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5.疑惑
「いらっしゃいませ。ご宿泊ですね」
仲村から五十嵐梨子のことを聞いた翌週。母親に見合い相手の名前を聞き出す暇もなく、日常は過ぎて行った。
相変わらずラソンブレには知り合いの親だったり、学生時代の先輩、後輩が多く出入りした。
最初こそ気まずく感じたものの、次第にそれは地元に根ざしたホテルの大事な繋がりであることを、俺は次第に理解していった。
午後になり、レストランのランチとディナーの間、客の出入りがいっとき減る時間のことだった。
休憩に入った俺に、事務の女性が話しかけてきた。
「也仁さん、ちょっと伺いたいことがあるんですけど」
「はい?」
彼女とはあまり話したことがなかった。やたらともじもじしている。女性というものは、こういう時必ず上目遣いになるらしい。
「あの・・・この間、配管の仁科さんとお話してましたよね」
「え?あ、はい」
「お友達なんですか?」
「友達・・・っていうか、高校時代の先輩です」
「そうなんですか・・・プライベートでもお会いしたりとかって」
「この間、飯行きました」
「わぁ、いいなあ・・・あの・・・今度仁科さんっていついらっしゃるとか・・・」
「ああ・・・わかったら、お伝えしましょうか」
「あ、ありがとうございます!」
現役を引退した社長の代わりに仁科先輩が出入りするようになって、こういう女性社員が増えたというのは前崎支配人から聞いていた。
いつの時代も「不良っぽい」男性というのは、異性を引きつけてやまない。
ところで仁科先輩が次いつ来るかなんて、俺は知らない。
知っていたとしても日程を彼女に伝えるはずもない。と、いうのはおくびにも出さず、にっこり笑って俺は仕事に戻った。
そういう日に限ってタイミングというものは重なるものであって。
ちょうど俺だけがフロントに立っている時間帯に、仁科先輩が現れた。
今日も作業着の袖をまくり上げ、工具箱片手に大股でカウンターに近づいてくる。
「葉山!」
「ご苦労様です。先日はありがとうございま・・・」
「なんだよ堅苦しいな」
「・・・仕事中なんすよ」
「俺だって仕事中よ?なあ、それよりさ・・・」
仁科先輩はあたりを見回すと、俺にぐっと顔を近づけてきた。声をひそめて彼は言った。
「弓・・・レストランとかに来てねえ?」
「え?」
彼の妻の名前に、思わずたじろいだ。
「・・・お見かけしてませんが」
「・・・そっか。ありがと、悪いな」
仁科先輩はそう言うと、今日の仕事場であるパントリーに向かって歩き出した。
どうしたんですか、とは聞けなかった。その時の仁科先輩らしくない顔は、今でも忘れられない。
俺は仁科先輩の姿が見えなくなってから、自分以外誰もいないことをいいことに、そっと宿泊者名簿をチェックした。
先輩の奥さん、弓さんがレストランに入って行くのは見ていない。
ただ、どうしたことか宿泊者名簿に、旧姓の「山口弓」という名前があるのだ。
ここ半月を遡って見てみたところ、月に1回、その名前で宿泊している。そして、同じタイミングで必ず、一人の男性が宿泊している。地元の人間ではない。
当然予約は別々に取られている。
幸か不幸か、俺の担当時間帯内に彼女と出会ったことはなかった。
当然ホテル側は決して宿泊者の名前を明かしてはならない。
宿泊者が各々どんな理由でここに泊まっているとしても、こちら側は受け入れるし、詮索などもってのほか。
だから俺はこの出来事がどんなに不穏でも、仁科先輩に本当のことを言うわけにはいかなかった。
この真相はいずれわかるのだろうと、直感が言っていた。
仁科先輩。
あなたは、これに気づいているんですか。
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