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25.来訪
「・・・さん、也仁さん?」
「・・・・・・ふぁ、ふぁいっ、すみませんっ」
「寝不足ですか?」
「あー・・・いや、すみません、大丈夫です、申し訳ありません」
あくびを見られた。
寝落ちしたのは明け方で、仁科先輩は7時にはシャワーを浴びて、仕事に出て行った。
濡れ髪で風呂場から出てきた先輩がひどく色っぽくて、俺は思わず寝たふりをした。
バレていた。
髪を乾かして、服を着て、携帯を持つと、先輩はソファに戻ってきて俺の上に覆い被さってきた。
(わわわ、ちょっと、せんぱいっ)
(狸寝入りしてんじゃねえ)
(すんませ・・・)
(・・・也)
先輩の重みが心地よかった。髪をわしゃわしゃされるのがさらに気持ちいい。
そうだ、俺は、きのう、この人と。
思い出すとまた身体の芯が疼き始める。
(仕事、行くわ。二度寝すんなよ)
(は・・・はい・・・)
ソファがぎしっと鳴って、先輩は立ち上がった。あっさりと背中を向ける先輩に、俺は何も考えず声をかけてしまった。
(先輩!)
その後に続く言葉が思いつかなかった。行かないで欲しかっただけなのだ。
(・・・ん?)
笑顔で振り返った先輩を、ぼんやり見つめた。すると先輩が大股で戻って来てくれた。
俺の頭をがしっとつかみ、また髪をわしゃわしゃする。そして両手で顔を挟んで、キス。
軽いキスじゃない。そのまま顔からむしゃむしゃ食べられてしまいそうな、濃厚なやつ。
(じゃ、またな)
呆然とする俺を置いて、先輩は部屋を出て行った。
先輩が別れ際、それも朝からこんな甘いキスをする人だとは知らなかった。
そして俺はその余韻に浸っているうちに、まんまと二度寝してしまった。
ぎりぎり遅刻はせずにすんだ。が、やっぱり頭がぼんやりして、頻繁にあくびが出る。カウンターに立っているときは平気だったが、事務所に引っ込んだとたんに止まらなくなった。
俺はただ幸せだった。
もしかしたら、先輩とあんなことが出来るのはこれっきりなのかもしれない。それでもいいから、この奇跡のような出来事を大切にしたかった。
接客も普段よりにこやかに出来た気がする。まるで初恋が実った中学生のようで、そんな単純で乙女チックな自分がおかしかった。
「也仁さん、仁科さんがいらしてます」
17:00過ぎのことだった。
同僚の女性が事務所にいた俺を呼んだ。俺は出来るだけ平静を装ったが、顔が緩んでしまった気がする。
「今行きます」
素早く立ち上がってフロントに向かおうとした俺を、同僚は慌てた様子でもう一度引き留めた。
「也仁さん、あの、」
「はい?」
「えっと、仁科さんって、奥様の方です」
「・・・・・・え?」
信じられない出来事が続く。
昨日先輩が俺のところに泊まったからか。
子供じゃあるまいし、そんなことでわざわざ俺に会いにくるだろうか?
ゆうべ、俺と先輩の間に何があったかを知る人間は誰もいない。
それよりなにより、仁科先輩を裏切っている女が、俺に何の用なんだ。
「お待たせしました」
営業用の顔を貼り付けて俺はフロントに戻った。
うつむいて立っていた山口、いや仁科弓は、俺の声を聞いて顔を上げた。
大きなリボン型のクリップでひとつにまとめている巻いた髪が揺れた。
コーラルピンクのゆったりとしたカーディガンと、これまたゆったりとしたラインのグレーのワンピース。
身体のラインを隠した出で立ちが「妊娠している」ことを連想させ、無意識に苛ついた。
「也くん・・・」
だいたいあんたにどうしてそんな呼び方をされなきゃいけないのかが、俺には全くわからない。
「ご用件を承ります」
ホテルマンらしく、俺は丁寧に言った。仁科弓はフロントカウンターに両手をついて、俺に顔を近づけた。
「仁科、なんだけど・・・也くんに連絡とか来てないかな」
「え・・・」
普段甘ったるく「由くん」とか呼ぶくせに、こんな時だけ「妻」の顔をする。感情を顔に出さないように注意しながら俺は答えた。
「先輩がどうかされたんですか」
「・・・・・・」
「先週、修理に来ていただきました。次にいらっしゃるのは来月の点検だと思いますが・・・」
「・・・也くんは、プライベート、仁科と仲いいよね」
「ええ。良くしていただいています」
俺たちは同学年だ。
敬語なのは仕事中だから、というのはもちろん。
本来なら五十嵐と同じように話すことも出来るが、俺は意地でも敬語で通してやろうと思った。
あんたと俺の間には距離がある、ということを主張するためだった。
「何か、変わったことなかったかな、最近・・・」
それを気づくのがあんたの役目だろう。それどころか、堂々と俺の職場で浮気して、子供まで作って、これ以上ないというほど仁科先輩を裏切っておいて、よくそんなことを言えたものだ。
「特に、何も無かったと思いますよ。・・・まさか先輩、体調でも・・・?」
「あ、ち、違うの。・・・連絡来てないなら、いいの。ごめんなさい」
仁科弓は頭をぺこりと下げて、俺に背を向けた。早足でホテルの自動ドアを出て行く彼女の後ろ姿を、俺は黙って見ていた。
彼女が来た翌日から一週間、先輩はラソンブレに姿を現さず、それまでちょくちょく、なんてことのない内容のメールを送ってきていたのに、それまでもがぴたりと止まった。
気がつけば、仁科先輩と会わないまま、3週間が経っていた。
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