教育

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百貨店に隣接するコーヒーショップの2Fで、ふつふつと湧く怒りを前にコーヒーカップが冷えていく。 「俺、怒ってますからね」 決定的なその言葉は彼にとって切り札であるらしい。俺はコーヒーをすすりながら感情の溢れる目もとや眉山を眺める。伊勢ちゃんは、怒ってるときのほうが人間らしくてかわいいな。 「高岡さんはどーせ『こんなちっせぇことで』とか思ってるんでしょうけど、そういうことじゃないですから。前から気になってたんですよ、高岡さんのそういうとこ」 「うん」 「何度も何度も起こしたのに起きないし、じゃあ俺ひとりで行くんでって言ったら『すぐ支度するから』って引き止められるし、それで結局こうなってるじゃないですか」 機能、伊勢ちゃんから限定生産の時計を狙っているという話を聞いた。ネットの予約枠は取れなかったので、授業が終わったらすぐに店舗へ予約しに行くのだ、と。しかし昨日は結局他の用事を優先してしまったので、祝日である今日の朝から買いに行くことにしたらしい。 俺は、伊勢ちゃんが昨日のうちに買いに行かなかった理由を知っていた。フットサルサークルに所属している友人から聞いた。サークル活動が終わった後、黒部が借りてるものを返したいだとかなんだとか言って、伊勢ちゃんを家に誘っていたらしい。そして昨日、知らない匂いをつけて帰ってきた伊勢ちゃんは「友達の用事に付き合ってて遅くなっちゃったんで、明日改めて行きます」と、黒部の名前はあえて出さなかった。 時計を欲しがっていることは知っていた。でも天秤にかけたとき黒部の存在より軽い時計ならたいしたものではない。 だから俺はいいかなと思った。さして眠くもなかったけれど、自宅でいつまでもまどろんでいたっていいだろう。そして俺の予想通り、店に到着したとき狙いの商品はすでに予約枠が満了していた。それでもいいかな、と思った。 「怒ってるのは買えなかったからじゃないんです。生活習慣とかそういうのに対してです。俺が言えたことじゃないですけど、でもいい加減直したくないすか、お互い」 欲しいものが手に入らなかったこと、そこに自分の計画不足が影響していること、さらに俺の怠惰によって決定的な足止めをくらったことで感情がぐつぐつ煮えてしまった伊勢ちゃんは、だからこそ冷静に、淡々と怒りをあらわにしていた。 「別に高岡さんのせいにしてるわけじゃないんですよ。それでももし今後同じこと繰り返したとして、それが時計なんかじゃなくてもっと大切な問題の前だったら、って話で」 感情ではなく論理で相手を説き伏せる、理知的な姿こそが彼の目指す「理想の伊勢隆義」なんだろうけれど、はっきり言ってその姿は彼の本質と似て非なるものだ。それなのに無理して追いかけているから、可愛くてたまらなくなって、無理してるんでしょねえねえ、と言いたくなる。 シーツの中で彼も知らない本当の本当のところに触れてそのまま奥まで手を突っ込んで引きずり出して、悔しくて泣いてる彼をめいっぱい甘やかしたくなる。ねぇ伊勢ちゃん俺がこんなに好きになれる相手は他にいるのかな。そしてお前のことをこんなに好きになってくれる人は他にいるのかな。 「聞いてますか」 「え、うん」 「……俺怒ってるんですけど?」 「うん、わかってるよ。ごめんね。今度お詫びの焼肉おごるから」 「ほらあ! そーやってまた俺のことばかにしてんでしょ。肉でも食わせておけば機嫌直ると思って」 「思ってないよ」 冷静でいたがるけれど本当は感情的で同時に人情深い。そんな彼からしたら信じられないかもしれないけれど、俺は本当に冷たいから、残酷な言い方をするなら伊勢ちゃんの機嫌がいいか悪いかなんていうのはあんまり重要ではなかったりもする。 それでもやっぱり、機嫌の悪いときの伊勢ちゃんは、いつもなら喜ぶことも笑ってくれることもいらないうるさいと突っぱねて拗ねてしまうから厄介だ。そして俺の無神経な振る舞いにはどんどんマイナス点をつけて、俺を悪い人にしてしまう。 嫌われるのが怖い俺は、お金も時間もめいっぱいかけて伊勢ちゃんを甘やかして機嫌を直してもらうしかない。結局それは自分のための行いだし、自分本位にしか生きれない俺は冷たい人間だと思う。 「本当口先だけですよね高岡さんって」 「そんなことない。本当に反省してるんだよ、ごめんね伊勢ちゃん」 「だから……っ、あ」 腕を伸ばして頭を撫でた瞬間の、彼の表情を忘れることはきっと出来ない。 俺の手のひらに気付いて身構えるように目を見開いて、口元を引きつらせた。しかし俺の手は、きっと彼が想像していたよりもずっと優しかったのだろう。驚いたように俺を見て目の中を桃色にして、それから慌てて目を逸らしたのだ。 そのとき伊勢ちゃんは、完全に落とされていた。俺はその瞬間を目撃してしまった。 「……帰る」 「え、もう? まだコーヒー残ってるじゃん」 「高岡さんと話しててもらちあかないからもー帰る」 伊勢ちゃんはコーヒーカップを返却口に置いて店を出て行った。エレベーターへ真っ直ぐ向かうも、上階で止まったままなかなか到着しないことに痺れを切らしてすぐ隣にある階段を駆け下りていく。俺は黙って後を追う。 「ついてこないでください」 「でも俺も帰り道同じなんだよね」 「じゃー俺寄り道して帰るんで先行っててください」 「どこ行くの?」 「どっか」 「どこ?」 「誰でもいいから誰かんちです。かまってくれる誰か。黒部とかヒマそーだしすぐつかまるんじゃないですかね」 俺たちはちょうど踊り場を歩いていて、俺はその名前を耳にした瞬間、はげしいめまいに襲われた。ただそれだけだ。 気付いたら俺の右手は伊勢ちゃんを捕らえていた。伊勢ちゃんの華奢な、それでも喉仏の形がはっきりと分かる男らしい首元を捕らえて、壁に押さえつけていた。伊勢ちゃんの足があと一歩、踊り場からはみ出て段差に向かっていたら転落したかもしれない。よかった、伊勢ちゃんが無事でよかった。元凶のくせにそんなことを考える心と、静かに理性を剥がしながら沸騰する嫉妬心とを飼いならせない。家に行ったからといって、なにかあったのではと考えているわけではない。ただ、俺のそうした許容の姿勢に、伊勢ちゃん自身が慣れているのだとしたら、それはもうさすがに、許せる気がしない。 「俺は謝ってるよ、伊勢ちゃん」 そんな自分勝手な振る舞いがよく出来たものだと、自分に呆れそうになりながらも彼の喉にかける圧は抑え切れなかった。 壁に押さえつけられた伊勢ちゃんの目は見開かれ、そして揺れて震えて、被害者の色をにじませる。俺はようやく右手をゆるめる。自由になった伊勢ちゃんは派手にむせこんで、まぶたのふちに引っかかっていた涙はついに溢れた。俺はもう一度手を伸ばす。 「……ごめんね伊勢ちゃん。謝るから」 そうして乱れた髪を撫でる。懺悔のため許しを乞うため、そして新たな教育のために頭を撫でる。
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