うちの犬は伝えたい

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うちの犬は伝えたい

「五年前の今日、あの桜の樹の下に捨てられていた吾輩は飼い主に拾われた。そしてこの家に来たのだ」  ポチはおすわりの体勢で立っている私を見上げた。尻尾は床にぺたりとついている。 「そっか。今日だったっけ」 「うむ。忘れるわけがない」 「たしか、雨が降ってたんだよね」  目の前の大きくなったポチを見つめて、昔の小さかった頃のことを思い出す。  段ボール箱に入れられて、雨で全身ずぶ濡れになって震えていた子犬。痩せ細って鳴く力も残っていなかった。 「そう。雨が降っていたんだ。食べるものもなく空腹で体力も尽き、濡れそぼった身体は寒くて、寒くて。それでも前の飼い主のことを信じていたのだけどね。雨でも迎えに来てくれないのを知って、もう二度と会うことはないのだと悟って、精神的にも限界だった」 「……そっか。辛かったね」  当たり前だ。信頼していた飼い主に裏切られたのだ。親に捨てられたも同然だろう。それがどれほどの絶望か、私には想像もできない。  知らなくていい現実は確かにあって、それでも思い知らされるのはどれほど苦しいことか。 「ごめん。思い出させちゃって」 「ああいや勘違いしないでくれ。確かにあの頃は辛かったが今の私は幸せだ。あの頃の気持ちを、このあたたかい部屋の中で笑って話せてしまうほどにな。もうあの過去は辛い過去ではなくなった」  思い出したくない過去などではない。  思い出しても、痛くも痒くもない過去になったのだ。  ポチは真っ直ぐにこちらを見つめてそう言った。 「全部、飼い主のおかげだ。吾輩は飼い主に救われた」  ポチは赤い舌を出す。少し開かれたその口は笑っているようにも見える。 「……あの時は正直もう諦めていたよ。せめて最期にこんな綺麗な桜を見られてよかった、なんて考えていたような気がするな。はっはっは、それがどうだ。もう五度目だよ、飼い主」  ぱたぱたぱたぱた、と音がした。振られた尻尾が小刻みに床を叩く音。   「吾輩に五度も桜を見せてくれて、本当にありがとう」    ポチはそう言って、頷くように大きく頭を下げた。  私は膝を曲げてポチの前に屈む。目線を合わせて、もふもふの頭を両手でぐしゃぐしゃと撫でた。ポチは黙って気持ちよさそうに目を細める。私も何も言わなかった。  せっかくポチと通じる言葉を持っているのに何も出てこなかった。ただひたすら頭を撫で続ける。 「ねえ、ポチ」    しばらくの間そうして、私はようやく家族(うちの犬)の名前を呼んだ。  まだ何と言えばこの気持ちが伝わるかはわからない。  それでも、約束する。 「これから何度も桜を見に行って、何度も家に帰ろうね」 「うむ。よろしく頼むぞ、飼い主よ」
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