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9.見舞い
「だからたいしたことないって」
「いや、縫ったんですよね」
「2針ね。学生の時の喧嘩より軽いわ」
「そもそも喧嘩で縫うほどの傷を負うほうがやばいですって」
「いやいやあれは勲章だから」
「若気の至りでしょ」
「まあな」
「あっ、だめですよ、飲んだら!傷治ってないのに!」
「ひとくちひとくち・・・・・・おい、これうめえな」
「めっちゃいいやつですからね。・・・まあ持ってきた俺が悪いんですけど」
「そうそう、お前が悪い。飲むだろ?」
「・・・一杯だけ」
結局こうなる。俺はこのひとには勝てないのだ。
弱いものは守る。そして傷が痛もうと酒は飲む。
「びっくりしたよ、お前のおやじさん、玄関先で土下座したんだぜ」
「え・・・」
「男だよなあ。かっこいいと思ったよ」
「かっこいい・・・ですか?」
「もちろんそうしなきゃならないんだろうけど、何も言わず潔く頭下げる姿、流石だよ。だからこそ受け取らなかったんだけどな」
「・・・・・・」
俺は父親をめんどくさいと思っても、格好いいとは思ったことはなかった。仁科先輩に頭を下げる姿すら、うまく想像できない。
「葉山は父親似なんだな」
「うぇっ」
「汚い声出すなよ」
「嫌なんすよ・・・」
「なんで?」
「何でも頭ごなしで、ワンマンだし」
「歳取ったらお前もそうなんじゃね?」
「なりたくないすよ・・・」
「でもさ、お前の正義感強いとこ、親父さんゆずりだよな」
多分また、高校時代の落書きのことを言っている。やっぱりこれは訂正するべきか。それともこのまま美談にしておいたほうがいいのか。
普通なら美談のままにしておいて、都合よく脚色して話のネタにするだろう。
でも、俺は。
「この間、言えなかったんすけど」
「うん?」
「あの・・・落書きのこと・・・あれ、違うんですよ」
「違う?」
「先輩が思ってるような感じで・・・消したわけじゃないんです」
仁科先輩は何も言わず、首を傾げた。少し間を空けて、俺は言った。
「その・・・だから、特定の人を・・・守りたかった・・・っていうか・・・」
「・・・それはいいことなんじゃねえの?」
「でも、正義感とかじゃないですよ・・・むしろあざといっつーか・・・」
一瞬真顔になって、仁科先輩は吹き出した。
「お前・・・正直だなぁ。正義感だったってことにしときゃいいのに」
「先輩に嘘つきたくないんすよ」
「そっか」
仁科先輩は怪我をしていない方の腕をにゅっと伸ばして、俺の頭を撫でた。
「ちょっ・・・先輩?」
「お前いい奴だよ。よしよし」
「やっ・・・やめてくださいよっ」
「なんだよ、誉めてやってんだよ、喜べや」
髪をぐしゃぐしゃにされるのが心地よくて、泣きそうになった。顔に血液が集まってきて熱い。恥ずかしい。
どうしてこんなに優しいのか。
学生時代、そこまで近い関係性じゃなかったはずなのに。
浴衣の袖の隙間からのぞく肌に、俺がどぎまぎしていることなんて、あなたには想像もつかないんだろう?
☆
(仁科先輩は関係ない、巻き込まないでください!)
(うるせえ、このホモ野郎!)
俺が高1の頃、素行の悪い上級生集団に絡まれた俺を仁科先輩が助けてくれたことがある。
俺は一方的に知っていたが、あのとき仁科先輩は俺を認識していなかったと思う。弱い者いじめを嫌う先輩がたまたま助けた後輩のひとり、という程度だろう。
きっかけは、廊下でぶつかってしまった3年にいちゃもんをつけられたこと。取り上げられた俺の生徒手帳の中から、仁科先輩の写真を見つけたそいつらのリーダー格が、こいつはホモだと騒ぎ出した。仁科先輩とそりが合わなかったその先輩は、俺が焦れば焦るほど騒ぎを大きくし、極めつけに校舎裏に連れて行かれ、壁にでかでかと俺、そして仁科先輩はホモだと落書きを始めた。
知らない振りをしていればよかったと思う。
しかし、それが事実だったからこそ、俺は焦った。仁科先輩に知られたくないのと、迷惑をかけたくないという思いしかなかった。
結局俺は無理なのをわかって必死に抵抗し、返り討ちにあった。そして絶妙なタイミングで校舎裏に現れた仁科先輩に助けられ、その場は集団VS仁科先輩という、地獄絵図となったのだ。
仁科先輩は信じられない鮮やかさで次々となぎ倒し、10人はいた相手を一人残らずノックダウンさせた。
鼻血を出して地面に倒れている俺の目に写った仁科先輩は、ヒーローそのものだった。
仁科先輩が好きだった。
報われなくてもいい。
隠し撮りした写真を、ひっそりと見ているだけで良かったのに。
今、俺を助けるために、自分も血を流しながら殴り合っている。
奴らが這々の体で逃げ出したあと、校舎裏には俺と仁科先輩だけが残った。
(おい、お前、大丈夫か)
(仁科先輩・・・すみません・・・)
(気にすんな。こっちのことに巻き込んじまって悪かったな)
仁科先輩の口が切れて血が出ていたのを今でも覚えている。先輩は壁一面に書かれた落書きを見上げてため息を吐いた。
(っとにあいつら、やることがガキなんだよなぁ・・・)
(俺、消します!)
(いいよいいよ、ほっとけ。多分明日の朝見つかれば、ブルーシートとかで覆われるから)
仁科先輩は、にっと笑って俺の頭をぽん、と叩いた。
お前ももう帰れよ、と言うと、先輩は踵を返してその場を去った。
そしてその後俺は、雨が降ってきたのにもかかわらず、一時間以上かけてその落書きを消したのだ。
しかし実は、俺の黒歴史はここからだった。
翌日登校すると、落書きを消したにも関わらず、俺のクラスの黒板には、ホモ、とか、死ね、とか、キモい、とか、仁科先輩との相合い傘とかが一面に書かれていた。
そこで思い出したのだ。
仁科先輩と敵対していたグループのリーダー、五十嵐勇人の妹は、俺の同級生である五十嵐梨子だった。
☆
俺は仁科先輩に勧められるまま、自分の持って行った日本酒を飲んだ。
奥さんは出かけていたらしく、ずっと二人だった。
その日が、例の「湯沢宏樹」が宿泊する29日だったことは、すっかり忘れていた。
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