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8.火災
「ホテルラソンブレでございます」
「・・・宿泊予約をお願いしたいのですが」
「かしこまりました。日程はお決まりでしょうか」
「来週の日曜日、一泊で」
「29日から一泊でございますね。お名前を頂戴いたします」
「湯沢宏樹です」
俺のパソコンを打つ手が止まった。ユザワヒロキ。
この人は多分、仁科先輩の妻、仁科弓が泊まる時、必ず同じタイミングで宿泊する客だ。
予約作業を進めながら、俺はもうひとつのパソコンで宿泊履歴をチェックする。
やはりそうだった。
ということは。
「湯沢さま、お待たせいたしました。29日より一泊でご予約承りました。チェックインは15:00となっておりますので」
「わかりました」
「お待ちしております」
電話を切っても、しばらく俺はパソコンの前から離れられなかった。
予約の入った29日、宿泊予約にいつもの「山口弓」の名前はない。これから入るのだとしたら、俺はどんな気持ちでそれを受理すればいいんだ。
そもそも帰ってきた俺に自分から声をかけたのだから、仁科先輩と最近飲みに行ってることだって知っているだろう。それでよく、このホテルを利用できるものだ。
そして、そんな今日に限って、仁科先輩が点検のために朝一から厨房に入っている。
俺が次にかかってきた電話を取ろうと手を伸ばした矢先。
ドン!という爆発音と振動。
厨房からだった。
不幸中の幸いで、ランチ営業の準備をしている時間帯だったため客はいなかった。チェックアウトも過ぎていたため、宿泊客も少ない。
すぐに消防と救急車を呼び、館内は大騒ぎとなった。
滞在中で部屋に残っている客を外に誘導しながらも、俺は仁科先輩が無事かどうかだけが心配だった。
消防が到着して、手早く消火活動に入る。数人怪我人が出たようだった。
火を使っていたシェフと、ウエイターが一人。
厨房から運び出される彼らの後を、ウエイトレスが泣きながら、誰かに支えられながら出てくる。
仁科先輩だった。
ウエイトレスは泣いているが、怪我はしていないようだった。
彼女を支えている仁科先輩の腕は、何かで切ったのか赤く汚れていた。
ウエイトレスは救急隊員に引き取られ、地面に座らせられる。そうしている間にも、仁科先輩の腕は赤黒く染まっていく。
「先輩!」
俺は思わず駆け寄った。
俺に気づいた仁科先輩は少し驚いた顔をした。
「葉山!」
「先輩、腕が・・・」
「ああ、大丈夫だ、軽く切っただけだ」
「軽くないでしょう!手当してください」
「お前、俺のことよりちゃんと仕事しろ」
「え?」
「ホテルマンだろ。客のことを最優先に考えろ」
「先輩っ・・・」
「早く行け」
仁科先輩は、いつになく強い視線で俺を押し返した。その威力に、俺は高校時代の先輩のことを思い出した。
やんちゃで、自由で、先生には目をつけられるのに、先輩にも後輩にも好かれる。喧嘩はしても弱いものいじめだけは許さなかった。
曲がったことの嫌いな兄貴、そんなひとだった。
俺がロビーに戻る背後で、救急隊員が仁科先輩を呼ぶ声がした。
ホテルラソンブレの火災は、地方新聞に載る程度には大きかった。
死者が出なかったことが幸いだったが、レストランはしばらく改装修理のために使えなくなった。
怪我をしたのは従業員だけだったのだが、その他にもひとつ問題があった。
点検で厨房内にいた仁科先輩が、爆風で飛んできた鉄板の破片からウエイトレスを庇ったことで怪我をした。
あの腕の怪我はそれだったのだ。
事故の数日後、両親は菓子折りを持って仁科先輩の自宅に謝罪に行ったそうだが、気にしないでくれと言って返されたという。
仁科先輩らしい、とは思ったが、そういうわけにもいかない。
インターフォンが鳴る。
新婚当初に建てたという一戸建て。チョコレート色のドアの横に、NISHINAとローマ字表記の表札。横を見れば小さな庭があり、紫の菫が植えられている。
典型的な、幸せな夫婦の住む家に見えた。
「はーい?」
奥さんの声を想像していたから、びくついてしまった。さらにあの仁科先輩が本当に自宅療養しているのだと驚いた。
「えっと、葉山です、葉山也仁です」
「・・・えっ?あ、ちょっと待って、ちょっ」
ぶつっと音声が切れてしばらくして、がちゃりとドアが開いた。
「葉山・・・」
現れた仁科先輩は、浴衣姿だった。紺色に灰色のストライプの浴衣と、黒い帯。なんとまあ、和服が似合うのだろう。
「お前、どうした、急に・・・」
「あ・・・の、見舞いです、見舞い」
「・・・本当かぁ?」
先輩はちらりと俺が持ってきたホテルの名入り紙袋を見下ろした。さすが鋭い。
「まだ飲めないでしょうけど、うまい焼酎持って来ました」
「・・・・・・上がってく?」
仁科先輩はにやりと笑った。いつもどおりだった。
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