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「主任と課長が兄弟でも、考え方は違います。別の人格同士を比較するなんてバカげてます。確かに社内には、主任と課長を比べてどっちが後継者に相応しいかと考える人がいますが、私は全く興味がありません。どちらも創業家の出身で、社長のご子息です。私はただの社員ですから、主任と課長のどっちが社長になろうと従います」
切れ長の目を見開いたまま、少しの間涼は黙り込んでいた。微かに震える唇が、何か言いたげに開きかけた瞬間―――
「――あ~っ、いたいた、主に~ん」
甘ったるい声音がわりこんできた。印刷室にひょっこり飛び込んできた笑顔が、コピー機の前を見た途端に悔しげに歪む。豪華な巻き毛を揺らしてツカツカ歩み寄ってきた苺花が、自分の物とばかり涼の腕を引っ張った。
「ちょっと三沢さんッ、主任に何してるわけッ?」
「えっ、悪いの私っ?」
どう見たって迫られてるのはこっちでしょ、という言葉を玲奈は飲み込んだ。敵意というフィルターを通して見ている彼女には、何を言ってもムダ。どんな釈明も苺花には聞こえないだろう。お嬢様の関心は意中の男に移り、敵対している兄の女などもはや眼中にない。
「涼ってばヒド~イ! 印刷室で女と2人きりとかサイテー!」
腕にくっつく苺花から顔を背けて、涼は面倒くさそうに吐き捨てた。
「会社では名前で呼ぶなって言っただろ」
「別にいいじゃない。今は三沢さんとあたし達だけなんだしぃ」
仲の良さを見せつけるように苺花がニヤついている。煌びやかなメイクに滲む優越感。涼とは会社の外でも付き合いがあるらしい。別に、同期の涼と苺花にプライベートな付き合いがあっても驚かない。高峰グループ程の規模じゃないにせよ、苺花の親も、市内で何件ものレストランを展開している外食産業の会社社長だ。苺花は同じ創業家一族という身分に仲間意識があるようだが、涼の方はないみたい。
腕にまとわりついた苺花を冷たく払うと、涼は露骨に顔をしかめた。
「俺に変な期待すんなって言ったよな。今は誰とも付き合う気ねぇんだよ。お前も、お互いに夜を楽しめりゃいいって割り切れねぇなら、もう家に来るな」
お嬢様の気に障ったらしい。腕を組んだ苺花がフンとそっぽを向いた。
「割り切ってるもん。でもあたしの前で他の女とイチャつくのは許さない」
「あ? 俺と三沢のどこがイチャついてたっていうんだよ」
「キスしようとしてたくせに!」
「してねぇよ」
「してたぁ!」
「アホか。兄貴の女だぞ。アイツとはただでさえ半分血が繋がってうんざりしてんのに、穴兄弟とかマジで笑えねぇ。キモイ想像するな。手なんか出さねぇわ」
玲奈は背中で2人の失礼なやり取りを聞きながら、ようやく印刷が終わった資料を手早くまとめた。間違いを正そうと思えばできるけど、やめた。この誤解も、カモフラージュにはちょうどいい。
「それじゃ主任、プレゼン用の資料は月曜の朝に提出します。これから笹山さんと引き継ぎ作業に入りますから、しばらく席を外します」
言い残して印刷室を出ようとしたが、いきなり苺花に引き留められた。掴まれた腕に、デコレーションされたネイルが食い込んでくる。
「三沢さん、ちょっとあたし達より先輩だからって調子に乗らないでね」
傲慢な笑みが浮かんでいるが、睨む瞳は嫉妬と嫌悪でギラついている。怒り心頭のお嬢様は既に、敬語を使う余裕も無くしている。ぐっと顔を近づけてくるなり、耳元で囁いた。
「早く販売促進課から出ていって。高峰課長に頼みなさいよ。私を戻して下さいって。課長ならそのぐらいの力あるでしょ? あなた、目障りなの。アラサーのクセに4つも年下の涼に色目使うとか、恥を知りなさいよ」
さすがにカチンときた。玲奈はそっと苺花の手を払い、真っ向から対峙した。絡むのはやめてと言おうとしたその時、
「――三沢っ」
慌てた声が室内に響いた。途端に空気が冷え込む。苺花がムっと表情を曇らせたその横で涼が睨んでいるのは、つい寸前まで話題の渦中にいた人物だった。
「高峰課長っ……!」
玲奈が呼びかけたのと、翔が入ってきたのは同時だった。睨みを効かす弟とその部下には目もくれず、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「課長っ、一体どうなさったんですかっ?」
「営業部の杉原課長に用があって来たら、三沢が涼とモメて無理難題を押しつけられたと聞いたんだ。本当なのかっ?」
無理難題とは笹山とリーダーを交代した件だろう。玲奈は返事に困った。なんせ難題を突き付けた張本人がそこにいるのだ。こういう時は白黒はっきりさせず、灰色で終わらせた方が無難かも。
「難題というわけじゃありませんが、急にチームリーダーを引き受けることになりまして」
「まだ移動してから3ヶ月じゃないかっ」
翔の精悍な顔が険しくなっていく。
「ようやく仕事を覚えた転入者にリーダーをさせるなんて、嫌がらせ以外の何物でもないだろ」
「あっ、いえっ、主任は私を評価して下さったんですよ」
「庇わなくていいんだ、経緯はオレも聞いてる」
翔の鋭い視線が涼を捕らえた。母親似で華やかな顔立ちの涼とは違い、翔の方は父親譲りの爽やかな美貌の持ち主だ。面長な顔に、筋の通った鼻梁。艶やかな黒髪は耳に少しかかる程度に切り揃えられ、前髪の奥から二重の瞳が覗いている。長身にまとう三つ揃えのスーツからは成熟した男のオーラが漂い、周囲の人間を圧倒させる。影響力があるという点は兄弟で共通するところだが、普段は温厚な人柄である分、憤ってる時の凄味は翔の方が強い。
「妊娠した部下を恫喝した挙句、勤務時間の変更を拒んだマタハラ行為に抗議した三沢に、"お前が代われ"とムチャ振りした……そうだろう、涼?」
苛立たしげに睨む翔とは対照的に、涼は満足そうな笑みを浮かべていた。一方前に踏み込むと、当てつけるような口調で挑発する。
「だったら何だよ? 俺が自分の部下をどう配置しようと兄貴には関係ないだろうが。それとも心配なのか? 可愛い彼女が意地悪な弟にイジメられてんじゃないかってさ」
「相変わらずガキだな、お前は」
冷たく涼を見返しながら、翔が挑戦的な口調で言った。
「オレに文句があるなら直接言ってこい。三沢を利用するな、彼女は関係ないだろう」
「利用してんのは兄貴の方じゃないのか?」
「どういう意味だ?」
冷やかな笑みを浮かべるだけで、涼は問いに答えなかった。数秒の間お互いに睨み合っていたが、どうやら戦場を変えることにしたらしい。振り返った翔は表情を改めると、心配そうに声をかけてきた。
「三沢、何かあったらオレに言うんだぞ。ムリはするなよ」
「はい、ありがとうございます……」
再び涼を捕らえた翔の瞳が冷えてゆく。霜が降りたみたいな眼で睨みながら、翔は印刷室の入り口をあごでしゃくった。
「涼、お前に話がある。ついてこい」
フンと鼻を鳴らした涼が不機嫌な顔で兄についていく。お嬢様と2人きりで取り残された印刷室に、信号を受信したプリンターの印刷音が遠慮がちに響いた。
「三沢さんって、大人しい顔して強かだよねぇ」
小バカにしたように苺花が言った。
「お兄さんと涼と天秤にかけるとかぁ、やっぱ結婚を焦る30女のすることって怖いわぁ。なりふり構わず? バっカみたい。ゴールドカードも持てないくせに、高峰グループのツートップ狙うとか身の程知らずにもほどがあるわ。とにかく、涼にちょっかいかけないでね!」
顔を直角に背けるなり、豪華な巻き毛を揺らして苺花は苛立たしげに印刷室を出て行った。後ろではプリンターが絶えず資料を吐き出している。その音をぼんやりと聞きながら、玲奈は込み上げる可笑しさに独り笑った。
大人しい顔して強か………
確かに、その通りだと思う。
「そろそろ、芽が出てきたかな……」
クスクスと笑いながら、玲奈は静かに印刷しつを後にした。
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