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23.サイダー
騒ぎすぎたのが聞こえたのか、三度目のキスの直後、宿直の教師の見回りに見つかりそうになった。慌てて逃げ出し、門の柵をひいひい言いながら乗り越えて、全速力で走った。
「・・・っああ、もう一歩も歩けねえ・・・」
「やばかったっすね・・・・・・」
高校の近くの公園まで止まらずに走りきった30代の男ふたりは、汚れるのも構わず地面に座り込んで足を投げ出した。
いつまでも呼吸が整わないのは走ったせいなのか、3回もキスしたからなのか。
もう、好きでいいんじゃね?って言ったのは・・・聞き間違いじゃ、ない。
「喉乾いたな・・・」
先輩の一言で我に返った。
「あ、俺何か買って・・・」
立ち上がってあたりに自動販売機を探す俺の足首に、こつん、となにかが当たった。
見下ろすと、仁科先輩のつま先が俺の足首に当たっていた。
「いいよ」
「で、でも」
「いいから」
俺は仁科先輩を見下ろした。薄暗い公園は、街灯がひとつだけ。先輩の背後から灯りが降り注いで、かろうじて表情を確認することが出来た。
先輩は微笑んでいた。
「・・・・・・俺さ・・・今日・・・」
「はい・・・?」
「・・・・・・いや」
仁科先輩と並んでベンチに腰を下ろした。先輩は背もたれに寄りかかり、夜の空を見上げていた。今夜はよく晴れていて、星も見える。
この状況は、どういうことなんだろう。
少し前までは、想像もつかなかったことだ。
仁科先輩は結婚している。
妻が浮気していることも、多分知っている。
俺のことは、後輩として可愛がってくれているだけだと感じていた。
先輩が言う、「好き」という感情が、本当に俺と同じなのかは未だにわからない。
だって俺は女性を愛せない。
結婚というかたちを選んだ仁科先輩は、俺と全く同じではないと思う。
悩んでいることで、ふらりと俺のほうに傾いてくれただけなら、きっといつか覚める。
「・・・也仁」
「っはいっ」
俺の悶々とした考えを見透かしたような強い声で、先輩に呼ばれる。さっきから呼び方が「也」ではなくなっていて、まだ慣れない。嬉しいのに、その都度びくついてしまう。
「何考えてる?」
「え?」
「・・・・・・後悔してんだろ」
「・・・先輩?」
「無理させたな。悪かった」
「・・・無理なんかしてないですよ。何でそんなこと言うんですか」
仁科先輩は答えなかった。両腕を頭の後ろで組んで、足を投げ出している。高校時代、取り巻きの女子生徒がちょっかいを出すのを、こんな体制で面倒臭そうにあしらっていた。自分が女だったらああやって近づけたのに、と考えたのは一度や二度ではなかった。
「・・・帰るか」
先輩はぼそりとつぶやいた。それは、今まで俺とはしゃぎ回って、どついて、笑っていた先輩ではなかった。
「帰る」という言葉に含まれた先輩の感情が、今までで最も理解できた瞬間だった。
俺は今度は、自分の意志で、言った。
「先輩、うちに、来ませんか」
「・・・・・・・也仁・・・?」
「飲み物くらいあります。割とここから近いんですよ」
「お前・・・」
「行きましょう」
俺は先輩に手を伸ばした。
鍵を開けると、部屋の中はひんやりとした空気で包まれていた。灯りをつけると、部屋中に散乱しているものたちが目に飛び込んできた。
「・・・片づいてなくて・・・すみません」
「男の一人暮らしなんてこんなもんだろ」
気にする様子もなく、俺の脱いだままの部屋着やら、床の雑誌なんかの隙間に先輩は座った。俺はグラスをふたつと、よく冷えたオレンジ色のサイダーのボトルを持って来た。
「うわ、懐かしいな、それ。ガキのころよく飲んだわ」
「これ、北海道限定だったんですよ。東京になくて、びっくりしました」
「マジで!?全国区だと思ってた!!」
「俺もです!」
あはは、と二人で笑って、サイダーを飲んだ。久しぶりに飲む味は、大人になった俺たちには甘すぎた。
テレビはくだらない深夜番組を垂れ流している。その音声だけを聞きながら、俺と仁科先輩はしばらくソファに座っていた。
隣に座る先輩の、体温の高い手の先が、俺の手にずっと触れていた。
その小さな接点だけに神経が集中して、先輩に俺の拍動音が伝わっている気がした。
先輩は動こうとはしなかった。
俺は、顔を見ずにその手を掴んだ。先輩は拒まなかった。
ゆっくり顔を向けると、先輩も俺を見ていた。
俺は先輩の肩を掴んだ。顔を傾けて、キスをする。同じ、サイダーの味。
柔らかい唇が少し開く。一気に進入するのがもったいなくて、唇の表面を行ったり来たりした。掴んでいた肩から首に手を移動させ、髪の中に手を差し込んだ。
耳の後ろを指でなぞった時、キスをしたまま、先輩が小さな声を出した。
先輩の手が、俺の頭を掴む。
あの、優しくぽんぽんとしてくれる手に、今日は力強く抱きすくめられる。
先輩の舌が、ぬるりと俺の唇を割った。
それがトリガーとなった。
俺は勢いで先輩をソファに押し倒した。
何も考えてなかった。
手が勝手に動いて、仁科先輩の服の中に手を差し込んでいた。
「・・・・・・なり・・・ひと・・・」
仁科先輩の声で、急に我に返った。
「すっ・・・すいませ・・・おれっ・・・」
「謝んな・・・そうじゃ・・・ねえよ・・・」
「あ・・・」
俺は大切なことをひとつ、忘れていた。
この人は、男と寝たことはないはずだ。
抱く、とか、抱かれる、とか以前の問題だ。俺は先輩を組み敷いてしまっていたけれど、これは正解なんだろうか。
「・・・・・・抱きたいんだろ」
「せ・・・先輩・・・」
「・・・・・・俺、よくわかんねえからよ・・・」
「そうですよね・・・俺、ほんとに勝手に・・・」
「勝手じゃねえよ。じゃなきゃ、こんなんぶっ飛ばしてるわ」
「・・・・・・・・」
「おい、この状況で落ち込むな。・・・リードしろよ」
「えっ」
「・・・当然だろ。・・・・初めて・・・なんだよ、抱かれんのは」
仁科先輩は両腕をクロスして、顔を隠した。
こんなに恥ずかしそうな先輩を見たのは、これが初めてだった。
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