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「高峰主任、女性の妊娠を責めるのはマタハラですよ」
それまで冷静だった涼の眉がピクリと反応する。この瞬間までマタニティーハラスメントの自覚がなかったらしいことに、玲奈の方がちょっと面を食らった。時代遅れというか、自己中というか、若いくせに涼には未だ男性上位意識がある。そこを標的に、玲奈は一気に攻め込んだ。どんな言葉を使い、どんな態度で反論すれば涼は熱くなるのか、十分に把握している。涼がイラつくよう、あえて挑戦的に言った。
「職場の事情は関係ありません。社員の体調を考慮するのは会社の義務ですし、私たち社員が持つ当然の権利です。主任の考え方は完全にハラスメントですよ」
「あ? 俺が悪いってのか?」
「はい」
オフィス内が凍りついた。皆が息を殺して戦況を見守る中、玲奈は密やかに興奮していた。涼の冷たい眼。明らかに苛立っている。静かに不満を募らせている。全身から滲み出る刺々しい空気も、威圧的な眼差しも、涼の全てに興奮させられる―――今この状況で、玲奈がそんな昂揚感に包まれているとは誰ひとり夢にも思わないだろう。
常に冷静で、物怖じせず、自分の意見をはっきり言う玲奈は、その容姿からも落ち着いた大人の女性と思われている。染髪やピアスがオシャレではなく個性として認知されている今、飾り気のない玲奈の少し古風な身なりも、自立した女性と感じさせる理由かもしれない。
肩甲骨まである黒いストレートの髪。眉が少し隠れる程度で切り揃えた前髪と、薄化粧が映える小顔はまるで日本人形のように清楚な美しさが感じられる。ピンクローズのリップで艶やかに彩られた小さな唇も、ツンと尖った小鼻も大きな瞳を程よく引き立て、清潔で甘やかな情緒が漂うその容姿は、これといったオシャレもしていないのに華やかな香りが漂っている。
そんな雰囲気と生まれながらの童顔も重なり、涼より4つ年上で、今年30歳を迎えるというのに、新人と間違えられることが結構あった。特に涼は上司という立場ゆえ常に上から目線で、元々が年長者に対する敬意を払わない人だから余計に風当たりが強い。まぁ、涼のそういう傲慢さも可愛い部分ではあるけれど。
「そもそも妊娠を理由とした働き方の改善要求を拒否する権限、主任にはありませんよね」
心をくすぐる甘やかな快感を胸の内で噛み締めつつも、ことさら冷たい表情を浮かべて、玲奈はわざと挑発した。
「メンバーのシフトを組んでるのは主任です。体調や都合に合わせて皆がスムーズに仕事ができるよう配慮するのは、主任の義務でもあります。そうですよね、課長?」
「へあっ!?」
窓際で沈黙を貫いていた50代の課長が、ギョっと目を見開いた。明らかに動揺しながら、しどろもどろで返してくる。
「いやっ、まっ、シフト管理も大事だけどっ、部下の指導も大事だしっ、高峰君は決してハラスメント行為をしてるわけじゃはなくてっ、素直に心の内を語ってるっていうかっ……」
数年後には会社のトップに立つかもしれない相手に睨まれては、課長も口を慎むしかないだろう。ハンカチで顔を拭いている課長に向いていた涼の鋭い視線が、再び流れてくる。
俺に楯突くとはいい度胸してるな―――睨み据える涼の眼が、そう威嚇している。たまらない。ゾクゾクする。体の芯が熱い。頭の中が痺れて顔がとろけそうになる。
だが玲奈は一片も無表情を崩さなかった。もっと涼を苛立たせ、自分の存在を刻み込むには、こんなんじゃまだまだ攻め足りない。もっと大胆に、もっと鋭く、涼の自尊心を傷つけてやらなければ。
「笹山さんに"すみません"なんて謝らせないで下さいよ」
「何だと?」
冷静に、だがたっぷりと不満を匂わせながら玲奈は言った。
「赤ちゃんができたのは喜ばしい事じゃありませんか。本来なら皆でお祝いするべき事なのに、それをリーダーの自覚だの責任だのと責め立てるなんて間違ってます。どんだけ器の小さい人なんですか。『全部俺が背負ってやるからゆっくり休め』ぐらいのこと言えないんですか? 高峰課長なら絶対にそうおっしゃいますけどね」
「……ッ」
毛嫌いしている兄を引き合いに出されて、かなりカチンときたようだ。憎らしげに睨む涼の様子に満足しながらも、玲奈は冷やかにトドメを刺した。
「結婚も妊娠も個人の自由です。仕事はお互いにフォローし合いながら進めていくものです。それとも、会社の都合に合わせて妊娠しろっていうんですか? 女性社員は牧場の乳牛じゃないんですけど」
「くッ……」
静まり返ったオフィスの空気がチクチクと毛羽立った。周囲は唖然としたまま固まっている。数百人の社員がいるこの本社内でも、高峰涼にここまで真っ向から反抗できるのは、身内を抜かせば玲奈だけだろう。
営業部に配置換えさせられてから3ヶ月間、何度もこんなバトルを繰りかえしている。大抵は涼の横暴なやり方に玲奈が抗議する形で幕を開け、お互いに一歩も譲らず論戦を続けた後、涼が怒って一方的に口論を終わらせる形で幕を閉じる。今回も同様の道順を辿りそう。既に涼の敵意は笹山ではなく玲奈へと移り変わっている。だが今回は何か名案を思いついたようだ。涼はそれまでの不機嫌な顔を一変させると、フンと鼻で笑った。
「そうか。なるほどな。だったら笹山の代わりは三沢、お前がやれよ」
「私が?」
「ああ、できるだろ? 課長だってお前の手腕を見込んでわざわざ企画戦略部から引き抜いたんだ。そろそろ本領発揮してもらわなきゃな」
玲奈はあからさまに嫌な顔をしてやった。引き抜きと言えば聞こえはいいが、本当は単なる兄への嫌がらせ人事。涼が課長に圧をかけ、人事課に圧をかけ、必要ないのに兄が率いる企画戦略部から無理やり玲奈を営業部に移動させたのは、噂が招いた災難だった………と、周囲は思っているらしい。玲奈としては突然の幸運をありがたく思っているのだけれど、表向きは憐れな人質を演じている。
「主任、本気で言ってます? 私、4月に営業部へ移動してきたばかりの新人なんですが」
「なにが新人だよ、入社6年目で勤務年数は俺より長いだろ。それに販売促進課に来てもう3ヶ月だ、研修期間としても十分だろうが。笹山は不規則出勤ってことにして、推進チームから外す。今後はチームの後方支援に回ってもらう代わりに、三沢がリーダーとしてチームを引っ張れ」
斜め前の席からクスクスと嫌味ったらしい笑い声が聞こえた。ふと見れば、深町苺花がザマ―見ろと言いたげな目をしている。時計からワンピースまで、全身をブランド品で飾ったご令嬢の意地悪な態度も毎度のこと。移動初日から、苺花には異常に敵視されている。お気に入りの涼が、自分以外の女と例え喧嘩であっても関わることが許せないらしい。これだからお嬢様という人種は怖い。
「頑張って下さいねぇ、三沢さん」
唾でも吐きかけるように苺花が言い放った。メイクで彩った顔には、底意地悪そうな笑みが散っている。玲奈がうんざりと顔を背けた途端、上座の涼と再び目が合った。
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