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08
中野は躊躇なく俺の布団をひっぺ返した。油断していた俺の指先から、布団は一瞬のうちに逃げ出していった。抵抗する暇もなかった。
次いで、唇が降ってきた。先ほどまでの優しい表情はどのへやら、乱暴に、とにかく呼吸さえ自由にできないように塞いでしまおうという気迫がにじみ出たキスだった。苦しさと驚きは確かにあるのに、きっと中野はほんとうはキスが上手いんだろう、と冷静に考えている自分もいた。
俺は覚悟を決めた。強く胸を押し返し、いちど顔を逸らしたあと改めて中野の顔を見た。
「わ、かった」
「……はい?」
中野はやっぱり複雑な表情で俺を見下ろしている。世界の端にひとりだけ取り残されたような、心細げな表情だ。
「俺だって大の大人に泣きそうな顔されたら居心地悪いんだよ、お前の最終的な目的がなんなのか知らねえけど、お前だって無理やりヤっちまうのは嫌だろ」
「……はい」
「コキ合うくらいは付き合ってやる。でもそれ以上は駄目だ。それでいいか?」
「え、いいんですか」
中野はようやく、少しだけ表情をゆるませた。俺は静かに頷く。どうせよくない形で一線を越えてしまうのなら、腹をくくってしまうほうが泣きそうな顔をされるよりずっといい。子供をなだめているような気持ちのまま、身体を起こし決意とともに自分のスウェットに手をかけた。
「……で」
「で?」
「ど、どうすりゃいいんだよ」
「えっと、じゃあ壁に背中つけて座ってください」
下着姿になった俺はとたんに羞恥を思い出してしまった。布団を取り払われたマットレスの上は自分でも覚えがないほど広く静かだった。言われた通りに座り直すと、中野は顔を覗きこんで唇を寄せた。しまった、コキ合うだけとは言ったもののキスの有無は決めていなかった。そのキスは、強引にされたキスとは違う味がした。しかしだからどうだと言うわけではない。お互い中高生ではないので、唇が触れあうことで無意味に緊張することもない。余分な感情を伴わない、どこまでもドライなキスだった。
なぜキスしてるんだろう、とかなんで男同士で、なんてことを考えなければそれでいいのだ。考えなければ、部下と触れあうことなどなんでもないのだから。
「……ん……っ」
キスに気をとられていたため、突如現れた手が下着の中に潜りこんだ際思わず声を漏らしてしまった。薄く目を開けると、中野がいつの間にか貸したジャージと下着をずらし、その部分をさらけ出しているのが見えた。
「深瀬さん……触ってください」
「は……っ?」
「こきあい、でしょ? しようっていったの深瀬さんですよ」
そのとに俺は、たぶん生まれてはじめて、形を変えている男のそれをまじまじと見たのだった。
自分のものならいくらでも見慣れているというのに、他人のそれにはまったく別物の迫力を持っていた。
しかし、ここでやっぱり嫌だと言うわけにはいかない。俺はおそるおそる手を伸ばし、硬くなったそれを握った。てのひらの繊細な神経が、中野の硬さを受け入れた。皮膚と心、どちらで受け入れるほうが楽なのだろうか。
「はぁ……深瀬さん……」
「は、……ん……」
昨日まで、いや今朝までこの部屋は絵を描くための場所だったはずだ。そして今朝まで、目の前の男はものすごく苦手な新入社員だったはずだ。定時を過ぎたオフィスで目をこすりながら作業に取り組む中野を見てから、いろんなことが変わっていった。
二人の吐息が部屋を埋め、空気が音もなく震える。中野は俺の呼吸を確認しながら柔軟に手の力を強くする。気を抜くと声が漏れそうになるが、なるべく避けたい。すぐに酸素が足りなくなり、それに準じて体温が上がる。なにもわからなくなる。
「ん、はぁ……」
「あ……深瀬さん……」
性欲とは恐ろしいものだ。自分の世界では有り得ないはずのことが起きていても、その部分を握られているときは何も考えられなくなる。真っ白な世界の中で、込み上げる射精感をはやく解放したくてたまらなくなり、中野の手の動きのことしか考えられなくなる。
「は、あ……っ」
「深瀬さん……深瀬さん」
中野はしつこく俺の名前を呼んでいる。なにか言いたいのが、分かる。なにか言いたくてたまらないのを、荒れる呼吸に合わせ細々と消化しているように見える。
しかし俺は今の瞬間、性欲を満たすためだけに生きている動物だった。了解もとらずに射精してしまい、中野は驚いて腹部に零れた精液を見た。恥ずかしくなり、ごまかすように手を速く動かすと中野もすぐに射精した。
「はぁ……っ」
「は……あ、ティッシュそっちに」
射精のあと、男二人を包むのは甘くとろけるスイートな空気ではない。倦怠感と不服な溜息のように重い呼吸の音だけだ。
「深瀬さんすきです」
そんな中で中野は、俺に告白を、した。
驚いて顔を上げると、中野にとっても事故のようなできごとだったらしく、同じように驚いて俺を見下ろしている中野がいた。中野はすぐに視線を逸らし「ティッシュどこですか?」と聞いた。そのままその言葉について言い訳もなにもなかった。窓の外では、雷雨が激しさを増している。
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