過保護と日なたの知り合いたち

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過保護と日なたの知り合いたち

ときどき、伊勢隆義という人のことが分からなくなる。 「林檎食いますか」 「……りんご」 暗喩か隠喩かと思っていたけど、小皿に入れて差し出されたのは確かに林檎だった。皮がついたまま、ざくざくと不ぞろいに切られた林檎。普段、キッチンに立たない人が、お湯を沸かせるのにも俺にやらせる人が、スーパーへ行ったって青果売り場を真顔ですり抜ける人が、林檎。 「そんなめずらしい食い物ですかこれ」 「……いや、伊勢ちゃんは包丁使えんのかぁと思って感心してた」 「俺のことサルかなんかだと思ってます?」 「これ、買ったの?」 「親戚が作ってて、いつもこの時期になると実家に送られてくるんですよ。そんでうちにも送られてきました。半強制的に」 「あーなるほどな。あ、うまい」 「そうなんすよ。うまいはうまいんですけど、バカみたいな量あるんで覚悟してくださいね。男2人ならいっぱい食べるでしょとか言ってガンガン送ってきたんで」 「え?」 思わぬ言葉に手が止まった。伊勢ちゃんは何食わぬ顔で、しゃくしゃくと林檎を噛み続けている。 「え、伊勢ちゃん、俺と住んでること家族に言ってあんの」 「あぁはい。これ送るときに住所教えてって言われて、伝えて、『引っ越したの?』って聞かれたんで」 「え、なんて言ったの」 「『先輩の家に転がり込んでる』って言ったら『迷惑かけるんじゃないわよ』って。『女の子の家じゃないでしょうね』って言われたから、正直に『男の先輩』って言いました」 「あー……」 同居相手が男と聞いて、きっとお母さんは安心しただろうけれど、そこに欲しかった「安心」の形はないだろう。質問そのものが、自分の息子は女性を恋愛対象にしているという前提のもとでしか成立しない。その前提もろとも覆されたとき、一度も会ったことのない彼のお母さんはどのように反応するのか検討もつかず、自然と自分の両親の反応を反芻してしまう。できるなら今すぐ忘れてしまいたいことなのにも関わらず、無意識でしがみついている。 「お母さん、ルームシェアかなんかだと思ったのかな……」 「まぁ、そうじゃないすか?」 「あんまさ……正直になりすぎんのもよくないんじゃねぇかな」 果汁にぬれた口もとをぬぐって、伊勢ちゃんが顔をあげた。きびしい目の奥の色に、少し、あせった。 「いや、自分の場合は結構親とゴチャゴチャしたから。まあ余計なおせっかいだろうけど……やっぱ、親は深刻に考えると思うんだよね。男と一緒に住んでてさ、そこでちょっとでも『あれ?』って思うようなきっかけがあったりしたらさ。だからまー……なんつうか、俺のことは」 「隠せってことですか?」 「いやまあ、嘘つく必要もないけど。でもあんまり核心っぽいことは、別にわざわざ言う必要もないだろうしさ。それがきっかけで、一緒にいられなくなっても困るし」 「……」 「嘘ついたりしたら、それはそれで怪しいんだけどさ。でも変な心配とか、ショックとか、そういうの避けたいじゃん。だから俺は」 「林檎」 「え?」 眠いときも、お腹がすいたときも、嫉妬しているときも、あんなに分かりやすい人なのに、ときどきどうにもこうにも読み取れない表情をする。 「なんか、パサパサしてますね」 伊勢ちゃんは、眉間にしわを寄せる。そう言いながら、数秒後には皿が空になっていた。 ところで、もうとっくにばれているだろうけれど、俺は本当に本当に、心の底から伊勢ちゃんのことが好きだ。世界中の人に堂々と宣言できるし、手をつないで外を歩いて、目を見ながら家族や友人に挨拶できたら、そのほうがいいに決まっている。 「このページでは、要するに、日陰の女、ということで、相手が世間様には公表できない、隠すべき相手であることを暗喩しております」 その日の午後の授業は、教科書とにらめっこをして行間の奥の奥を読んでいく内容だった。ゆったりとした口調で丁寧に話す教授の声に揺さぶられ、腹の膨れた午後一番、隣の席も前の席も眠気と戦う中で、俺は林檎の味を思い出していた。 俺は本当に、本当に伊勢ちゃんが好きなので、伊勢ちゃんを日なたに連れ出すのが難しい。伊勢ちゃんにいやな思いをしてほしくないので、日なたに良いことなんてないのだとおかしな方向に強がってしまう。 伊勢隆義は、日なたで好奇な目に晒されるなんて耐えられない人だろうから。 「あ、高岡。お前も授業終わったとこ?」 「おう」 「俺もー。キャリア系の授業ですげー眠かったまじしんだ」 授業終わり、廊下で声をかけてきた大瀬という同級生は、確か伊勢ちゃんと同じ授業をとっていたはずだ。伊勢ちゃんは俺と違って次の授業があるはずだが、少しでも顔を見れないかと辺りを見渡していると、ふいに突拍子もない言葉が落ちてきた。 「今日、伊勢の発表聞いたんだけど、なんか……伊勢の失恋って結構エグめだったんかなとか思って」 「は?」 失恋? 誰が? と、言わずとも顔に書いてあっただろう。大瀬は話し始める。 「今日の授業内容が、ライフプランニングの発表するやつでさ。伊勢が選ばれたんだけど先生から結構ツッコまれててさ。まあ要は人生設計が甘い、みたいな話なんだけど、その中のひとつに『今後君が結婚したときに、どうするの?』って質問があって」 「……」 「そしたら伊勢、間髪入れずに『自分は結婚しないので』って言ったんだよ」 驚いた。伊勢ちゃんが、多くの人の前であらゆる誤解を招く発言をするなんて。しかしすぐに気がついた。その言葉はきっと、本来ならば俺に向かって言いたかった言葉だ。 家族の前では俺の存在を隠すべきだと言ったとき、伊勢ちゃんは少し口を開きかけて、結局反抗することなく黙って林檎を噛んでいた。俺に言いたくてたまらなかっただろう言葉を、吐き出せないまま学校へ持ち込み、極端な結論にして、俺のいないところで、口にしたのだ。 「教室中しんとしちゃってさ、先生もさすがにツッコめなかったんだろうけど『そうですか』って言ってそのまま流れて。すげー変な空気だった」 それを、できるか分からない、とか、考えていない、とか、濁す言葉はいくらでも見つかったはずだ。それをすべて跳ね除けて「しない」と言い切ったとき、きっと伊勢ちゃんの言葉は誰かの「もしも」を跳ね除ける断定だったのだろう。 「伊勢ってさ、最近そういう感じなんだよな。なんか変わったっつーか、別に悪い意味じゃなくて……んー。昔だったら『こういう子と付き合いたい』とか『こういう奥さんがほしい』とか言ってたのに、最近しねぇから。もしかしてエグい失恋とかして、もう恋愛なんかしませんモード入ってんのかなーって」 周りの人は大瀬のように、ひどい失恋を経験したと思っているのだろうか。それとも、結婚できない相手と恋をしていると、正しい意味合いで解釈しているのだろうか。誤解も、正しさも、きっと伊勢ちゃんにとって快く思えない好奇の対象だろう。それを、なんで、どうして。 授業が終わって、バイトもなくて、伊勢ちゃんの授業が終わるまでにはまだ時間があって、そして何より混乱している俺は、次の授業へ向かっていく大瀬と別れ、よく分からない足取りに導かれるようにまっすぐ帰宅した。とりあえず帰宅した。ドアを開けて玄関に入ってドアを閉めて社会との隔たりを作った。 途端に、糸が切れた。ぷつん、ぶちん、とちぎれるように。その場にずるずるしゃがみこんだ。膝にひじをついて、顔をおおって、腹の底から響くみたいな声が漏れる。 「あー……かっわいい……」 きっとひとりぼっちのような顔をして、それでも確固たる意思をもって、俺と、自分の家族に言うべきことを、無関係な生徒たちの前で発表する伊勢ちゃん。それは愛の告白より勇気のいることだ。この目で見てもいないのに、うわさ話で構築したかりそめの寸劇で恋をした。そういう君のことを好きになってよかったと、安心してまた好きになる。 「あぁ……心臓いてぇ……」 俺は伊勢隆義のことが本当に好きなのに、彼のことをまだまだ理解し切れていない。伊勢ちゃんは俺の頭の中の存在より、何倍もたくましくて美しい。日陰に隠れていなければいけないデリケートな人じゃない。俺を日なたへ導く人だ。 「ほんとに好きだ……」 床に手をついて、崩れながらどうにか靴を脱ぐ。立ち上がってもまだ、ぬるい愛の衝撃でふらふらしながら歩いていたら、置きっぱなしの段ボールに足の指をぶつけた。届いたばかりの段ボールは、行き場を失い廊下に鎮座している。 なんとなく落ち着けるかもしれないと思って、段ボールから林檎を取り出して、そのままかぶりついてみた。やっぱり美味しい。おもしろくない話に添えられたとき、伊勢ちゃんは八つ当たりみたいに林檎にケチをつけていたけれど、やっぱり、本当もうこれは間違いなく美味しいよね。面白くなさそうな顔で、渦巻く気持ちをなおも渦渦渦渦させたまま、思わずぜんぶ食べ切ってしまうくらい。がまんなんかできないくらい。ああかわいい、今すぐ抱きしめたい。きっと今、大教室の後ろのほうの席で居眠りをしている背中を抱きしめてキスしたい。溢れかえったいとおしさが林檎から溢れる蜜と混ざって、手首のほうまで流れていった。
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