水曜日午後八時から、駅前の和民で

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水曜日午後八時から、駅前の和民で

(付き合う前の高岡さん) 同じゼミのあんまり好きじゃない男に誘われた飲み会は、乾杯だけしたらそっと帰るつもりでいた。 通された居酒屋の座敷席に、いつも目で追ってしまう彼の姿を見つけた瞬間、たとえ明日の朝が早くとも、身体に支障をきたそうとも、今日は二次会でも三次会でも付き合ってやろうと胸に誓った。 「はい、じゃあカンパーイ」 「うぃーっす」 ガラスの触れ合う高貴な音が響く座敷で、人の波をかきわけ彼のいるテーブルに近付く。あいにく同じテーブルは賑わっていたので、少し離れた隣のテーブルに腰を下ろした。 彼の周囲は絶えず人が移り変わり、彼は男からも女からもフランクに声をかけられ、手を叩いたり目を見開いたり、楽しげに接している。横目で、人気者の様子をちらちらと盗み見る。 「高岡くん来てたんだー」 「え? あー、うん」 「めずらしいね、飲み会来るの」 「あー……、うん」 「……」 「……」 それに引き換え俺は、同じゼミながらほとんど話したことのない女子との続かない会話をふわふわ泳がせるばかり。女子は気まずそうに俯き、焼き鳥を串から外す作業に集中したふりで居づらさをやり過ごしている。 俺はジョッキを傾けつつ、合間にちらりちらりと隣のテーブルに目をやり、耳をそばだて微かな情報さえ逃さないようにする。 「お前相変わらず口悪ぃな!」 「いやもう褒め言葉ですねそれ」 「うるせえ生意気なんだよ一年のくせに」 「いやあちょっと何言ってるかわかんないっす」 あーやっぱあの子かわいいなあ。指先も睫毛も、口の端も。 顔の繊細なつくりとは裏腹に、細かな反感を買い続ける挙動をこっそりとした横目で確認しつつ、緩む口元をそれとなく隠す。 「お友達?」 しかし目の前の女子は俺の視線に気付いていたらしい。首をかしげて問う彼女に、慌てて向き合い動揺を揉み消す。 「い、いや、いやいや、知らないけど」 「え? そうなの?」 「い、いや……なんか今、一年って言ってるの聞こえたから……どういうつながりか気になって」 「ああ、あの子友達多いんじゃない? 結構色んな飲み会でみかける」 「ふーん」 「寂しがり屋? 八方美人? よくわかんないけど……割と調子いいよね」 友達多い、寂しがり屋、人肌恋しい、誰かと仲良くなりたい、それならつまり。するすると自分本位に連なっていく思考回路は「つまり俺とあの子は仲良くなれるはず」とあまりにも勝手な結論を叩きだす。現実にはテーブルいっこぶんの距離がしっかりあり、互いに名前も知らないというのに。 そうこうしている間に、彼は隣の汗臭そうな男に「オラもっと飲め!」と面倒な絡み方をされはじめる。男は無遠慮に彼の肩に腕を回し、がっちりとホールドした上で顔を近づけた。彼はやめてくださいよー、などと笑っているが、困惑していることは明らかだ。 助けてあげたい。 「……ちょっと、トイレ」 しかし共通の話題も情報もなく、喋ったこともなく、彼の名前さえ知らない俺に、その役回りは回ってこない。従順に順番待ちをして、彼の隣が空くのを待っていても仕方ないので、言い訳のような言葉を目の前の女子に残し、作戦を練るため立ち上がりトイレに向かった。 トイレから戻る途中ふと外を見ると、店の前に人影が見えた。心臓が鳴った。彼だった。どうやら自力であの場を抜けてきて、一人で煙草を吸っているらしい。 これはチャンスか、それにしても店の中でも煙草吸えるのになんで、いやとにかくチャンスだ、でもなんて声をかけよう、などとその窓の前で情けなく立ち往生した後、ポケットに煙草が入っていることを確認し勇気を出して外に飛び出た。 「……どうも」 「あれ? あー……えーっと……」 「あ、今日の主催の奴と同じゼミで……高岡って言います」 「あっ! 高岡さんか! すいません、話は聞いてたんですけど顔がちょっとわかんなくて」 彼はぴんと触角が動いているかのような、小動物のような閃きのリアクションをして笑った。笑うとき、にぃっと口の端が持ち上がって、いかにも無邪気そうな子供の表情になる。 いつも遠くからさりげなく眺めていた顔が目の前であれこれと顔色を変えて反応してくれるので、柄にもなく緊張してしまった。隣に立ち、急いで「これが目的なんです」とアピールするように煙草に火をつけた。 「……酔った?」 「いや、大丈夫ですよ。酔ってるように見えちゃいますか?」 「いや……こんなとこに一人でいるから」 「んー、酔ったっていうより疲れたって感じですかね」 俯いてつぶや姿は、友人やアルコールに囲まれた室内での華やかで明るい声色とは少しギャップがあった。伺うようにちらりと目をやると、本当に疲れているのか彼は首を回してからぐっと伸びをした。 肩を持ち上げたことで、Tシャツの裾から油断した腰元の肌色が見えた。色は白かった。無駄な肉のない、すっきりした腰だ。……悪い癖だ、本当に。 「……あいつからなんて聞いてたの?」 「え?」 「あ、いや……話は聞いてたんですけど、って言うから。どんな話かなあと」 彼についてほとんど何も知らないながら、彼に関心を抱いている俺は、その内容が気になってしまう。悪口かもしれない、彼は俺にいいイメージを持っていないのかもしれないと思いながら。我ながら女々しいと思う。 「あの人から、うちのゼミにタカオカって奴がいるって聞いてて」 「うん」 「いつも一人でいて、俺たちのこと馬鹿にしてんじゃねぇかと思う、って言ってたんです」 「あー……」 やっぱり、と俯く俺に構わず、彼は続ける。 「それ聞いて俺、多分タカオカさんとは仲良くなれるだろうなあって思ってました」 暗喩的な発言の正解を求めるように彼を見ると、彼は俺を見上げて笑っていた。なんとなく背丈は同じくらいかと思っていたけれど、こうしていると少しだけ彼の方が小さい。猫背だからかもしれない。俯いたまま俺を見るから、上目遣いのような角度のまま彼は笑った。先ほどの、子供のような笑い方ではなく意地悪いなにかを企んだ顔。こんな表情もするのか。知らないことはまだまだある。 「……馬鹿に、してんの? 先輩のこと」 「馬鹿に……うんまあ、なんていうんですかね、こういう飲み会で楽しそうに悪ノリしてる人のこと、心の底ではあんまり信用できなくて」 「……なんで?」 「そういう場ではどこまでもついてって楽しむつもりでいますけど、たまにこうやって離れてみたり、一人になったりしないとわかんなくなっちゃうんです。俺って酒飲むために大学入ったのかな? とか思っちゃって」 「あー……まあな」 「酒飲んでー、ふざけてー、記憶失くしてゲロ吐いてー……って、それ自体を否定するわけじゃないんですけど、でもそこに開き直るのは違うじゃないですか。学生なんだから騒がしくても許してもらえますよねみたいな集団麻痺とか」 「ああ……あるよな」 「酒、飲むの楽しいですけど、別にそれが目的じゃないっていうか……。ちゃんと生産的なこともしたいし……って言えばいいのかな、なんていうか、こういう意味のないことばっかりに時間かけるのもおかしいよなとも思ってて」 学校でも居酒屋の座敷でも、多くの人に囲まれてふざけて笑う彼からこぼれた言葉は正確で神経質だった。彼はもしかしたら、俺が思っているよりずっと真面目で繊細なのかもしれない。 居酒屋の看板を照らすライトが彼の顔の上に細かな陰陽をつける。社交的でどこまでも人懐こい陽の顔と、悩みながらどっぷりとモラトリアムに浸かる陰の顔が浮かび上がっていた。 どんどん引き込まれそうになるから、距離を保つために赤く燃える煙草の先端ばかり見る。全面的に肯定したくなってしまうから、近づきすぎないような返答ばかり考える。 「……じゃあ飲み会なんて来なきゃいいじゃん」 「でもそれは仲間はずれみたいで寂しいじゃないですか」 こんなところばっかりは甘えん坊の子供みたいに。 いよいよにやけるのを抑えきれない口元と、詰まっていく胸の苦しさに、煙を吐くふりをして大げさに息を吐いて落ち着かせようとした。後で、それが当てつけるため息みたいに響いてしまったことに気がついた。 「……呆れちゃいました?」 そんなはずない、と否定しようとして、慌てた俺は息を吐き出したばかりの無防備な状態で彼を見た。 闇夜の中でアルコールを蓄えた頬の赤みと、俯きがちな表情とその角度の目元と、弱みをごまかすように不自然に笑った口元が、小さな照明で浮かび上がっていた。あ、かわいい。この人かわいい。 「すいません、俺、初めて喋った先輩にこんなことべらべら好き勝手言って……誰かに、聞いてほしかったのかもしれないです」 弱々しい目がそれでも確実に俺を貫いていた。彼の目の中にいる「誰か」が、俺、だった。彼の目には俺が、俺だけが映っていた。 立っているのに、コンクリートの上なのに、体中が溶けて沈んでいくような浮遊感があった。その後でもう一度コンクリートに打ち付けられたような衝撃に頭ぶん殴られた。 ああそうだ、だから「恋に落ちる」と表現するんだ。 「いや、分かる。分かるよ」 「……本当ですか?」 「いや俺も……そんなようなこと、ずっと考えてて。だからゼミのやつとも仲良くなかったんだし。あのー……お、俺で良ければ、こういう話いつでも聞くけど」 「ほんとですか?」 「っていうか……俺が、話したい。俺の話も聞いてほしいし、もっと話聞きたいし」 「はは、ありがとうございます」 あ、また笑った。今度は心底嬉しそうな、人懐っこい表情だった。ああもう戻れない。戻らない。 「……名前」 「え?」 「まだ聞いてなかったよね」 「ああ」 彼はとっくに火の消えていた煙草を携帯灰皿に入れ、改めてというように向き直って言った。 「伊勢隆義です、よろしくお願いします」 初めて正面から見た、長い前髪もさらりとした目元も鼻の先も唇のうすさもゆったりしたTシャツから覗く首元の白さも腰元も、知りたい。見たい。触りたい。欲しい。この人が欲しい。それはつまり。 好きになってしまった。前から予感はあったはずなのに、降りかかった結論にどうしてこんなにも驚いているのだろう。
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