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路地裏の秘密
あしどりも呂律もあやしく、夜の狭間に飲みこまれそうな男がひとり。
高岡さんが酔っ払うなんてめずらしい。
「あー……ションベンしてー……」
「ちょっと、こんなとこでしないでくださいよ!? 家まで我慢してください!」
「うそ、ほんとはそんなにしたくない」
「はぁ? なんでそんな訳わかんない嘘つくんですか!」
彼はどちらかと言えば理性的な人だと思う。もちろん、二人きりの密室においての甘えたさまをぬけば、だが。高岡さんは二人きりのとき、芯が抜けきって、甘えん坊になってしまう。
路地裏には闇に溶けるような黒猫さえいないけれど、いつ誰が横切るかわからずとても二人きり、とは言えない。しかし高岡さんは歩くたびにおおげさに左右に揺れ、わざと俺にぶつかってくる。薄手のマフラーを身に付けた身体の重みごとぶつかられると、ときたまよろめいてしまう。
「もー……まっすぐ歩いてくださいよ、痛い」
「だって……伊勢ちゃんにさわってたい」
だろうと思った。ぶつかり、寄りそい、何度も身体を触れあわせることで満足しているのだろう。だからこそ俺はおおげさに避けるようにして、適切な距離を守ろうとする。
「だからってぶつかってくる必要ないでしょ」
「じゃあ手つなぎたい……」
「あとちょっとで家なんですから、シャキシャキ歩いてくださいよ」
子供のように心細げなおねだりをさらりとかわすと、高岡さんはあからさまにむくれてしまった。アルコールによって真っ赤になった顔のまますねると、ほんとうに別人みたいに見えてしまう。すねた高岡さんは、歩いてください、という言葉に過剰に反応してわざと足を止めた。溜息をついて振り返る。ちょうど、街中にぽつりと咲いた桜の木の下だった。
外灯の儚い輝きの中に花びらが舞う。夜桜の下で高岡さんは、むくれて俺を見ている。
「……伊勢ちゃんはあ」
「なんですか」
「ほんとうに俺のことすきなんですか」
「……はいー?」
立ち止まった高岡さんは、俺を困らせたくてしかたない駄々っ子みたいだ。なにこれめんどくさい。この酒癖の悪い俺に「めんどくさい」とか言われたら終わりだよ。俺は頭をかく。
「なんすかもうめんどくさ」
「めんどくさいってなんだよ!」
「あーもーいいから早く帰りましょ、寒いし」
「なんで……っ、なんでそんな……っ」
語尾が震えている。おどろいて顔をあげると、高岡さんは眉を寄せくちびるを噛みしめていた。充血した目のなかに、うすくたわんだ水の膜。ぎょっとした。
「な、な、なに泣いてんすか」
「泣いてない……」
「いやどう見ても泣いてんじゃん!」
俺がそう言うのとどちらが早いか、瞳からぼろりと大粒の涙がこらえきれずこぼれおちた。高岡さんはコートの袖で乱暴にそれを拭うと、マフラーを巻き直して鼻のあたりまで埋もれてしまった。そして、さきほどまでの弱々しさを忘れたように声をあげた。
「伊勢ちゃんが悪いんだろ!」
「はあー? なにがですか?」
「伊勢ちゃんが、ぜんぜん好きとか言ってくんないから!」
マフラーに隔たれた文句はそれでも十分なボリュームだった。いまこの場所に知り合いが偶然通りがかったらどうなるだろう。さすがにちょっと、できればもうすこし声を絞ってもらいたいけれど、現状は揺れる糸の上を渡るようにぎりぎりだ。声がでかいと注意し、さらに機嫌を損ねてしまったら無事に家に帰ることさえできなくなるかもしれない。
「い、いやいや高岡さん……」
「俺……っ、これでもけっこう、がまんしてて、がまんっつーかさあ、あんまり言ったらうざがられるかなとか、嫌われるかなと思ってこわくて言えないこととか……っ」
「ちょ……」
「ほ、ほんとはもっと、もっといちゃいちゃしたいし甘えたいけど、伊勢ちゃんそういうの好きじゃなさそうだし、それで嫌われたりしたら立ち直れないし……っ」
高岡さんは堰を切ったようにつらつらと言葉を並べはじめた。闇夜の下での独白があまりにも切実で、かわすことも逆切れすることもできない。さらさらと降り注ぐ花びらを浴びながら高岡さんは、微かに震えて言葉を並べる。あっけにとられた俺からは、いつになく素直な言葉さえもれてしまう。
「……す、すいませんでした……」
「ほんとだよ、伊勢ちゃんは俺のこと全然考えてくれないよな」
「いやそんなことないですよ」
「そんなことあるよ。俺は毎日まいっにち頭いてーよってなるくらいに伊勢ちゃんのことばっか考えてんのに不公平」
高岡さんは腕でぐしぐしとまぶたをこすっている。拭いても拭いても溢れだす涙は、俺への不満が原因になっているのだろう。
あきらかに酔っぱらいだし、言ってること無茶苦茶だし、正直絡まれるのはめんどくさい。しかし、ちょっと、ほんのちょっとだけ、そんな高岡さんを可愛いと思わないでもない。
「すいません、なにか言いたいことあったらぜんぶ言ってください……ちゃんと聞くんで」
「……ほんとに?」
「うん、ほんと」
そのとき高岡さんの前髪に、ぺらりと小さな花弁が張りついた。腕を伸ばしてそれを払い、ついでに高岡さんの目元に引っ掛かった滴を拭ってやった。指先の冷たさにおどろいたように、きゅっと目をつぶる仕草がかわいかった。ああやっぱりだめだ、今日の高岡さんはなんだか変だ。そのまま頭を撫でてあげると、うつむいたままぽつりぽつりとつぶやきはじめた。
「きょうは、腕まくらで寝る」
「はい、わかりました」
「おれが起きるまでずっとだぞ、逃げちゃだめだからな」
「はい」
「そんで、すきって言ってよ」
「……」
「言ってよ」
「は、はい……」
「そんで明日は一日中ふとんから出ないでいちゃいちゃするから、普段したいこと全部するし、してもらうから」
「えー……」
「ぜったいだよ、分かった?」
「……はい……」
おねだりは、つけこまれてんじゃねぇの、ってくらいに炸裂する。それでも、ひとつ呟くたびに不安そうに俺の反応をうかがう様子を見ていると、つい頷いてしまう。高岡さんはいつもばかみたいに俺のことを「かわいい」と言う。ときどきうっとおしく感じてしまうくらいに。でも今なら気持ちが分かる気がする。桜が降る。冬と春の間の、乾燥した空気がまとわりつく。ああ今、高岡さんが妙にかわいい。
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