八木純平

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希尋の髪をわしわしとタオルで拭く。思い切り眉根を寄せながらも、希尋はきゃはは、と笑った。 パジャマを着せ、脱いだ服を洗濯機に放り込んで、一緒にリビングへと戻る。 空のコップを差し出してくるので、苦笑しながら冷蔵庫にオレンジジュースを取りに行った。 プラスチックのコップは百均で用意した子供用のものだ。ライオンのイラストが少しだけ剥げてきているが、希尋のお気に入りだからしばらく買い換えることはないだろう。 ソファに座ってオレンジジュースを飲む希尋の横で、俺は持ち帰った仕事を広げた。不思議なものを見る目で覗きこんでくるから、「ジュースこぼすなよ」と釘をさしておく。 以前の俺は、部屋で過ごすときは必ず何かしらのBGMを流していた。 だが、そのために揃えたオーディオ機器はほとんどを売り払った。やまほど所持していたCD類は、さすがにすべてを処分することはできず、いくらか実家に送ってある。 この部屋に残してあるのは“kihiro”の作品だけだ。それも箱に仕舞ってクローゼットの奥に保管してある。 俺は希尋の世界から音楽を極力排除している。 それが希尋にとって良いのか悪いのか、頭が膿みそうなくらい考えても答えが出ないまま、ずっとそうしている。 希尋は一年前、あらゆる記憶を失って、幼子のような無垢な状態で俺のところへ来た。 自分の名前はおろか、シャツのボタンの留め方すらわからなくなっていた。 実家へ帰すことも検討したが、医者と両親と話し合いを重ね、ひとまず俺と一緒に暮らすこととなった。 幸か不幸か俺には恋人の一人もいなかったし、仕事以外の時間はすべて希尋のために使えた。そうすることを望んで希尋を受け入れた。 希尋の健忘の原因となったのは、ネット上を大いに騒がせたとある事件。 希尋は暴行を受け、その映像をネットにアップされ、取り返しのつかないあらゆるものを失った。
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