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雨に降られて(1) 〜作:けいりん
あきこは、相傘が嫌いだった。
「だって、濡れたくないし、自分が濡れてないと、れいくんが濡れてるんじゃないかって心配になるから」
だからと言って二人とも傘をさすと距離が開くのが嫌だと言う。
「じゃあさ、濡れて歩こうか」
僕が言うと彼女は嬉しそうに頷いた。
そうして僕らは手を繋いで、駅ビルから足を踏み出した。バスターミナルまで、雨の中を、お互い反対の手に傘をぶら下げたまま。
※ ※ ※
久しぶりの情事は、あまりにも簡単で。
そこにはふたりが恋人だった頃のときめきも、ためらいも、ほのかな暖かささえもなく、ただ惰性と湿った欲望があるだけで、逆にお互いの罪悪感さえも、爛れた快楽の中では些事にすぎないように感じられた。
「帰るの?」
衣服を身につける背中に声をかける。
「うん。そろそろ帰って、ご飯の準備しないと」
「そっか」
僕には何の予定もありはしなかったけど、なんとなく、身を起こす。
「じゃ、俺もいくわ」
そう。今日は、”何となく”ここまできてしまった。
帰省のおりに、ちょっと古い知人と会ってランチをするだけのはずだった。あきこに家庭があることは知っていたし、そこに波風を立てるつもりはなかった。だから必要以上に僕は警戒していたはずなのだ。今更本気で”焼け木杭に火がつく”なんて思ってたわけじゃないけど、当時の話や男女の関係を匂わせるような会話は、できるだけ避けるようにしようと、会う約束をした時から、そう決めていた。
なのになぜ。
”なんとなく”、そうとしか言えないなりゆき。
二人のどちらかがはっきりした決断をした瞬間があったのかどうか、そんなことすら、僕はいまだに分からずにいた。
重い扉の音が、その答えを永遠に閉じ込める。
エレベーターの中で、”なんとなく”、軽いキスをした。あきこは笑う。僕も何となく笑みを返す。
無言のまま鍵を返し、ホテルの外へ。
「あ」
「雨だね」
二人がほぼ同時に言う。荷物から折り畳み傘を取り出している最中、彼女が口を開いた。
「ね、傘、入れてくれないかな」
「持ってきてないの?」
「あるんだけど、濡らすと電車乗る時面倒で」
「別にいいけど」
傘を開き彼女の方に差し出すようにすると、彼女は僕の左側に並んで歩き出した。
(そうか)
今日あった、どんなことよりも。
戻らなかったときめきよりも、取り返せないためらいよりも、思い出せないぬくもりよりも。
ただ、彼女と相傘をして歩いているというそのことに、僕は、彼女が昔の彼女ではなく、僕もまた昔の自分ではないのだということを思い知らされていた。
雨だけが、あの日と同じように、静かに降り続けていた。
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