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別世界線の付き合う前
(本編と違う世界線の付き合う前設定)
(高岡、伊勢、高岡さんの同級生・大瀬さん、伊勢ちゃんの同級生・清水くんという謎メンツの四人飲み)
「伊勢えー! もっと飲めおらあー!」
「うっわうっぜーやめろや!」
安さといつでも空いていることだけが魅力の居酒屋は、今日も特有の蒸した空気がこもっていた。何の味もしない刺身をつまんでいると、ふいに隣に座る大瀬さんが肩に手を回してそのまま口元にビールジョッキを押しつけられたので、身体をねじり拒否を示す。
「大瀬お前いい加減にしろよ」
俺が何か言うより素早く投げかけられた高岡さんの声は、妙にざらついていた。驚いて顔をあげると、ななめ前に座っている高岡さんの表情が、まるで自分自身が無礼な扱いを受けたように固まっていた。
「や、大丈夫っすよこんくらい」
思わずふざけたやりとりを中断してしまうほどの気迫だった。しかし大瀬さんは一向に気にした様子がなく、高岡さんの表情はまだ暗い。ざらついた空気をどうにか入れ替えたくて、正面にいる頼れる友人に話を振った。
「そういや清水、まだあの彼女と続いてんの?」
「おうよ、お前に心配されなくてもな」
強引に路線変更した先の話は、さっぱりとした単純な結論に落ち着いてしまう。次の話題を探そうと安いつまみが載っているテーブルの上に目をやったところで、突然清水が思わぬ言葉をつぶやいた。
「……ところで、高岡さんは好きな人とどんな感じなんですか」
清水が、自分から恋愛話を振るなんてめずらしい。さらに、高岡さんにその手の話をするのもめずらしい。声をかけられた高岡さんも驚いているようだが、しかしそれは俺の驚きとは少し違うらしい。なんとも言えない色を浮かべた視線だけで、隣同士の清水と高岡さんは、俺には見えない会話をしているように見える。
「清水くん、絶対分かって聞いてるよね……」
「まぁ」
「えっ、清水、高岡さんの好きな相手知ってんの!?」
思わず声をあげてしまった。俺の反応と対照的に、清水はいつも通りの淡々とした振る舞いでグラスに残ったワインに口をつける。
「うん、まあ見てれば分かる」
「まじで!?」
「あ、ちなみに俺も高岡の好きな人知ってるー」
そしてあろうことか、大瀬さんまでもが何食わぬ顔で会話に参加してきたのだ。あの大瀬さんが。俺に言われたくないだろうが、他人の心境の変化に疎そうな大瀬さんが。
「まじで……!? 俺の知らないところでみんなでそんな話してたの……!?」
「いやだから、直接話したわけじゃないって。でも高岡さんのこと見てれば分かるから」
「ってことは俺たちの知ってる人……!?」
「おお、伊勢にしては鋭いな」
にやにや笑う大瀬さんはその表情だけで、頭を抱えている高岡さん以上に多くのことを語っている。野暮だと分かっていながら、酔っ払った俺は面白そうな話題に食いついてしまう。
「えーまじすかあ! ヒントください! お願いします! 名前教えてとかは言わないんでせめてヒント! 俺だけ話入れないの悲しいんで!」
「だってよ、高岡。どーすんの?」
「分かった……わかったからお前は黙ってろ……」
これまで頭を抱え、視線を逸らしていた高岡さんが、にやにやと笑っている大瀬さんを制するように身を乗り出してきた。酔っ払ってたかが外れやすくなっている大瀬さんに勝手なことを言われるよりは、自分の口で説明するほうがましだと判断したのだろう。
「好きな人、どんな人なんですか!?」
「えーっと……か、かわいい人」
「うわはははっ!」
高岡さんの答えを聞くなり、大瀬さんがはじけるように笑い出した。それを受けて高岡さんは「大瀬うるせえぶっ殺すぞ」と、搾り出すような声でつぶやく。その耳がほんのり赤くなっていて、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。
「え、その人のこといつから好きなんですか?」
「えーっと……半年くらい前……かな……」
「何かきっかけあったんですか?」
「いや……どうかな、もともと仲はよかった……悪くなかったけど、そのうちにって感じで……」
「最初に知り合ったのはどこですか?」
「んー……なんかの飲み会だったと思うけど……」
そこまで聞いたところですっと右手をあげると、三人の視線が集まった。
「はい。探偵伊勢、分かりました、高岡さんの好きな相手絞り込みました」
「おおっ! まじかよ!? 今のヒントで!? すげーなマジで探偵じゃん!」
興奮した表情の大瀬さんに向かって胸を張ると、いやいやいや、と清水が入ってくる。
「いやお前絶対分かってないって、無理すんな」
「いやいやそりゃ相手特定したとかじゃねーよ、でも分かったからまじで」
「……何が分かったんだよ、言ってみろ」
「探偵伊勢の見解によると、高岡さんの好きな人、高岡さんと同じサークルの人ですね!」
大瀬さんがこらえきれず吹き出す。高岡さんは、安心したような何とも言えない表情で息を吐いた。
「あーはい……じゃあそういうことで……」
「おい高岡逃げんなよお前!」
「いや……別に逃げてない逃げてない」
大瀬さんに迫られ、高岡さんは首を振りながら曖昧に笑っている。
「えっ違うんですか?」
「……むしろお前どこでそう思った?」
「皆が知ってるってことは大学の人ですよね、そんで飲み会で初対面ってことはたぶんサークルとかそれ系の集まりじゃん?」
「うん、間違ってないよ伊勢ちゃんすごいすごい」
胸の前でぱちぱちと拍手をする高岡さんの所作は、まるっきり子どもをあやすときのそれだった。検討違いなことを言ったのは明らかだ。
「えーなんなんすか高岡さんのその感じムカつくんすけど!」
「いやいやいや……」
「いやお前自分の予想が外れたからって高岡さんにキレるのはおかしいだろ」
自分一人だけが置いていかれたような現状でつい腹立たしい気持ちにもなったが、清水の正論の前では何も言えなくなってしまう。ビールで喉を潤してから、改めて向き合う。
「そもそもヒントが少なすぎるんですよ! もっと教えてくださいどういう人なのか!」
「えー……どういう人って言われてもなあ……」
大瀬さんは、本当に楽しそうに「言っちゃえよ」と急かしている。高岡さんはしきりに鼻を触ったり髪を触ったり、落ち着かない様子のままぼそぼそとつぶやく。
「だから……かわいい感じの……」
「かわいいってどういう系のかわいいですか!? 色々あるじゃないですかおっとりとか元気とか」
「ええっと……元気で明るい感じ……?」
「明るい子なんですか? 意外ですね、高岡さんが好きになる相手って知的で物静かなタイプかと思ってました、勝手に」
「あー……物静かって感じではないねえ」
「明るい子と一緒にいると自分も明るくなる、的な?」
「あーうん……そうね……」
「……めっちゃ照れるじゃないすか」
思わず言ってしまうほど、高岡さんのリアクションは印象的だった。小さな所作が増え、何かを言わないように留めているのかやたら口元に手を添えている。指のすき間から覗く頬は赤い。いつでも何事にも動じず、同じように物事の真意を真っ直ぐに見る人だと感じていたので、あまりにも新鮮なリアクションから、もしかしたら開けてはいけないドアをこじ開けようとしているのではないかと不安になる。不安が伝わったのか、高岡さんはいよいよ耐え切れないというように口を開いた。
「もう俺つらいんだけどこれ、帰っていい?」
「いやダメだろ! なあ伊勢、もっと知りたいよな? なあ!」
「知りたいっす。……まあ、高岡さんが言いたくないなら別にいいですけど」
「いや……そういうわけじゃないんだけどね……」
実際、飲み会の流れといえども嫌がる高岡さんに強制させるつもりはなかった。しかし、高岡さん自身どこか言いたがってもいるような、なんとも言えない空気がまとわりついている。
「え、サークル関係の人じゃないんですよね?」
「うん、まあ」
「でも大学の人なんですよね?」
「……そうですね」
「俺、その人に会ったことあります?」
「……ノーコメントで」
視界の隅で大瀬さんが笑いをこらえきれないというように、口元を覆っている。こらえきれず肩が震えているのが、かすかに伝わってくる。
「同じ学部の人ですか?」
「ノーコメントで」
「年齢は? 同じ? 上? 下?」
「ノーコメントで」
「……なんすかもお」
思わず嘆いたところで、店員さんがテーブルに顔を出し「失礼しまーす、ラストオーダーのお時間です」と告げた。つまりもう帰ってください、ということだ。力のない探偵の出番もここまでで、高岡さんの表情がはじめて晴れた。
「あ、やべスマホ忘れた!」
話はうやむやなまま、ひとまず店を出てすぐに、大瀬さんが頓狂な声をあげた。他の三人は、帰路に着こうとしていた足を止めるしかない。
「何やってんすかあ」
「うるせー、2秒で取ってくるわ!」
大瀬さんはばたばたと大げさなリアクションとともに、店へ戻っていく。俺たちは道の途中に置いていかれてしまった。酔っ払った俺は手持ち無沙汰なこの状況で、なんとなく目にとまった高岡さんの膝の裏を、すねで柔らかく蹴ってみた。もちろん力も何も入れておらず、どうしようもない戯れの一種だが、清水に「うわー先輩にDVだこいつ」と非難されてしまった。高岡さんは困ったような顔で振り返る。
「……なんだよ」
「別にー?」
「ごめんって、仲間はずれみたいになっちゃって悪かったけど、あの話はまた今度、なんつうか、場所を改めてしたいっつーか」
「いやあ? 別に無理に話してもらわなくてもいいですけどね!」
「めっちゃ気にしてるじゃん……いやほんと、今回はほら、大瀬がやたら茶々入れてくるから真面目な話しづらかったっつーか」
「いや本当いいですって! ぜんっぜん気にしてませんから! 無理に話す必要ないんで! まあ陰ながら応援はしてるんでがんばってくださいね!」
「声がでかい……」
口を開くたび感情に収集がつかなくなり、最後は叫ぶように言っていた。酔っ払いの扱いに慣れている高岡さんは、たしなめるように笑っている。
「すいませんでしたね俺ずっとこの声なんすよ高岡さんが嫌でもね!」
「別に嫌とは言ってないよ」
「うそつき!」
「いやほんとに。本当に嫌なわけじゃないから」
そして、その声は、いつになく柔らかく、清潔に響いた。
「……俺、元気で明るい子が好きだから」
うまく捉えきれなかったのは、ふいうちだったからだ。きっと高岡さんは、好きな子の前でこういう表情をするのだろう、という甘い笑みをふいに向けられ、戸惑ってしまった。思わず声を飲み込んでしまった一瞬を悟られないよう、俯いて「はあ」と気の抜けた返事をする。背後で一連を眺めていた清水が、わざとらしいほどのため息をついた。
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