6.落書き

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6.落書き

「いや、そんな、今更いいですよ」 「まあそうおっしゃらず、ね、ご一緒に」 「はあ・・・」 前崎支配人が満面の笑みで俺の肩を叩いた。 先延ばしになっていた俺の歓迎会をすると言う。というのは表向きで、たまに行われる従業員のための親睦会にうまいことぶつけてきたようだ。結局押し切られて参加することになったが、救いなのは、オーナー夫妻である両親が参加しないことだった。 「也仁(なりひと)さん、で、どうなんですか」 「え?」 「お見合いですよ、どうだったんですか」 「・・・それは・・・何で知ってるんですか」 「そりゃあ、そういうおめでたい話は聞こえてくるものですよ」 めでたくなんかない。 よくわからない理由で前崎支配人はにんまり笑った。せいぜい母親から聞いたんだろうが。 「まだ・・・してないですから、見合い」 「え?そうなんですか?」 「だからどうだったも何も・・・」 「将来のオーナー夫人になる方ですからね、やっぱり僕たちとしても温かく見守っていきたいと思いまして・・・」 「・・・やっぱりそういう話になってるんですか」 「え?」 「いえ、なんでもないです」 どうしても両親は俺を結婚させたいらしい。前崎支配人までグルに見えてくる。俺はここのところ母親を避けて回っているが、どうやら外堀から埋める気のようだ。 依然、俺にまったくその気はない。 あまつさえ、その相手が卒業して10年以上経った今でも、一番会いたくない女なのだから。 「也仁さん、お酒が進んでないですよぅ」 かなり難しい顔をしていたらしい。フロントで一緒に働く女性が俺の顔色を伺いながらビールを注ぎにやってきた。 「あ、ども」 「也仁さん、日本酒好きなんですってね」 「・・・そうですね。そんなのも広まってるんですか」 「うふふ。あの、この後二次会、知り合いのスナックで珍しい日本酒を出すとこあるんですけど・・・一緒に行きません?」 男らは、この町唯一のキャバクラに行くと息巻いている。そんなところに行ったら、また後輩やら同級生やらに会ってしまって気まずい雰囲気になりかねない。だったらスナックで好みの日本酒を飲む方がずっといい。 明らかに彼女はそれを口実に俺に近づこうとしているし、彼女の後ろには先日、仁科先輩とどうにかなりたがっていた事務員の女性が俺の表情を伺っている。 俺は日本酒を取った。 商店街の外れに建つスナックは彼女の言ったとおり小さな店ではあったが、珍しい日本酒の瓶がところ狭しと並べられていた。昔ながらのステージで歌うカラオケがあり、先に来ていた客が歌っている曲が、ドアを開けるなり漏れ聞こえてきた。 「え・・・うまぁ・・・」 俺を二次会に誘った同僚の女性が思わず、素直な感想を口に出した。 ありきたりな歌謡曲にもかかわらず、あまりにもメロディアスで色っぽかったので、俺たちは一斉にその小さなステージで歌う男の横顔を見た。 「仁科(にしな)さん!」 事務員の女性が歓喜の声を上げた。 一昔前の歌謡曲をよくもまあこれだけ魅力的に、かつ古くさくなく歌えるものだと関心したその男は、なんと仁科先輩だった。 向こうは他に二人の連れがいて、そのうちひとりはラソンブレに出入りしている仁科配管の若い従業員だった。 やはり夜の町に繰り出せば誰かしらに会う。に、しても今日はついている。 仁科先輩が歌う姿を見れるとは。 名前を呼ばれた仁科先輩は歌いながら俺たちの方を振り向いた。そして俺を見つけると、頬を緩ませて右手を上げた。 俺の前で、女性陣ふたりがきゃあきゃあと嬉しそうに手を振り返す。多分あんたたちにじゃないよ、と喉元まで出かけたが必死に引っ込めた。 仁科先輩一行の隣の席に俺たちは通され、気が付けば男4人、女2人の人数のバランスが悪い合コンのような飲み会になった。 「先輩、歌うまいんすね」 仁科先輩はハイボールのグラスを持って自然に俺の隣に座ってきた。反対側には例の事務員の女性が嬉しそうに座っている。 「そっかあ?声でかいだけだよ」 すてきでしたぁ、と彼女が畳みかけるのにも先輩は、ありがとうね、とにっこり笑ってそつなく応対する。 今日の先輩は当然、作業服を着ていない。 黒のVネックのTシャツとベージュのチノパンはちょうどよいこなれ感がある。 私服の仁科先輩は見たことがなかった。酒が入っていて、首筋のあたりの肌が紅く染まって色っぽい。その雰囲気は女性から見ても多分、たまらない色気なんだろうと思う。 その証拠に事務員の女性はじわじわと仁科先輩に距離を詰めていっている。彼女は先輩を上目遣いで見つめて言った。 「仁科さん、也仁さんの先輩なんですよね」 「うん、2年上ね」 「也仁さんの高校時代ってどんな感じだったんですか」 おい、俺に興味もないのにダシに使うな、と思ったがそこは笑顔で堪える。仁科先輩は俺の顔を見て、にやりと笑った。何を言うつもりなのか。 「葉山はねえ・・・ちょっと暗かったよ。なあ?」 「・・・そうっすね。今よりは・・・」 「そうなんですか?想像できないですぅ」 「物静かで、はしゃいだりするのは見たこと無かったな。ただ・・・」 ただ?俺なにかやらかしたっけ。 「悪口とか言わない、優しい奴だったよ。曲がったことが嫌いでね。誰も見てないところで、校舎の落書き消したりとか。な?」 ・・・え。 なんで知ってんの。 だって、それは正義感めいたことじゃない。 「え、すご~い、也仁さん!」 「すごくないよ・・・ってか、先輩、何で知ってるんすか」 「そりゃあ、先輩ですから。何でも知ってるさ」 そんなわけがない。 あの時俺が、壁の落書きを雨にも関わらず必死に消したことは、誰も知らないはずだ。 それは自分を守るために。 そして、仁科先輩を守るためだった。
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