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豚骨ラーメンが美味しい県の、お茶が有名らしいY市の片隅。ど田舎。
田んぼと、アパートや民家、数件のお店しかないような寂しい国道沿いに、Jのつくファミリーレストランがある。
九州にチェーン展開していてさして珍しくもないファミリーレストラン。いつも私は、そのレストランの窓辺の、ひとりの女性に視線が吸い寄せられていた。学生である私にファミレス通いを日課にできるほどの財力はなく、友達や親とのたまにを堪能している庶民に過ぎないのだが、私の気になる彼女は、私がここを訪れる時に限らずいつも窓辺で本を読んでいた。
いつも、というのは、私がファミレスに入らない日も外からその女性の読書姿を見かけていたからだ。
長く綺麗な黒髪の女性で、肌も白く、口紅の淡い紅色がとても似合っている。たぶん好きな色は白か青だ。着ている服装のデザインはシンプルで、彼女のスレンダーで長身の体格を引き立たせていて、上着やシャツが白か青を際立たせるものが多いからだ。
学生の身分からもお洒落が上手だとわかる。あの人と私とでは体格が違いすぎて参考にすらならないのが哀しい。同じなのは性別だけ。真似を許されない不平等の不満を神に向けられずにはいられない。
今日は母親の買い物に付き合った帰りだ。道中小腹を満たしたく、あとお喋りもしたくなり、女ふたりということもあって贅沢をしようということになったのだ。
それはたぶん母親の口実で、甘いものを食べたくなったのだろう。私もそれに甘えて、あやかろうという利害の一致からだった。もしかしたら、母親の方は本心の一部に子どもに買い物に付き合わせたお礼があったかもしれないが、買い物が好きな私は苦でもなく、今日という一日こそが楽しくてご褒美そのものだった。
そして、上機嫌であの綺麗なお姉さんをお目にかかれるのだから、贅沢を通り越して天国だ。
というわけで、二人合わせて二千円にもならないスイーツとコーヒーセットを頂きつつ、ガールズトークに勤しむのだ。これで今日食べた分のカロリーは消費される。だから太らない。むしろ買い物で歩いたからマイナスだ。痩せているかもしれないから余裕で食べていい。
母の買い物には時々付き合っている。着いていけばお菓子ひとつ買ってもらえるし、ファミレスでご馳走を頂ける機会もあるからだ。母としても、娘が着いてきてくれるのは嬉しいらしい。
今回は、来月の中旬に近所づきあいの主婦同士で小旅行ためのお洋服の購入だ。私と母であれこれ試しながら、七月の夏らしい服装を揃えた。ご満悦のようで私としても嬉しい。
ウエイトレスさんの案内で、ふたり用の席へ歩く。店内はピーク時とずれているので客の姿もまばらだった。
肝心のお姉さんは、いた。
今日もいつもと同じ窓際の席で、静かに本を読んでいる。ページをめくる指も綺麗でため息が漏れそうだ。ネイルの色が少し違う。私はもう窓際のお姉さんマニアだ。
じろじろ見て不審がられて帰ってしまうのは残念なので、席に向かうとき一瞬だけ視線をやって、お姉さんの姿を記憶に焼き付ける。テスト勉強以上の集中力が発揮される。白い上着が似合う。あ、本の栞が原色青に変わっていた。
母と私は、席着くとメニューを開いて三分も経たず注文を決める。季節メニューに変更がないときは、ふたり仲良くこのファミレスの定番を頼むのだ。
「チーズケーキとコーヒーのセットを二つ。以上です」
ウエイトレスさんに注文してから待つ時間を、私と母は会話で楽しむ。話題は、お父さんと教師、友達、ネットやテレビと、部屋に雑誌を広げて散らかすみたいに会話を弾ませた。
私の視線はそんなときでも、窓際のお姉さんに吸い寄せられるのだ。
ちらりと見やってまた母に戻す。
いつもあそこで読書をする横顔に感情らしい動きはない。ともかく無機質、であるが故に綺麗だった。是非とも挨拶を交わす程度のお近づきを果たしたいところなのだけど、私はあの人が誰かとまともに話しているのを見たことがなかった。知り合いもこの店には来ていないようだ。
時々、本から顔をあげてウエイトレスに注文をしているのだが、よほど声が小さいのかほとんど聞こえない。どんなに店内が静かでも、小さな雑音がお姉さんの美声を遮断する。運良く後ろの席に座れたときだけ、少しだけ聞こえたことがある。
とても可愛らしい。失礼ながら顔や体格に似合わずの柔らかくて高い音の声だった。ギャップが凄すぎて、飲みかけのソーダが鼻の穴に逆流しそうだった。声がコンプレックスなのかもしれない。
だから、誰も寄せ付けない雰囲気を敢えて纏っているのかもしれない。これは私の勝手な妄想だ。私はあの人の美しい姿以外何も知らないのだ。
ともあれ。私以外にも、お姉さんに注目する人は当然いる。あれだけ綺麗なのだから、むしろ誰も感心がないとしたら、私の見えている世界か他の人間の感性を病院の診断に出さざるを得ない。
同じ女でウエイトレスも例外じゃない。たまにの注文を聞いたあとは厨房で大盛り上がりだ。こっちのフロアまでダダ漏れの始末である。男の子だって無視できないでいる。席に案内されるまでの道中、意識がお姉さんに吸い寄せられていて、テーブルか椅子の脚に靴を躓かせていた。派手転ぶおじさんもいる。
そう。このファミレスの誰も彼もが、彼女に注目しているのだ。
時折髪を耳にかき上げる仕草や、コーヒーカップをつまむ指、一呼吸の口元まで、性別無差別で彼女の虜になっていた。
しかしながら、誰かが彼女に声をかけたところを見たことがない。
どいつもこいつも度胸がない。私もだが。
ウエイトレスさんの仕事上の受け答えはノーカウントである。誰か一声だけでも声をかけるべきなのだ。二之手、三之手のボーダーラインも低くなるというものだ。誰も飛んだことのない棒高跳びのやり方なんてわかるはずがない。失敗か成功のどちらでもいいから誰かが飛んでからこそ次に繋がるというものなのだ。
根性無しどもめ。私もだけど!
この近寄りがたさがうまい具合に機能していて、客がまばらでも満員でも、あの女の人もにお店にも悪い問題らしい影響はなかった。せいぜい何かで躓く人や不注意で小さな事故が起こる程度だ。ウエイトレスのスプーンを落とす本数が増えたり、注文を厨房に持って行くのが数十秒遅れたりと、些細なことばかり。
「さっきからチラチラ。何を見てるの?」
意識がテーブル二つ挟んだ向こうのお姉さんにばかり向けられていて、母との会話を失念していた。不審そうに私の視線を追ってから、母は納得した声を漏らす。
「あの人、いつもあそこに座っているわよね。時間はだいたいお昼過ぎから夕方を過ぎるまでかしら。あんなにお化粧して誰か待っているのかしら」
母は私より幾分もお姉さんを冷静に見られるようだ。
お姉さんの、一見で計れるだけの行動理由を把握できず、困惑していた。あの綺麗さに目が眩まない人はほとんど同じ反応だった。お姉さんは、とても綺麗だけど、浮いているのだ。
いかにもお出かけしてますという恰好に身を整えていて、化粧もばっちりだ。静かに読書している姿はもはや芸術の域だけど、ほぼ毎日ど田舎の片隅のファミレスに通うためのお洒落だとしたらいきすぎている。
お店の経営者には失礼だが、ここはそんな格式のあるところではない。上下ジャージ姿で立ち寄っても誰も眉を染めないようなところだ。
つまり、窓辺のお姉さんへの周囲の反応は、七対三で割れている。
七が見惚れている。
三が不審に思っていた。
恐ろしいところは、これの中間が一にも満たないところだ。私も、母に言われて確かにとお姉さんの不審さには納得するところもあるのだけれど、あんなにも綺麗なのだからすべてを許していたいのだ。
「お仕事は何をしているのかしらね」
「そんなこと」
これ以上の追求は私が不快だった。どうでもいいじゃない、と母親を黙らせたくなった。しかし、ウエイトレスに遮られる。頼んでいたケーキとコーヒーを持ってきたのだ。
私がこの人を静かにさせたい意思が遮られたみたいでもやもやの気持ちが残る。
せっかくのチーズケーキがただの甘酸っぱいケーキになってしまった。美味しさが半分以下だ。
お姉さんはファミレスの窓辺で座って読書をしているだけだ。迷惑をかけているとすれば、長時間席を独占していることでのお店側くらいなものだ。時々コーヒーのおかわりやスイーツを頼んでいるので、まったく売り上げに貢献していないわけでもない。お店側の不利益はどうしようもないけれど、他は問題ないから別にいいものではないのか。
なぜ、ただの日常のずれを重大に捉えて、その人の人格をも奇異に見たがるのか。
何かわけがあるかもしれないじゃない。
私の母に対する評価が変わっていった。お母さんは冷静ではなく偏見なだけで、私にはひねくれ者に見えていた。
窓際のお姉さんを、七対三の三で不審に思う人たちの中に、母親が入っていた。私は残念でならなかった。
「あの人は、いったいどうしてあそこに座ってるのかしらね」
もう言葉を返すこともしなくなかった。
綺麗な湖の水底を荒らされている気分だ。砂煙がもわりもわりと、せっかくの美しい湖面を濁らせていく。
母は私の会話を諦めたのか黙ってケーキを突っついた。こんなところ早く終わらせてしまいたくなった。楽しい一日もこれでは台無しだ。
私は窓際のお姉さんを怪しむ母が態度を改めてくれるまで、不愉快の顔を取り下げるつもりなんてなかった。
なんてくだらないことに気が取られているのだろう。私は母の社会に擦り切れた感性を哀れんだ。彼女の美しさには些細でしかない。そのままを見ればいいのに。
「帰りましょうか」
ほどなくして母が席を立つ。私も最後のコーヒーを飲み干した。
私たちが退店する時も、窓際のお姉さんはずっと本を読んでいた。
それからも、あのお姉さんはずっとファミレスの窓際でひとり静かに本を読んでいる。ウエイトレスとのやり取りだけしか会話しているのを見たことがない。晴れの日も雨の日も、曇りの日も。季節が変わって冬になってまた春が巡っても。
窓際のお姉さんは白と青の色合いが綺麗な上着を羽織って、いつもの席に座っていた。
あれから誰か声をかけた人がいるのかは正直知らないし、知ろうとも思えない。あの人はあの人のままでいればいいし、私はその姿を、店内のどこかの席でまたは外からで見ることができればよかったのだ。
そんなある日だった。窓際のお姉さんがいなかった。そして、その日を境に、お姉さんはファミレスに姿を現さなかった。
さして騒ぎにもならない。当然だ。ただいた人がいなくなっただけのことで多少の残念がる声があがったとしても、困るなんてあり得ない。ファミレスの繁盛ぶりも相変わらずで、お姉さんが座っていた席には、次の日には知らない誰かが座っていた。
今日もお姉さんの姿はない。また別の誰かが座っているのを、外から窺った。夕暮れの西日が眩しくて視線を下に向けて、家に帰る。
車が時折通るだけの田舎の歩道。道路の反対側は田んぼで見栄えが劣る風景しかない。私の中で、何かの感情が落っこちた。
なんだ。
つまらない。
一週間ほどで彼女の再来を期待する気持ちも廃れたかもしれない。思えばあのお姉さんは綺麗なだけで、特に面白いわけでもなかった。どこか寂しそうで。たぶん元彼との待ち合わせでもし続けていたのだろう。毎日同じような恰好で来るのも目印のためかもしれない。他の誰とも仲良くできそうになかったのだから、元彼とのよりを戻せず諦めてしまったのかもしれない。
家路に着く私の隣を救急車が通り過ぎた。市内のほうへ走って行く。川の向こうに町があるから、救急で誰かが病院に運ばれているのだ。私の興味も薄れていった。
何日かして、市内で自殺があったらしいと何かで知った。
アパートで独り暮らしの女性が首を吊っていたとか。ふうん、といつものファミレスで窓辺から外に視線をやる。私には関係ない。どうでもいい。
窓に映る店内と外の景色が重なって、視界がぼんやりする。世界が希薄に見えてつまらない。
あの窓際のお姉さんもこんな気持ちだったのかと、思い出しもした。
だったら、なんて冷たい人なんだろう。
私は、今日が学校帰りに友達とファミレスに寄っているのを思い出して、向かい席に座る彼女の、アイドルの話題に笑ってあげた。
「そういえばさ、ここにずっと綺麗なお姉さんが座っていたときがあったんだけど、知ってる?」
ちょっとした興味で、友達に話題をふってみる。
友達はきょとんとして、どんな人なのと聞いてきた。
そうだよね。
私は、私の爪の伸びているところが気になった。
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