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誓います
一限の日は、迫りくる授業開始のチャイムと戦いながら講義塔の階段を駆け上がる。横目で腕時計を確認しながら一段飛ばしで駆け昇っていると、視界の隅で同じように走っていたはずの伊勢ちゃんが、突然フェードアウトした。驚いて振り返ると、伊勢ちゃんは階段の八段目あたりで壁にもたれかかるようにしゃがみこんでいた。
「伊勢ちゃん!?」
先を行ってしまった二段を降り、伊勢ちゃんの肩に触れる。伊勢ちゃんは左手を一段上の足場に置き、右手で腹辺りを押さえている。
「どうしたの!?」
「痛い……」
「え、お腹痛いの?」
他の生徒は立ち止まる俺達を迷惑そうに横目で見ながら、どんどん先を行く。狭い階段スペースで座り込む俺達は、他の生徒にとって立派な障害物だ。今日の一限は遅刻に厳しい教授なので、焦る気持ちも理解できる。
「と、とりあえず移動しよう。立てる?」
「いたいー……」
「よいしょ、っと」
伊勢ちゃんの腕をとり自分の肩に回し、腰を支えて立ち上がる。軽い、と言えど成人男性だ。そして急こう配の階段だ。踊り場に移動させることで精一杯だった。
「っ……しょ」
「……のせいだ」
「え?」
「たかおかさんのせいだー……」
伊勢ちゃんは踊り場の角に小さく収まるように座り込み、俯いている。なにか責められているようだが、心当たりがない。ちらりと腕時計を見た。長針はてっぺんを向いていた。
「え? なんで俺?」
「高岡さんのせいで俺がこんな思いしなきゃいけないんだ……」
「なに? 何の話?」
「だからあ」
「なに?」
「痛いの、お腹じゃないです」
その時、チャイムが鳴ってしまった。あの教授はチャイムが鳴ると同時に教室に鍵をかけ、遅刻者の入室を一切許さない。
「……ごめんね」
「……」
「俺が昨日の夜調子乗っちゃったせいだね、ほんとごめん」
「そうですよ……」
「変なことしちゃってごめんね」
「高岡さんのせいだ……」
伊勢ちゃんは膝の間に額を押し込むように深く俯いて、ぼそぼそと非難を漏らす。無防備にさらされてしまったつむじを見ながら、まるい形の頭をゆっくり撫でる。
「ごめんね、もうしない、誓うよ」
誠実に聞こえるだろうボリュームで、静かに丁寧に発音する。伊勢ちゃんのまるい頭が、一度だけ揺れた。顔を伏せたまま頷いたのだ。
俺はきっと、もうしないと誓ったことを、これから先何度も何度も繰り返すのだろう。既に分かり切っている。
「ごめんね、本当にごめん」
「……わかりましたもういいです」
「許してくれる?」
「……はい」
伊勢ちゃんもきっと、一時の感情で込み上げる怒りをぶつけているだけだ。ぺらぺらした「ごめんね」でこの一瞬だけ安心し、許してくれる。俺はその優しさに甘えて、何度も何度も伊勢ちゃんを傷つけ非難され、また「ごめん」と言うのだろう。
俺は優しい約束をとりつけるふりをして、華奢な手首へ確実に手錠をかける。伊勢ちゃんが逃げられなくなればいい。逃げられないほど強く、深く、俺を愛してくれればいい。
「とりあえず、チャイム鳴っちゃったし一回家帰ろうか。歩ける? おんぶする?」
「おんぶは……いいです」
「遠慮しなくていいのに」
「……歩けますから」
ようやく顔を上げた伊勢ちゃんの頬を撫でると、振り払われて小さく「学校ではやめてください」と言われた。俺は伊勢ちゃんの照れている顔がなにより好きだ。
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