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口で許す人殺す人
(大瀬さんに関係バレてる世界線)
グラスのぶつかる音と話し声、ダーツボードから聞こえるチープな効果音。喧騒の中に伊勢ちゃんの声が響き渡る。
「はあー!?」
「あ、ブルだ。イェー」
「いや大瀬さん絶対今前出てましたよね!? 不正だ不正!」
最近、ダーツにハマった伊勢ちゃんは来る日も来る日もダーツバーに足を運んでいる。俺はと言うとダーツは好きでも嫌いでもなく、ただ筋肉痛になるほどやり込む伊勢ちゃんにはついていけないので、同じくダーツ好きの大瀬と伊勢ちゃんがのめりこんでいるのを離れた座席つきボックスから眺める。
「うっせーガタガタ言うなよ、はいおごり~」
「あーくっそ、後半大瀬さんの財布カラにすっから見てろよ!」
どうやら二人は酒代を賭けながら勤しんでいるらしく、連れ添ってカウンターへ足を運んでは、戻ってきて飽きずにニューゲームをはじめる。これがバーの閉店時間まで続くこともめずらしくない。その様子をただ眺めているだけ、というのは、そりゃまあ退屈でもある。しかしそうしてでも、伊勢ちゃんに付き合いたいのには理由があった。カウンターへ去っていった二人を見送り、うつむいて携帯をいじっているとふいに声をかけられた。
「お兄さん、一人?」
ほら見ろ。こういう輩がいるから夜のバーは嫌いだ。どこからともなく近づいてきたおっさんは、決して暑くはないこの時期にボディラインを強調するような半袖シャツを着ていて、なんというかあからさまな男だった。いや、おっさんと言ってもせいぜい30代だろうけれど、愛を込めておっさんと呼ばせていただきたい。
「……いや、友達とです」
「そうなんだ、いいねぇ。大学生くらい?」
「はぁ……」
俺もコッチ側の人間としてしばらく生きてきたので、こういう出会いを利用していい思いをしたこともあるし、もっとドストレートに欲をぶつけ合ったこともある。不思議とそういう人間同士は目を見れば分かり合うものだ。だからこそ伊勢ちゃんが、色のついた視線の餌食になっては困る。
「いいねー、大学生。俺も若い頃に戻って青春したいなー、仲間入れてよ」
なぜなら伊勢ちゃんは鈍い。相当鈍い。この手の誘いかけを一度あっけらかんと受け入れようとしたことがあったので、帰宅後叱ったら「下心とかじゃなくて、ただ仲良くなりたかっただけかもしれないじゃないですか」と平気で言ってのけた。いや、おっさんが若い男の子とただ仲良くなりたいだけって、それ十分下心だから。
「さっきさ、カウンターに君と同い年くらいの子がいたんだけど。キャップ被った子と黒髪の子」
携帯をいじるふりでやんわりと無視しようとしたのに、酔っぱらったおっさんに半端な嫌悪は通じないらしい。仲間入れてよ、の返事を待たず、あろうことか大瀬と伊勢ちゃんに目を向けた。無視できなくなってしまう。
「あの子たちも友達?」
「……そうですけど」
「あの黒髪の子さぁ、モテそうだよね。なんつーか、性に奔放そうな感じ?」
にたにた笑うおっさんの汚い口周りを見たら寒気がした。今すぐ葬りたい気持ちを抑え貴重な客観的意見を参考にさせていただく。
「……なんでですか」
「さっきカウンターで一緒になったんだけどさ、横に立ったら見えちゃったの。襟の内側についてんの」
男はなおも汚く笑いながら、トン、と人差し指で自分の首元を指す。
連日ダーツバーにばかり足を運んでは帰って即寝オチする伊勢ちゃんに耐え切れなくなって、襲い掛かるように甘えたのは今日の午後の話。なだれ込んだ行為の最中、対面座位の状態で首元に吸い付くと、伊勢ちゃんは「ちょっとぉ……、そこだと見えるんですけど」と不満の声をもらした。しかしその声は甘ったれていて、本当に嫌がっているようにはまるで思えず、返事の代わりに突き上げたらすぐさま嬌声に変わった。
一緒にシャワーを浴びて、出てきたところで伊勢ちゃんのもとに着信があった。大瀬からのダーツの誘いだ。近くにあったシャツを引っ掴んで揚々と飛び出す伊勢ちゃんの後を追ってここまで来た。
まあ確かに、その跡は残っているんだろうけれど、そこに注目したわけ、わざわざ。ふぅん。
「きっとエッチ大好きなんだろうな、まあ若さの特権だよ、いいよねぇ。可愛いなぁ」
うるさいバーの中でも、一番不快な言葉は脳髄まで直接響く。耳が、脳が溶けるかと思った。俺は男を見た。男も俺を見た。
「……さて、と。俺ももう一杯飲もうかなあ」
そして男は誰に対してか言い訳するように独り言を呟きながら、そそくさと立ち去る。入れ替わるように、終始を見ていたらしい大瀬が俺の隣に腰を下ろした。
「おっすー、高岡飲んでる?」
「……うん、まあ」
「高岡ってさあー」
「……何」
「目だけで人殺すの得意な」
「……殺してない」
ゆらりゆらりと奔放に生きる大瀬が、何かに勘付いて俺の様子をうかがい、男が戻ってくることのないよう何気なく隣の席を埋めるような気遣いをしてくれるのだから、相当分かりやすかったのだろう。殺すという言葉で端的に表現できるほど。子供じみた自分自身が恥ずかしくなり、ごまかすように立ち上がって一人でアルコールをすすっている伊勢ちゃんのもとへ足を向けた。
「伊勢ちゃん」
「あ、高岡さん。どーしたんすか、ダーツやりたくなりました?」
「ん、やらない。それより襟おかしくなってるよ」
「え? ほんとですか?」
確認しようとする伊勢ちゃんを遮るように、手を伸ばして襟に触れる。折れ曲がってもねじれてもいない、きれいな襟をぺたぺたと触りながら、ついでにボタンをひとつ外し胸もとを開いた。赤い跡が、伊勢ちゃんにだけ見えない位置で光にさらされる。
「……めずらしいですね、前こういう着方してたら胸もと開けすぎみたいな訳わかんないキレ方したじゃないですか」
「今日は特別に許してあげる」
「うっわ上から目線!」
あのおっさんが戻ってきたとき、その跡と俺を結び付ければいい。自分が声をかけた相手と、目をつけていた黒髪の子がどんな関係にあるのか察して、改めて殺されればいい。
されるがままに襟をいじられていた伊勢ちゃんが俺の手元を見下ろしながら、ふと口を開いた。
「それより高岡さん、さっき誰かとしゃべってませんでした?」
「え? あー、全然知らねぇおっさん」
「浮気?」
「まさか」
「……信じてますけど、万が一しょーもないことしたら許しませんからね」
すっぱりと言い切った伊勢ちゃんはくるりと身をひるがえし、「ほら続きやりますよ!」と大瀬のもとへ駆け寄っていった。俺は思った以上に、愛されているらしい。拗ねたように尖ったくちびるだけで、たやすく殺されてしまった。
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