あの人

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あの人

   目の前を、忘れられない人が通り過ぎていった。  でも、顔が思い出せない。  なぜだろう………  一緒に過ごした人なのに。  遠ざかる背中を見つめていても、顔は黒く塗り潰されたままだ。  何一つ思い出せない。  あの人のことを考えると、必ず過去の忌まわしい光景まで一緒に呼び起こされる。  古びた庭に咲き誇る満開の天竺牡丹(てんじくぼたん)。  真紅の花々が微風の中で揺れ、細かな花びらが宙を舞う―――  ああ、まただ。  彼の歪んだ笑顔。  彼の愛憎に満ちた眼。  彼の悲鳴のような笑い声。  あの人の存在は、心の奥底に封印している彼を思い出させる。何度も忘れようとしたけれど、幼い脳に刻まれた惨たらしい残像は何年経っても生々しく息づいている。忘れたいのに、忘れさせてくれない。どれほど月日が流れても、残酷な過去の中にずぶずぶと飲み込まれたまま、抜け出すことができずにいる。  まるで、アリ地獄の中でもがいているみたいに。 「わたし、子供ができたんです」  同僚がキレ気味に告げた報告に、思わず三沢玲奈(みさわ れな)は主任席を凝視した。  向かい合わせにデスクが並ぶ上座、宮廷晩餐会の主催者みたいに鎮座している主任は、パソコンの前で部下を見上げたままフリーズしている。無理もない。こんなデリケートな問題をオフィスで訴えられては、どんなに強靭な精神力を持つ男だって怯むだろう。それは、高峰涼(たかみね りょう)も例外ではなかった。 「マジかよ……」  最悪にサディスティックな社長令息と呼ばれている高峰涼から、珍しく困惑の声がもれた。とうとう孕ませたのか―――皆の心の声が、周囲の閉ざした口から染み出している。この状況なら、そう思うのも当然だ。 「あっそう……妊娠か。わかった」  面倒くさそうに涼がぼそっと呟いた。切れ長の瞳が印象的で、目鼻立ちがすっきりと整った顔立ちのせいか、言葉は必要以上に冷やかに聞こえた。 「わたし、3週間前にも報告してるんですけどっ」 「そうだった?」 「言いましたっ。だから今後の事を考えて頂きたいってお願いしましたよねっ?」 「あ~……ごめん、忘れてたかも」  語気を強めた女性社員の沈痛な訴えを、涼は軽い苦笑で払いのけた。普通ならこの時点で強烈な反感を買うところだが、みんな涼の性格を知っているので誰も驚かなかった。当の本人からも、反省なんて塵ほども感じられない。むしろその顔は迷惑そうですらある。 「んで、俺にどうして欲しいわけ?」 「もっと協力的になって欲しいんですよっ。ツワリも酷いし、わたし1人じゃムリなので、主任にも支援して頂きたいんですっ」 「じゃあ、とりあえずリーダーは降りろよ。業務量も多いし、大変だろうから。今後はチームの支援員ってことで。あぁ、休みも好きに取っていいぞ」 「リーダーを降りろって、なんでわたしが降格させられるんですかっ」 「降格じゃなくて、交代だ。体調が悪いからムリだって言ったのは君だろ。てか、君に任せた俺も軽率だったけど、そっちも少し自覚なさすぎないか?」  とんでもない発言に、女性社員の頬がピクリと引きつった。周囲の視線も彼女の怒りに合わせて、同情の色が濃さを増してゆく。 「わたしの責任だって言いたいんですかっ?」 「責任の問題じゃなくて、自分の立場を自覚してくれって言ってるんだよ」  わなわな震えている女性社員の前で、涼は困ったように溜息をついた。性格が容姿の素晴らしさをこれだけ台無しにしている人も珍しい。決してお世辞ではなく、モデル並みの長身と綺麗な顔だけ見れば、涼は十分に魅力的な男性だ。  まだ26歳という若さだが、新鮮な青臭さは全く感じない。少し明るい髪色、切れ長の茶色い瞳、美しい顔立ち、全てがバランスよく整った容姿は爽やかな清潔感に溢れている。良くも悪くも周囲の人間を惹きつけるオーラがあって、傲慢な態度さえ男性的な魅力に変えるカリスマ性に富んだ人だと思う。  けれど、玲奈は涼の良い噂を聞いたことがなかった。少なくても入社してからこの6年間は。そしておそらく、この先も聞かないだろう。妊娠中の部下に対する冷やかな態度を見る限り、10歳上の兄みたいに皆から慕われることはないと思う。 「笹山さんは自分から志願してチームリーダーになったよな?」 「そうですが」  ムっとしながら答えた部下に、涼が冷たい視線を向けた。 「なら、営業部(うち)にとって今がどれだけ大事な時か承知してるだろ。注目されてる公益財団法人の『学芸・美術パーク構想』で、参入する企業を決める大事なプレゼン会議まで1ヶ月もないんだぞ? 最後の追い込みかけてる最中にリーダーが戦線離脱って、いくらなんでも無責任だろう」  彼女が言い返せないのは、涼の指摘が正論だからだ。内情を知らない周囲の人間は、女にだらしない会社の御曹司が部下に手を出して孕ませたと勘違いしているらしいが、実際はそうじゃなかった。涼は単に相手の仕事に対するスタンスを問いかけているのであって、痴情のもつれではない。だからこそ、涼の叱責も容赦がなかった。 「経験と実力を評価して笹山さんをリーダーに決定したのは俺だし、任命責任って意味じゃ俺にも非はあるけど、君のプライベートまで管理してるわけじゃないんだ。リーダーとして頑張りたいって気持ちがあるなら、今は仕事を中心に生活すべきだろ。百歩譲って妊娠は仕方ないとしても、リーダーは降りたくない、でも体調は悪いから仕事はセーブしたいって、いくらなんでもワガママじゃないか? お互いにどこかで妥協しなきゃ仕事はできないんだ、自分の権利ばかり主張するな。だいたい、子供なんて避妊してりゃできないだろ。不注意なんだよ」  悔しげに笹山が唇を噛み締めた。拳を固めて小刻みに震えている。部下を冷遇する御曹司には周囲から畏怖と軽蔑の視線が集まっているが、本人は全く気にしていない。小さく舌打ちしてから、うんざりと吐き捨てた。 「ガキ作って仕事放棄とかマジでありえねぇ……んで、一応聞くけど、君が求める支援って具体的にどういうこと?」 「体調に合わせて勤務時間を変更したいんです」  絞り出すように笹山が言った。 「リーダーとしての責任はちゃんと果たします。でも朝は特に体調が悪いので、落ち着くまで出社を遅くしたいんです」 「じゃあ、重要な会議は皆で君の出勤を待つわけ?」  涼は心臓をえぐるような鋭い視線で部下を見上げている。 「取り引き先から連絡が来ても、変更や修正が必要になっても、全員で君の出社を待って進めるのか? はっ、できるかよ、そんなこと」 「不在の間はチームの皆にサポートしてもらいます」 「皆をサポートしながら指揮を執るのがリーダーだろ」 「……っ」 「だからさっきから自覚ねぇって言ってんだよ」 「……申し訳ありません……!」  嘔吐するような笹山の謝罪を、涼が溜息で吹き飛ばす。仕方なく玲奈は立ち上がった。上座から3番目の席は、涼の視界の端にギリギリ映り込む距離だ。突然起立した玲奈に、涼だけでなくオフィス中の視線が集まる。目立つ事は嫌いだけど仕方がない。玲奈は背筋を伸ばすと、上座で冷やかに見つめる上司を同じぐらい冷やかに見返した。
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