなほう持っていって」
「お、おう。ありがとう、助かった」
深瀬は一瞬驚いたような顔をしてから、素直な言葉をこぼした。きびしい目とのコントラストに、和やかな気持ちになる。
「中野くんが褒めてたよ、そうやって毎回ありがとうって言うとこ」
「……あ、そ。あいつ生意気だな」
なんの前触れもなくその名前を放り込んでみた。深瀬は何か思ったのだろうけれど、飲み込んで先輩らしく振舞っている。しかし、目元はやさしい。
「……顔に出てるよ」
「えっ!?」
もう一度放り込んだ言葉は見事命中。深瀬は一気に顔を赤くして私を見た。自分にも他人にもきびしく、嫉妬や反感の対象になりやすい、かわいげのない男だと思っていた。いたのに。
「待て、待てお前、何が出てたんだよ言ってみろ」
「いや別にー? 私もう戻るわ。だらだら喋っててあんたの彼氏に勘違いされても嫌だし」
「は!? ちょっと待てお前ほんと、誰だよ彼氏って誰のこと言ってんだよ」
「え、名前言っていいの?」
「いや、ちょ……、待て!」
今、中野くんにあのときと同じ質問をされたら、少し、と答える。
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