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愛妻家弁当
「おはようございます」
「はよ」
「早いですね、今日午前からでしたっけ?」
「いや、午後からだけど。早起きしてレポートやってた」
「あー、なるほど」
週のはじめはいつも、必修科目のある俺の方が先に起きる。高岡さんは自分の授業が始まるぎりぎりの時間まで寝ているので、朝に交わす会話なんてせいぜい布団に入ったまま言われる「おはよう」「いってらっしゃい」程度だ。
しかしその日、俺がもぞもぞと布団をでたとき高岡さんはすでに目を覚ましていただけでなく、めずらしく寝ぼけもしないさっぱりとした表情で洗い物をしていた。
「伊勢ちゃんもう出る?」
「そうです、わりと時間やばい」
それに比べて俺は寝ぐせのついたまま顔も洗わず頭ん中も八割方眠ったような状態で、始業までのカウントダウンにもついていけず雑に身支度を済ませようやく玄関へ向かう。
「じゃ、行ってきまーす」
「あ、待った」
「なんすか」
今日という日に靴紐はこんがらがっているし、外へ出る直前の一秒も惜しい時間に高岡さんの「待った」がかかり、俺の返事はつい乱暴になってしまう。まさかいってきますのちゅー、とか、そういうくだらないことをやりはじめるんじゃ。
「はい」
そう思っていたところに差し出されたのは、使った覚えどころか見た覚えもない、小さな紺色のバッグだった。受け取ると、サイズの割にずっしりと重量感がある。
「なんですかこれ」
「弁当」
「え……?」
「あ、違うな。愛妻弁当」
「は?」
「いや、愛夫弁当……?」
「いやいや、何言ってるかわかんねぇけど」
「最近伊勢ちゃん、飲み会とかバイトとかばっかりで俺のメシ食ってなかっただろ?」
「あー、はい」
「どうせ伊勢ちゃんのことだから外で食べるとき野菜なんて摂らないだろうと思って作った」
まちのついた手提げの底はじんわりとあたたかく、できたての料理がつめられているのが分かる。俺はどうやらだいぶだいぶ鈍い人間のようで、こうして目の前に差し出されなければキッチンの換気扇が回っていることやそれでも逃げ切れない油の匂いがまだ室内に残っていることに気づけない。
「伊勢ちゃんの健康管理しときたいから」
「な……」
「そういや時間大丈夫なの?」
「うわ大丈夫じゃないです! いってきます!」
「はいよ気ぃつけてー」
学校までのわずかな距離を駆けながら考えた。そういえば高岡さんは、昨日の夜ずっとレポートをやっていた。疲れていた俺は先に眠ってしまったが、高岡さんが布団に入ってくるときにうっすら目が覚めたのを覚えている。
ねぼけ半分にレポート終わったんですか、と聞くと高岡さんは、うん完成したよ、と言っていた。
そして朝、浅い眠りのなかで高岡さんが起きたのが分かった。俺よりも遅く寝て俺よりも早く起きた高岡さんが、パソコンを立ち上げることはせずまっさきにキッチンへ向かっていたことをたった今、思い出した。
「なんなんだよあの人……」
ひとりきりなのににやけそうになる口もとを誰への見栄でもなくごまかそうとしたら、悔しげな独り言が漏れた。
ーーー
「伊勢ー」
「あ、おつかれさまです」
午前の授業が終わり昼の長い休み時間に入る。空腹にため息をつきながら廊下に出たところで、大瀬さんにつかまった。
「なんかお前に会うの久しぶりな感じするな」
「いやそうでもないでしょ、おとといサークルあったじゃないすか」
「メシ行こうぜー」
話聞いちゃいねぇな。相変わらず自由な大瀬さんのあとを追い、辿りついたのは学食だった。食券器の前と受け取り口は特に混雑しており、それぞれが定食や丼を抱えている。
「あ」
「ん? どした?」
「俺きょう弁当あったんだ」
いつもの調子で食券機の列に並んでしまい、ふと立ち止まって抜けだす。定食を受け取った大瀬さんとともに空いた席に着席し、玄関で受け取った弁当を慎重に取り出し蓋を開けたとき、俺より先に大瀬さんが歓声をあげた。
「すげーな! 豪華すぎんだろ!」
からあげと肉巻きとポテトサラダとマリネみたいなのとあとなんか料理名は分かんないけど野菜が沢山入っていて肉もあって彩り豊かで、かつ俺の好みを確実に理解していて、恥ずかしくなるほどの力作だった。
「え? まさかお前が作った?」
「いやまさか!」
「だよな。じゃあなんだ、母ちゃんか」
「いやいや俺実家じゃないんで……」
「だとしたらもう、これしかねぇじゃん」
大瀬さんは下衆まるだしの顔で俺を覗きこみ、小指を立てている。いまどきあまりにも古いジェスチャーで笑いそうになった。しかし同時に、それまで必死に隠してきた高岡さんの影を捕まえられたようでもあり汗が吹きだしてしまう。大瀬さんは俺の先輩だし、高岡さんの友人だし、この関係が露呈したら相当に驚かれてしまうだろう。いやむしろ笑われて、腹抱えてぶっ倒れるくらい笑われたあと大声で色んな人にばらされるかもしれない。むしろそれがなによりも怖い。
ほんの少しの隙から墓穴を掘るという、すぐやってしまう自分の悪癖が露呈しないよう慎重に口を開く。
「ち、ちがいます」
「だよな?」
だからこそいっそう拍子抜けした。大瀬さんはそう返ってくることなどはなから分かっていたかのようにあっさりと言ったのだ。
「伊勢みたいな奴がこんな料理上手な彼女なんかいるわけねぇよな、しかも早起きして愛妻弁当作ってもらうレベルに尽くされたりなんて生まれてから一度もねぇだろ、伊勢」
「なっ」
「どっちかっつーと彼女のこと放置して飲み会でかけたりして愛想つかされて捨てられそうだもんな!」
そりゃまあ多分俺は尽くし甲斐のないタイプの人間だろう、尽くしたくてその分返してもらいたい女の子からしたら、借りものを返さない最低な男だろうし何気ないデリカシーの無さで見えない努力なんか簡単に踏んづけて気づきもしないクソ野郎だろうけれども。
「……いますよ?」
「は?」
「俺こー見えても、俺の健康気にして早起きして愛妻弁当作ってくれて料理上手でちょっとエッチな恋人いるしその人とラブラブなんで!」
一息に言いきったとき俺はほとんど本気で腹が立っていて、それは自分のプライドを守るためでなく、そんな俺に付き合い弁当まで作ってくれるような高岡さんの優しさまでもを笑われた気がしたからだ。うるせーなしらねーくせに! お前の後輩とお前の友人が実はこっそりいちゃいちゃしてること気づいてないくせに! という感情によるものだった。
そのとき突然、空いていたとなりの椅子が引かれた。
「へー、それは知らなかったなー」
まさか、と顔を上げると、弁当を作ってくれたその人が、にやにやしながら椅子に座ろうとしていた。
「あ、おはよー高岡」
「はよ」
高岡さんは正面の大瀬さんに軽く挨拶をしたあと、平然と俺のとなりに腰を下ろす。同じ高さになった目は、奥のおくの方にじんわりと灯る熱があり、それは普段校内では見ないものだから焦った。
「な、なんでこんなとこにいるんですか!」
「え? 次必修だから遅刻しないように早めに家出てきた。いたら悪いの?」
うそだ、絶対うそだ。どーせ弁当へのリアクションが見たくて早くでてきたのだ。人のことは言えないが高岡さんは出不精なので、一秒でも長く家にいたがる。だからこそ高岡さんが居ないことを前提として大きなことを言ってしまったのに、一体どこから聞いていたのか。
「なんかさ、伊勢が俺恋人とラブラブだからとかマウントとってくるんだけど恋人いるとか聞いたことある?」
「あっちょっ大瀬さん!」
追いうちをかけるように、大瀬さんはあっさりと重要な部分を口にしてしまった。てめーこのやろうふざけんな空気読めよ、と言いたいけれどそれは墓穴を掘るだけだとさすがの俺でも分かる。そして隣りの嘘つきは、平然と振る舞っている。
「いや俺知らなかったけど」
「だよなー。俺もそんな話いちども聞いたことねぇし、妄想じゃねぇの? 淋しいから頭の中にしかいない彼女にハマっちゃったんじゃねぇの」
もはや何も言えなくなった俺の前で、大瀬さんと高岡さんは好き勝手言いたい放題笑っている。あー反論したいものすごく反論したい。そんなわけねーだろふざけんなよ調子乗んなよって言いたいし、なんなら恋人なんかいないしいらないし欲しくもないしと言ってやりたいくらいだけど多分それは強がりにしか聞こえず向こうに好都合な未来を呼ぶだけだろう。
「……妄想じゃないですから。俺ほんとに恋人いますよ」
高岡さんを横目で見て、唇を噛みながら言ってやる。知らんぷりするってことは隠したいんでしょいいんですか俺もうごまかさないですよ、大瀬さんの前でも平気で言ってやりますよいーんですか俺が口滑らせたら一緒になってひやかされて困るのそっちじゃないんですか、と言うかわりにじっと目を見る。
すると高岡さんは優越に浸った幸せそのものの眼を返しやがった学校なのに堂々とわきめもふらず。
「へぇ。妄想じゃないんだとしたらその恋人の話もっと聞かせてよ。どんなとこ好きなの、のろけてもいいよ?」
ああもう最低だ、墓穴を掘った。
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