あの人

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 玲奈はプリンターに向き直った。態度は褒められたもんじゃないが、涼の仕事に対する姿勢と能力は高く評価できる。皆は涼の成功を母親の力のおかげだと言うけれど、決してそうじゃない。涼は自力で勝負している。少なくても仕事に対しては真面目だ。むしろ母の干渉を嫌い、距離を置いている。  だが、"兄の恋人"とは距離を縮めるつもりらしい。話は終わったはずなのにまだ後ろにいる。玲奈は再燃し始めた高ぶりを隠しながら、わざと面倒臭そうに振り返った。 「主任、まだ私に何か?」 「あるからいるんだよ」  涼の端麗な顔に、暗い笑みが散った。 「お前さぁ、本当は兄貴と付き合ってんだろ?」 「ですから、付き合ってません」  玲奈はきっぱりと答えた。 「何度も言ってますけど、課長とは上司部下の関係で他には何もありません」 「嘘だな」 「言い切るところが凄いですよね。その自信どっからくるんですか?」 「誤魔化してもムダだぞ。俺の目は節穴じゃねぇ」 「節穴ですね。だって私、課長の恋人じゃありませんから」 「まぁいい。兄貴の考えることなんかお見通しだ」  人の話なんて聞いちゃいない。涼は意地悪そうな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。反射的に玲奈は後ろに下がったが、コピー機に背中を押され逃げ場を奪われた。 「な、なんですか? ちょっと主任、近いです」 「お前さぁ、俺を騙すならもっと上手くやれよ」  コピー機と涼の間に挟まれて、玲奈はビクリと体を強張らせた。スーツを着ていても涼の熱を感じる。心臓がトクトクと速いリズムを刻んでいた。そんな心の内を悟られないよう必死に平静を装うも、緊張感と興奮で声が震えてしまう。 「騙すって何のことですか?」 「とぼけんな。全部わかってんだよ」 「きゃっ」  涼がコピー機に両手をついた。冷やかな微笑が鼻先に迫ってくる。背中を反らせて距離を保つが、腕の中では身動きが取れない。 「あのっ、主任っ」 「プライドの高い兄貴が、そう簡単に自分の女を手放すはずねぇんだよ」  吐き捨てるように涼が言った。まるで獲物を追い詰めた肉食獣みたいに、優越感が滲む眼で鋭く見つめてくる。 「正直に言え。兄貴に頼まれたんだろ? 我慢して俺の所に行って、こっちの動きを探れってさ」 「そんなこと頼まれてません!」 「ハハハっ、お前がムキになったところ初めて見た。へぇ、意外にわかりやすいのな」 「違いますって!」  キスでもされかねない距離まで涼の顔が近づいてきた。どうしよう。完全に遊ばれている。今はまだ、波風を立てたくないのに。 「主任っ、本当に私、何も知りません」  玲奈は真剣に訴えた。 「営業部には人事異動で来たんです。私が気に入らないなら企画戦略部に戻して下さい」 「そうだよなぁ、好きな男の所に帰りたいよなぁ」 「課長をそういう目で見たことはありません。入社からお世話になっていて尊敬していますが、あくまで頼れる上司です。それに課長は誠実な人ですから、主任が考えるような姑息なマネはしない人ですよ……あ」  自分の失言に気づいて口をつぐんだが、もう遅い。涼の端麗な顔から笑みが剥がれ落ちた。迂闊だった。つい口が滑って余計な事を言ってしまった。 「ふぅ~ん、俺が考えるような姑息なマネか」 「いえ、そういう意味じゃなくて……」 「別にいい。兄貴と比べられるのは慣れてるし、俺自身、自分を正当化するもつもりねぇからな……それで、俺が考えるような姑息なマネって具体的にどんな事だ? ほら、言ってみろよ」  間近に迫った切れ長の瞳が、どこか寂しげに揺れている。意外だった。どこまでも傲慢で自分を中心に生きてる涼が、まさかこんなヤワな言葉に傷つくなんて思ってもみなかった。おそらく涼本人も気づいていないんだろう。感傷的な瞳とは逆に、声は苛立ちでささくれ立っている。 「さっきまでの威勢はどうした? あ? 言えよ。いつも俺に遠慮なんかしねぇだろ。俺の言う事なす事反発するくせに、なんで黙ってるんだよ。お前も結局、心の中じゃ兄貴と比べて俺を見下してんだろうが」 「比べてなんかいませんっ」  真剣に言えば言う程、涼の疑念は深まっていくようだった。もはや涼の目は兄の女を通り越して、兄を見ている。 「どいつもこいつも、人を何だと思ってやがるんだ……!」 「主任、私は課長と比較したことは一度もありませんよ」  既に心がここにない涼へ、玲奈はゆっくりと刻み込むように訴えた。
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