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知らない顔の知っている人
授業終わり、トイレの個室に入っていると廊下から話し声が近づいてくるのが分かった。雑踏が徐々に言葉の形になっていき、声質がくっきりと浮かび上がる。それは聞き覚えのある、低く冷静な声だった。
「えっまじで?」
「あーうん、そうだよ」
トイレに入ってきた男性二人組のうち、驚いている方ではなく相槌を打っている片方は、どこか投げやりで面倒そうな話し方をしている。「あー」のなまぬるい発音だけでもすぐに分かる。高岡さんだ。
「えーまじかよ! いつの間に! 言えよ!」
「いやなんでいちいちお前に言わなきゃいけねぇんだよ」
高岡さんは、きっとトイレまでの道のりを歩きながら友人を驚かせるような重要な話をしていたのだろう。俺は個室の内側で、今まさに鍵を開けようとしていたところだった。しかしなんとなく出づらくなってしまい、立ち往生するしかなくなったために、必然的に聞き耳を立てる状態になってしまった。
高岡さんたちは何の話をしているんだろう、と考えるともなく思い巡らせた瞬間、友人が決定的な言葉を吐いた。
「いやいや、彼女出来たんだったら言えよ! 報告してこいよ!」
どっ、と胸が鳴った。それは、話の内容を推測することが難しくなかったからだ。
人並みの危機感を持った高岡さんは、俺との関係をもちろん口外しない。けれど時折「たまには自慢したいんだよなぁ」と漏らすのだ。現世に染まり切れない子供のように、ぼんやりと甘い日々を夢想しながら。
高岡さんはいま、カノジョ、という言葉を上手く利用し、暗に俺の話をしている。ほとんど間違いないだろう。掌に不自然な汗をかき、扉の内側で指一本動かせなくなっていた。
「彼女どんなん? かわいい?」
「めちゃくちゃかわいい」
息をひそめていないと、心臓の音さえ外部に漏れてしまう気がする。自身の話を盗み聞きするという行為の緊張と、一枚のドアを隔てて高岡さんがのろける様子を聞いてしまったことで、顔が熱くなった。あの人、俺以外の人の前でもかわいいって言ってんのかよ。
「まじか! 誰似?」
「いや誰に似てるとかない」
「は? どゆこと?」
「あんな可愛い子ほかにいないから」
「うっわ何言っちゃってんのお前!」
いやお前ほんと何言ってんだよ!
今すぐ飛び出して言ってやりたかった。やめてください! といつものように叱りつけてやりたかった。しかし出来るわけがない。俺はドアに背をつけ、頭を抱えて唇を噛みしめ俯くしかない。
その後、男二人の話はなんのためらいもなく下世話な話題へうつっていった。
「乳でかい?」
「いや……まー……でもエロいよ」
「まじ!? どんなん!?」
「最初結構緊張してたみたいでギクシャクしてたのに、慣れてきたらどんどん大胆になってきてさ。たまに俺のほうがびっくりするようなエロいことするから、エッチ大好きなんだなーって」
「あ、処女?」
「まあ……そうかな」
そうかな、ドヤ、じゃねえよ。処女ってそれはまあそうと言えばそうなんだけど盛大に間違っているというかなんというか。
言いたいことは山ほどある。しかしやすやすと口にできるわけもなくもどかしさを噛み殺すだけ。そして四方をはばまれたこの空間では、耳を塞いで逃げ出すことさえ出来ない。
ああもっと早い段階で飛び出してしまえば良かった。あっおつかれさまですーと軽めの会釈でもして、トイレを出てしまえばこんな話は聞かずに済んだ。羞恥に身体中が発熱している気がした。いま目の前にどこでもドアがあれば、どこに繋がっていようと構わず飛び込むのに。
「慣れてない相手って大変だったりしない?」
「いや、全然。だって俺しか知らないんだよ? 最高じゃん。あの子のあのエロさ知ってんのが自分だけだと思うと興奮する」
一枚のドアを隔てていても、頭を垂らし俯いていても、高岡さんが今どんな顔をしているのか分かる。にやけながら、でも妙に自慢げに堂々と、一点の曇りもない表情をしているのだろう。
「つーかなんか……こんなデレデレの高岡初めて見たわ」
「俺も自分がこんな風になるとは思わなかった」
水を流す音が聞こえた。高岡さんの言葉で、友人は本当におかしそうに笑っている。
そうか、にやけた顔で俺の身体の隅々までを愛でる高岡さんは、ほかの人にとって馴染みのないものなのか。友人にとっても、高岡さん本人にとっても。高岡さんは俺と出会うまで、一夜限りの身体の関係はあれど、正式な恋人同士の付き合いをしたことがなかったと言っていた。俺は高岡さんしか知らない。高岡さんは俺しか知らない。
「俺その子と付き合い始めてから毎日死んでもいいくらい幸せだから」
「うっわまじで爆発しろやお前」
「ははっ」
会話は遠ざかっていく。そしていつしか、トイレは先程までの静寂が戻って来た。次の客はなかなかやってこない。狭い男子トイレには、俺一人ぶんの呼吸だけが張り付いている。
それでも俺はまだ、個室の鍵を開けられないでいる。
「……ほんとに何言ってんのあの人……」
高岡さんが最後に残した言葉の余韻が脳味噌を内側から叩く。どんな顔をして会えばいいのだろう。個室の鍵を開け、自宅の鍵を開け、高岡さんに「おかえり」と言われたとき、なんて言えばいいんだろう。
ああきっと同じようににやけてしまう。でもそれをごまかすために睨みつけて、うるせぇとかキモいとか口走ってしまうだろう。自分のこういうところが本当に嫌いだ。こんな俺をすきだと言える高岡さんは、本当に変人だ理解できない。
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