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手中のひと
初めてのキスもそれ以上の行為も、めまぐるしく回る世界の中で事故みたいに済ませてしまった。俺は本当に伊勢ちゃんとキスをしたのか、それ以上の行為をしたのか、はじめの内は妄想と記憶に挟まれ正確な感覚を思い出せなかったほどだ。
それでも初めて抱きしめた瞬間のことは覚えている。
「……ほっそ」
あまりにも率直な感想が、思わず口から飛び出てしまった。布団の上に座りこんで抱きしめた身体は「うすい」という形容詞が腑に落ちるほど頼り無いものだった。Tシャツ越し、背中の質感を撫でながら思わず母性的な問いさえ浮かんだ。
「ちゃんと食べてんの?」
「食ってますよ失礼な!」
「何食ってんのいつも」
「えー……? マックとか」
「……ジャンクばっか食ってんのにこんな細いとかどうなってんの身体」
肩に顎を埋め、ゆるく曲った背中をさする。掌に熱が収まる。くびもとから伊勢ちゃんの匂いがする。深く吸い込みたいけれどどうにかこらえ、細かな呼吸にまぎれてつまみ食いをする。
「知りません体質です」
「ジャンク良くないって。そのうち身体壊すぞ」
「だって俺カップラーメンしか作れないんですもん料理」
「……カップラーメンは料理じゃねぇ」
付き合う前、何度か遊びに行った伊勢ちゃんの家には大量のインスタント食品やレトルト食品が常備されていた。お湯を入れて三分、電子レンジで三分、暖められたそれらは伊勢ちゃんの血となり肉となり、華奢なこの身体を造り上げる。
「まあ、これからは俺が作るよ」
「え、ほんとですか」
「うん。伊勢ちゃん何好き?」
「えーっと……カレーとか、ハンバーグとか……?」
「あー得意」
「まじすか」
だらだらと話しているうち、伊勢ちゃんを腕の中に収めたまましばらくの時間が経過した。細い身体が今俺の腕の中に閉じ込められているという実感に高鳴っていた胸も、ようやく平常の速度を取り戻した。落ちついたあと登場したのは、理性に負けた俺だった。
「俺のメシ食って、夜は俺と運動して、伊勢ちゃん健康体になれるな」
「そうですねー」
「……」
「え?」
「え、流していいの?」
「は? なにがですか?」
思わず腕をゆるめると、伊勢ちゃんは俺を見つめてぽかんとした。あ、その顔かわいいななんだそれ。俺の膝を立てた足の間に座りこんだ伊勢ちゃんは、ゆっくり時間をかけて俺の言葉を咀嚼した。その間、子供のようにぼんやりした表情で俺を見上げていた。平和な日本に生きて、狼に食べられる可能性など一度も想像したことがなさそうな表情だった。
「……あ、ちょっと待っていま意味わかりました! いま!」
「おせーよタイムラグありすぎだろ」
「だ、ってそん……そんな……急に言われても反応できない……」
伊勢ちゃんは俯き、言葉も途切れ途切れになった。真っ直ぐに向けられた欲のかたちに、うまく立ち向かえないようだ。そんな風に照れるから、弱気に俯いて反芻したあと強気になって俺を睨むから、俺は煽られてしまうのだ。
「高岡さん付き合う前は下ネタとか言わないし冷静でかっこいいと思ってたのに……なんなんすか急に下ネタばっかり言い出して」
「だって伊勢ちゃんが今まで振ってくる下ネタって女の子に対するやつばっかだったじゃん、女関係のことなんか今も言わないよ」
おっぱい派ですかおしり派ですか、とか、好きなAV女優誰ですか、とか。
伊勢ちゃんが投げる質問はまったく重要でないものばかりだった。けれど彼はこういう薄い話から共感を呼びあい、年上の男性と距離をつめてきたのだろう。下衆な話題をしかけられるのは、それほどの関心を寄せられているからだ。
分かってはいても、無い知識をカバーすることはできない。いつもぼんやりと受け流し、代わりに新しい音楽や本の話をしてきた。そして今、その時間が無駄だったとは到底思えない。
「俺いまでも女に向けた下ネタ言わないでしょ? 伊勢ちゃんに向けたやつしか」
「知りませんよそんなの」
「でも俺こう見えてけっこうエロいから覚悟しとけよ」
「なんすか覚悟って!」
俺は伊勢ちゃんの腰元に指を滑らせた。Tシャツをちらりとめくり、素肌の腰をなぞった。すっきりとした白い腰元に、興味のままに指先を滑らせると、伊勢ちゃんは息をつまらせて反応する。
「ちょ」
「俺はずっとずっと前から伊勢ちゃんとこーゆーことしたくてたまんなかったの」
「う、あ」
「分かる?」
耳元に唇を寄せ、息を吹きかけた。伊勢ちゃんは顔を背け俺の胸元に手を当てた。突き飛ばすつもりで差し出したに違いないその手は、俺が腰や脇腹や手を伸ばして胸のあたりをさするたび力をなくし、今は俺のシャツをやんわりと握るだけだ。
俯いたその角度から、伊勢ちゃんは最後の毒を投げる。
「わ、わかんないです」
「分かんないの?」
「わかりません意味がわかりませんそんなの」
指先も髪も耳たぶもつめのさきも俺の指の動きに反応しているのに、唇から零れる言葉だけがそのすべてを跳ね除ける。
逆を言えば、言葉では一生懸命楯突いたって、からだの節々が俺を受け入れる体勢をとっている。
「う、わ」
伊勢ちゃんの肩を掴み、勢いをつけてシーツに押し倒した。シーツの白、伊勢ちゃんの表情に落ちる俺の影の黒、その中で光る見開いた目の澄んだ色、すべてが調和していた。すべてが、この後の展開を予測していた。
「ほんとにわかんないの? 伊勢ちゃん」
「わ、かるわけないでしょただでさえ高岡さん頭おかしすぎて何考えてんのかわかんねぇんだから……」
それでも伊勢ちゃんは頑なに「わからない」と言う。俺が伊勢ちゃんとどんなことをしたいか、どれくらいしたいか。
妄想で自分を慰めるのはなによりみじめで悲しい作業だ。けれどそうでもしないと埋められなかった。心臓がひとつすぽんと、伊勢ちゃんのかたちに抜けおちてしまっていたのだ。
Tシャツをめくりあげ、ぷつんと丸い乳首に爪を立てた。伊勢ちゃんは反射的に目をつむり、駆け抜けて行った痛みを伴う感覚をやりすごした。次に目を開けたときの、呆けた甘い顔を俺は一生忘れないだろう。
「じゃあ教えてあげないとな」
甘くてやわらかでいつでも笑っていた伊勢ちゃんが、俺のかたちの影の中で驚いて泣いて震える。ようやく手に入れたんだ、という実感に、俺の口元に笑みがこみあげる。
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