1.故郷

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1.故郷

もっと惨めな気持ちになるもんだと思っていた。 北海道の東のはずれ、道東、と呼ばれる地域の海に隣接した小さな町。 冬は流氷が接岸し、それを目玉にした祭りがあることで有名だが、そのほかの季節は気候がいいこと意外に特に華やかな行事もない。 鮨はうまい。 ここで採れる海産物に舌が慣れていると、東京なんかで食べる鮨の味はよくわからなかったりする。 この町に戻ってきたのは高校を卒業して以来、12年ぶり。 決死の覚悟で上京して、誰もが名前は知っている有名ホテルで働いた。がむしゃらに働いて身体を壊し、入院から戻った俺の居場所は当然のようになくなっていた。 とたんに馬鹿らしくなった。 人の分まで働いて、人の分まで身体を壊して、人の分まで傷ついた。 故郷が恋しくなった、というより、あの町の海を見たいと思った。 子供の頃は海が好きで、海がないところで暮らすなんて絶対に嫌だった。 なのに今は、便利じゃないところでは暮らせなくなっていた。 コンビニがあって、デリバリーサービスで食事が出来て、地下鉄やバスの路線が多くて便利で・・・それが当たり前になりすぎていた。 海にも山にも、何も感じなくなっていた。 これから何かと不便だろうなあ、と俺は列車の窓から流れる風景を見ながら考えた。 知り合いって言っても高校の同級生はほとんど町を出ている。 飲みに行くって言っても、そんなに店もない。 近隣の町にドライブするくらいしかこれと言って娯楽もない。 そんな刺激のない毎日が待っているとしても、俺は地元に戻る。 俺がこれから働こうとしているのは、両親が二代目の地元の老舗ホテル。 祖父の代では、小さな町にたったひとつのホテルとして栄え、住人の結婚式はほとんどここで行われた。 フランチャイズのビジネスホテルが参入して来てからは若干勢いがなくなったと聞くが、町で一番の老舗ということで、今も潰れることなく営業を続けている。 継ぐつもりはない、と言い続け、それに異論も唱えなかった両親。 なのに今更30になるリストラされた長男が戻ってくると聞いて、どう思っただろう。 母親は、当たり前のように「じゃあ、フロント手伝って」と言った。 列車が駅に着いた。 路線の終着駅。思っていたよりもずっと気温が高い。久しぶりの潮の香り。初めてこの町に訪れた都会の人間なら、なんてさびれた町だと思うだろう。 自分もそう思うだろうと覚悟して、ホームに降り立った。 歩き出した俺を、ふわりと海の香りが包み込んだ。 待合室をゆっくりと行き交う人々。 駅の外に出れば、海から飛んできたカモメが頭上を旋回している。 子供の頃、見上げていた駅舎はとてつもなく大きな建物だと思っていた。 大人になった今、それはいたって普通の2階立てだった。東京の高層ビルに見慣れた俺の目には、どうしてもくたびれて見えてしまう。 同じく幼い俺が近代的で巨大だと思っていた老舗ホテルは、祖父の代から修繕を重ねているにも関わらず、ずいぶんと古めかしく見えた。 この町では高い部類に入る6階建て。 塗り直しを重ねた壁は淡いグレーで、お世辞にも綺麗とは言えなかった。 そんな小さな町と古いホテルに、俺は幻滅どころか懐かしさを感じた。 俺は背筋を伸ばした。 これから、ここで生きていく。
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