亜澄ちゃんと兄と彼氏

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亜澄ちゃんと兄と彼氏

はじめまして高岡亜澄です。高校生です。勉強は教科によってできたりできなかったり。運動の方がまあ得意。と言っても普通。料理ができるわけでもないし女の子らしい趣味があるわけでもないし。普通普通とにかく普通。 そんな私のあまり普通じゃないところと言えば。 「あれ、伊勢ちゃんもう風呂入ったの?」 「あーはい。お母さんが寝る前に『今お風呂あいてるから入ってね』って声かけてくれたんで、お言葉に甘えて」 「えーなんだよ入るなら俺にも言えよ。一緒に入りたかったのに」 「何言ってんのバカじゃないんですか」 「伊勢ちゃんは入りたくない?」 「……家帰ってからでいいでしょ」 「あ、いいんだ。いつも『狭いんだから一緒に入る必要ないでしょ』とか言って嫌がるのに」 「いや別に嫌がってるわけじゃ……」 「嫌がってないの? じゃあ一緒に入るの好きなんだ?」 兄が、男の人と付き合ってるということくらい。 「いやでもそれは私の話じゃないしなー」 「うあっ、亜澄ちゃん!?」 思わず口をついて出た独り言に、伊勢さんの肩がびくりと跳ねた。居間でテレビを眺めるふりをして、二人のやりとりを見守っていた私の存在に今はじめて気づいたらしい。 「何びびってんの伊勢さん」 「い、いや。亜澄ちゃんは自分の部屋にいるのかと思ってたから、ご、ごめんね気づかなくて」 「さっきからここにいたよー。てかそんなビビんなくてもお兄ちゃんと伊勢さんのいちゃいちゃ見飽きてるから大丈夫」 「いやっ、ちが、大丈夫って何……!」 大学進学とともに家を出て行った兄が、この人を連れて帰ってきたときは驚いた。それでも、兄と伊勢さんのやりとりを見ていたら二人がこうした関係に落ち着くことはごく自然に思えた。たとえ兄だろうと妹だろうと、それ以上の感情を抱く必要はない。母もきっと同じだったのだろう。 そんな私たちの反応を見たからか、兄はこのところ、伊勢さんを連れて頻繁に帰ってくる。 「あ、亜澄。昼間言ってたやつ買っといた。テーブルの上に置いてある」 「えっまじで! あ、ほんとだ! ありがとー!」 見ると、昼間CMを見ながら何気なく「これ使ってみたいんだよねぇ」と呟いた制汗剤が、テーブルの上に置かれていた。普段は車という交通手段がなく、満足に買い物へ行くこともままならないからこそ、兄が頻繁に帰って来てくれることではじめて達成される小さな喜びはたくさんある。 そのまま、お風呂上がりの伊勢さんと兄と三人でテレビを見ていると、ふいに兄が口を開いた。 「そういやさ、テレビ変わってない? 買い換えたの?」 「え? このテレビに変えたの結構前だよ、お兄ちゃんが高校生んときの話だよ!?」 「……そうだっけ、覚えてねぇわ」 確かに、その頃の兄は自宅を空けがちだったので、家電が変わってもインテリアが変わっても、気付くはずもないだろう。『その頃』について知らない伊勢さんは、信じられない、というような表情を見せる。 「え、高岡さんテレビが変わったの今気付いたってことですか? 自分ちなのに? やばくないですかそれ」 「俺あんまテレビ見ねぇし、あんまり家にもいなかったし」 「まじすか。不良ですね」 「……そうかもね」 兄は、伊勢さんの言葉に目もとをほころばせる。何気ない所作から、兄にとって『その頃』がただの過去として風化していることが分かる。 今だから言えるけれど、私はあの頃、兄という人が怖かった。 もともと内向的だった兄は、高校に入学するといよいよ家族とのコミュニケーションをシャットダウンした。父はその様子が許せなかったらしく、派手な喧嘩をするたび兄はますます無口になる。言葉として吐き出されないざらついた感情がどのように発散されるのか、想像するだけでも胸が苦しくなった。 「うわー、俺ヤンキーとかまじ無理。ちょーこわーい」 「いや別にヤンキーじゃねぇから。そもそも俺怖い要素ないでしょ」 「え、結構怖いっすよ。寝起きの機嫌悪いときとか」 「いや、寝起きの悪さは伊勢ちゃんに言われたくねぇわ」 「あと、人と喋ってるときたまに人殺しみたいな顔してますよね」 「あー……それはあれでしょ、せっかく伊勢ちゃんと喋ってたのにめんどくせぇ奴に絡まれたりしたときでしょ。俺、伊勢ちゃんにはいっつも優しいよね?」 そのとき伊勢さんと目が合った。その目は、こちらをうかがう弱気な子犬のようだ。妹の存在などおかまいなく、いつでもどこでも前触れなく恋人モードに切り替わる兄に比べ、伊勢さんはどこまでも常識人なのだ。 「……あ、そうだ。洗濯物しなきゃいけないんだった」 そこで立ち上がるのは不自然だっただろうか。最後に視界に入った伊勢さんの顔は、赤く染まって見えた。 二人がいちゃいちゃするのに十分な時間を置いてから、自室を出る。シーツ類を持って戻ってくると、兄が台所に立っていた。 「亜澄」 その指は、シンクに置いたまま、まだ片付けていない洗い物を指している。 「これさ」 「あーごめん、すぐやるからちょっと置いておいて」 洗濯物を持ったままだったので、まずそちらを片付けてから洗い物をしようと思ったのだ。それは、考えるより先に言葉が出てくるくらい、自然なことだった。 「……いや、そうじゃなくて。これ、俺やっとくからって言おうとしたんだよ。お前一人で全部やんなくていいから」 「え?」 「こういう洗い物とか、洗濯物とか掃除とか、気づいたらやってくれてるけど、そんな『自分の仕事』みたいに抱え込まなくていいから。もっと俺たちのこと頼れよ。家族なんだから」 「……あ、うん。ありがと」 腕まくりをして、食器用洗剤に手を伸ばすその姿は、まるで別人のように見えた。 一人きり、洗濯機の前に立つ。台所から響いてくる、皿のぶつかる音を聞きながら、つい今しがたの言葉を何度も反芻するうち、幻だったのではないかと思えてきた。現実味がないほどに、兄の言葉は優しく、まるく、いつかの印象を消し去ってしまう。 兄が変わっている。新しい家族のおかげで。 「高岡さん、マグカップ置きっ放しでしたよ。こっち手伝います」 「あ、ごめん忘れてた。ありがと」 「家でも言いましたけどコーヒー飲んだら色素残っちゃうから早めに水につけといたほうがいいですよ」 「はいはいすいません」 「……あ、今こいつうるせぇなって思ったでしょ? 小せぇことでグチグチ言いやがってって思ってんでしょ?」 「思ってない思ってない。かわいいなあって思ってる」 「……全然反省してねぇ!」 「違う間違えた、反省してるよごめんね」 「どんな間違え方だよまじイラつくわ」 「はは、かわいいねえ」 「なんなの!?」 二人の他愛ないやりとりが、静かな洗面所にまで届き、無色の空間を満たす。思わずこぼれた笑いが、渦を巻く洗濯物に吸い込まれ溶けていく。
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