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ある日の夕方、窓が濡れていることに気がついた。外回りから帰ってきた営業部の同期は、頭のてっぺんから革靴の先まで濡れていた。話を聞くとひどい雷雨に見舞われたらしい。どうやら明日の朝に向けて更にひどくなる一方だそうで、お前も早く帰った方がいいぞ、と言われた。 こんな日に限って、明日の朝までに終わらせなければならない案件がある。 「あー……ちくしょー……」 定時などとっくに過ぎ、ほとんどのフロアの電気が落とされてしまうと、闇と無音だけが佇む。湿気たフロアに、俺の唸り声が響く。 どうにかしてようやく仕事を片付け時計を見ると、終電が発車する時間がすぐそこまで近づいていた。雨の中駅まで走る気力はまるでなく、とりあえず重い身体を持ち上げると、パーティションの向こうにディスプレイを見つめる影があった。 「……おい」 「はい?」 「お前、終電とか大丈夫なの?」 中野は反射的に俺を見て、暗闇とディスプレイの明暗差に目元をこすった。そのまま頬を叩き、眉を垂らして笑う。 「大丈夫です」 「え、お前何線? 終電何時なの?」 「うちのほう終電早いんで、もう出ちゃってるんです。元々ネカフェ泊まるつもりだったんで」 「は? うそだろ、お前そこまでしないとやばいくらい立て込んでたのかよ? 言ってくれれば手伝ったのに。うち残業代なんてほとんど出ねえぞ」 反射的に言った直後、日中の自分の言動を省みて口をつぐんだ。頼る中野をはねのけたのは俺自身なのに、どの口が言えるんだ。しかし中野は、軽やかに笑いながら顔の前で手を振る。 「あ、いえ。違うんです。やらなきゃいけないことは今のところ、どうにかなってるんです。でもとにかくツールに慣れてないんで、空いてる時間でちゃんと練習しようと思って。自宅は作業環境が整っていないので、始業前と就業後にやらないと」 「へえ……」 「あ、もちろんタイムカードはもう切ってますよ」 背後から腰をかがめ、ディスプレイを覗きこんだ。先月まで俺が担当していた居酒屋のフライヤーは、今中野が担当している。ほかに人の居ない静かなフロアで改めて目にする中野のデザインは相変わらず、良い。きっとクライアントも喜ぶだろう。俺のデザインなどすぐ忘れるだろう。 「……なんでこんなにがんばってんの?」 「え?」 「あ、嫌味とかじゃねえからな。ただ、大手出版社様に比べたら給料もいいわけじゃねーし、やりがいだってないだろ。慣れないツールの遣い方も一から覚えなきゃいけないわけだし、先輩はめんどいタイプだし、なんもいいことねえのにすげえバイタリティだなと思って」 たしなめるようにしながら、こぼれたのは己の不満と自虐だった。中野のひたむきな姿を見ていると、才能も薄れていくなかでかい面をして不満を垂れ流してばかりの自分が小さく見えるのだ。だからこそ、共有したいと思った。中野が俺に同調すればいい。中野が愚痴を吐けばいい。 「忙しいのも大変なのも、一応覚悟していたつもりです。それよりも、やりたい仕事にやっと就けたからむしろ毎日楽しんでますよ」 「ふーん……」 「こないだ、深瀬さんがおっしゃっていた言葉に感銘受けたんです。時間をかけて百点を出しても意味ないっていう」 「ああ……」 反射的に、そんなの忘れていい、と言いそうになった。たぶん俺は中野に嫉妬しているのだと思う。中野と、記憶の中にしか住んでいない若い自分に嫉妬している。絵を描くこと、文字を組み合わせること、新たなデザインを提案すること、廻り道をしながらソフトをぎこちなく遣っていくことと、すべてが新鮮だったころのあの感覚を今取り戻せたらどれほど幸福だろう。 「あー俺の憧れてた世界はこういう世界なんだ、って思ったらなんか妙にわくわくしてきちゃって、だったら毎日百点出してやりたい、って思っちゃったんです。生意気ですけど」 半端に社会に染まってしまった俺は新鮮な視点もなく、かと言って玄人の小慣れ感もない。なりふりかまわず、まっすぐに努力して着実にレベルを上げていくことを格好悪いと思ってしまっている。年齢を理由にせっかちが加速し、一段飛ばしで成果をあげる方法を探している。唯一できるのは何も知らない新人へ偉そうに説くことだけ。しかし中野はどこまでも素直に、真剣に、俺の嫉妬にまみれた言葉を受け止める。 ああたぶん俺は、中野みたいになりたいのだ。 気づいたら泣きそうになった。いや、きっとずいぶん前から気づいていたのだろう。つらくなると分かっていたから見ないふりをしていたのだ。薄暗闇の中、清潔な決意表明とともに意識してしまえば死にたくなる。俺は無理やり顔を上げた。 「でも今日はさすがに切りあげた方がいーんじゃねぇの? なんか台風も近付いてるらしいし」 「え、そうなんですか。じゃあそろそろ帰ります」 中野はパソコンをシャットダウンし、立ち上がった。戸締りを確認していると、ふいに中野が口を開いた。 「あと」 「ん?」 「俺深瀬さんのこと『めんどいタイプ』なんて思ったこと一回もないですよ、むしろ好きなタイプです」 思わず振り返った。中野は俯いて上着を羽織りながら、静かに間違いを正すように、ひっそりと呟いた。 「……す、」 「はい?」 「好きってなんなんだよ気持ちわりぃな、おら帰るぞ」 「はーい」 言葉の余韻を振り払うように身を翻すと、中野はにこにこと笑いながら俺についてきた。あー俺やっぱこいつ好きじゃないかも。こいつ絶対モテるもん。
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