あの人

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「お前、俺に啖呵切ったんだから根性見せろよ」  冷たい声が飛んできた。周囲はとばっちりを避けるように目を逸らしている。それでいい。助けなんて求めてないのだ。涼との狭間に誰も割り込んできて欲しくない。 「笹山との交代は明日からだ。今日中に引き継ぎしておけ」 「わかりました」  玲奈は毅然と答えた。そんな態度も気に入らないようで、ますます涼の端麗な顔が渋そうに歪んでいく。 「承知したからには公益財団法人の案件、絶対に落とすなよ」 「頑張ります」  そう返事した時には既に、涼は自席を離れていた。長い足でオフィスを横切ると、壁のホワイトボードから笹山のネームマグネットを外し、代わりに玲奈を推進チームリーダーの枠に張る。これにて今回のバトルは終了。緊張感で張り詰めていた室内の空気が、ふんわりと柔らかくほぐれたのがわかる。  玲奈はゆっくりと着席した。入れ替わるようにして苺花が席を立つと、苛立たしげにスケジュールの変更を書き込んでいる涼の元に歩み寄り、こちらを見ながらコソコソと話している。けれど涼は無反応だ。ロクに返事もしないばかりか、苺花を見もせずにペンを走らせている。  涼の背中にはいつも他者を寄せ付けない硬質な気配が漂っている。その強気な冷たさに混じるごく微量の孤独感がたまらない。妙に切ない気分にさせられる。気高く、傲慢で、孤独な御曹司。人の干渉を嫌いながらも、人から認められたいと切望している。玲奈だけが知っている、涼の気持ち………   「三沢さん、どうもありがとう」  背後から掛けられた声が、甘やかな余韻を打ち砕いた。振り返ると、笹山が申し訳なさそうな顔をしていた。 「ごめんね、わたしのせいで三沢さんに迷惑かけちゃって」 「謝ることないですよ。主任に腹が立っただけですから」 「でも、主任の言うことも一理あるしね。さっきはわたしもムキになっちゃったけど、冷静に考えたらやっぱリーダーは降りるべきだと思う。後任を三沢さんに押しつける形になっちゃって、本当にごめんね」 「いいんです。それより笹山さんは体を大事にして下さい」 「うん、ありがとう」  自席に戻る笹山から視線をパソコンに戻して、玲奈は画面の印刷アイコンをクリックした。作業を中断していたパソコンが動き出し、印刷室にあるコピー機へと信号を送っている。そっと立ち上がると、オフィスの奥にある印刷室に向かった。  廊下ですれ違う同僚たちは、わざと目を合わせないようにしている。販売促進課に来てからというもの、皆には腫れ物に触るような扱いをされ、針の(むしろ)みたいな日々を過ごしていた。もともと皆でワイワイ過ごすのは苦手なので、独りで過ごすことに不満も不自由も感じてないけれど、過度なお客様扱いは仕事上不便なこともあって困る。  それもこれも、全てはあの噂が原因だった。  営業部への移動が決まった背後には、高峰グループの社長令息・高峰涼が深く関わっていたらしい。3ヶ月前まで入社以来ずっと所属していた企画戦略部には、涼の兄・高峰翔(たかみね かける)がいる。"あの噂"というのは翔と玲奈が交際しているというもの。全くの事実無根なのだが、噂というのは勝手に独り歩きする。どこが火元なのかは知らないけれど、煙はあっという間に広がっていた。  企画戦略部の課長である翔から部署移動の話を聞いたのは、そんな噂が玲奈の耳に届いた頃だった。翔が言うには、弟の涼が人事部に圧力をかけ、半ば強引に今回の配置換えが決まったという。油断していたと、翔は悔しそうに言っていた。  普通なら、こんな事はありえない。いくら創業家一族の人間だろうと、社内での立場は重んじられる。入社してから10年以上勤めている翔ならば、課長という身分からもある程度の権限を持つが、涼はまだ3年目の新人。確かに入社直後から大きな仕事を立て続けに成功させ、手腕と実力が認められての昇級だったが、入社3年目にして営業部の主任ポストに就くなど異例中の異例。その前代未聞の異例昇級を強行に後押ししたのは他でもない、涼の母だった。  表向きは、実力主義を唱える社長の意志に添い、実績を評価されての正当な昇級となっているが、それを愚直に信じる社員などいないだろう。  兄の翔は前妻の子、対して弟の涼は現正妻の子。  後継者争いの渦中にいる翔と涼の兄弟対決においては、10歳年上で既に課長のポストに就いている翔の方が優勢だ。人望があり仕事も実績も弟を上回る長男を推す声は多く、古株は翔側についている。だがどうしても実子を社長にしたい涼の母は、まだ若い息子を背後から強力にバックアップしている。名家によくある権力抗争の構図。母が実子を跡継ぎにさせるべく暗躍し、前妻の子である長男の失脚を画策していることは、社員のみならず株主や世間にまで今や広く知れ渡っている。  今回玲奈が営業部に引き抜かれたのも、翔と交際中の彼女という噂を聞きつけた涼が、兄への嫌がらせで仕組んだ人事異動であり、背後では副社長の力が働いたらしい。高峰家の正妻にして副社長である涼の母の権力は絶大だ。実際、会社の上層部でも母の力を背後に持つ涼を後継者に推す者も多く、日増しに勢力を高めている。  母を抜きにしても、翔と涼は仲が悪かった。当然だと思う。2人はいわば水と油。根本的な考え方や性格がまるで違うのだから、気が合うはずがない。人間的な成熟度は翔の方が上で、純粋に慕われる人柄だ。一方、涼は唯我独尊を地で行くような人間で、口も女癖も悪い問題児。常識や道徳観などクソ食らえの精神で我が道を行く姿は、もはや清々しくすらある。ここまで自由に生きられたらさぞ気持ちがいいだろう。  強烈に嫌われるか、盲目的に崇拝されるか。  涼の周りは極端に二極化していて、その狭間で玲奈は実に窮屈な思いをしている。とは言え、涼のお膝元へ移動になったことは、とても。 「――おい、三沢」  背後からいきなり飛んできた不機嫌な声が、学校の教室1つ分ある広い印刷室に響いた。コピー機の前で振り返ると、涼が腕を組んで立っていた。さっきの口論からまだ5分も経っておらず、後味の悪さがまだ口の中に残っている。 「主任……なんでしょうか?」 「来週の月曜までにプレゼン用の資料作っておけよ」  涼が憮然と言った。めちゃくちゃ機嫌が悪い。乱暴な物言いは"兄の恋人"という邪魔な肩書があるせいかもしれない。 「それから、笹山と引き継ぎする時には先方の担当者についてよく聞いておけ。趣味や日課、性格、価値観なんか頭に入れて仕事しろ。担当者はいわば会社の窓口だ、印象の良し悪しで流れが変わる。いいな?」 「承知しました」
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