第七章

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第七章

ファリスを腕輪から解放する。 最初はこれだけが目的だったのだが、事はルトの想像をはるかに越えて大きくなってしまった。 腕輪の中の魔軍を狙うアムジャットと、野心を抱いているヘイデル。 人質としてアスアドとカリムが捕らわれてしまい、二人の命をヘイデルは奪う気でいる。 逃れる事の出来ないアレムの都の中で、どうすれば最良なのか。 (ああ。思えば、本当に僕って役立たずだ……) 頑張ると、何でもすると改めて決意した。 けれど、こんな時に強い力も特別な知識も何もない自分が情けない。 ルトはファリスの隣を歩きながら、そっと顔を伏せた。 ファリスと共に逃げた煌びやかな宮殿内を、今度は徒歩で王の間へと向かっている。 シディは先にアムジャットの元へと戻り、再び二人だけになっていた。 従僕の魔人達は歩みを止めて、監視するようにこちらを睨んでいる。 「ファリス、ごめんね……せめて僕がもっと体格のいい武闘派だったら……。こんな弱っちい役立たず……何にもならない」 「役立たず? 何言ってんだ。ルトは俺を解放してくれた。しかも、こんなに早く。俺にとっては世界一の英雄だ」 「それは……僕の力というより、色々な偶然が重なったからだよ……」 「それでも、ルトが頑張って俺を解放してくれた事には違いない。だから、次は俺の番だ」 ファリスはルトの肩に腕を回した。 「ルトは、俺が何に代えても守る。もちろん、二人の友人もだ。俺を信じて、一緒に窮地を乗り越えて欲しい」 王の間に歩を進めながら、ファリスはルトを少しだけ抱き寄せた。 「もちろん、この状況を打ち破るにはルトの力も必要だ。役立たずじゃない。頼りにしてるからな」 黒緑の瞳がわずかに細められ、ルトをまっすぐに見つめる。 何て優しい魔人なのだろう。 弱くちっぽけなルトの小さな自尊心さえ、真綿と絹に包むかのように大切にしてくれる。 それが、どれだけ嬉しく、勇気を与えてくれる事か――。 「……ありがとう。僕、ファリスと一緒に全力を尽くすよ」 ルトの使い魔は、優しい表情で頷いた。 「もう、シディは王の間の中かな」 「だろうな」 金の細工の壁面に鮮やかな絹織物が垂れさがる美しい廊下を、従僕達の視線を浴びながら一歩一歩慎重に進んで行く。 この廊下の突き当たり。 最奥が王の間だ。 「ルト」 黒檀の大きな扉が近付くにつれて、鼓動が増して体が震えてくる。 そんな強張るルトの背を大きな手がゆっくりと撫でた。 「一つだけ覚えておいてくれ」 「……?」 「俺はルトの使い魔。ルトの思いが俺の全てだ。いつでも、どんな時でも」 「ファリス……」 ルトは隣に寄り添う魔人の精悍な顔を見上げた。 優しい表情。強い意思を秘める声。 その全てにファリスの思いやりが溢れていて、胸の中が温かくなる。 「何があっても、一緒に頑張ろうね……!」 「ああ」 深く頷き合って、ルトは深呼吸をした。 (大丈夫。大丈夫。アムジャットやヘイデルには絶対に負けない。ファリスがいてくれたら、全部、上手くいく! よしっ!) 気合を入れて王の間の前に立つと、前回と同じく、ひとりでに黒檀の扉が開いた。 視界いっぱいに王の間が広がり、中にいた従僕達の視線が一斉にルトとファリスに集まった。 「待ちくたびれたよ。人質を諦めて、私との真向勝負を選んだのかと思ったぐらいだ」 従僕達の奥から、ヘイデルの穏やかな声が聞こえた。 ルトとファリスが王の間へと向かっている事は従僕から報告を受けていただろうに。 白々しい。 「そんな事をしたら、互いに瀕死だろ。ルトの友人達はどこだ?」 ヘイデルの口調とは逆に、ファリスは鋭く言い放つ。 王の間に散っている従僕がルト達に道を開け始め、玉座に座るアムジャットと側に立つヘイデルとシディが見えた。 しかし、肝心のアスアドとカリムの姿がない。 「遅れてきたくせに、短気はよくないよ。全ては今から。再会は、いつだって感動的でないと意味がないからね」 ヘイデルの目配せで、数体の魔人が王の間から出ていく。 「何か余計な事は考えてないだろうね?」 「それはお前の方だろ。ヘイデル」 鋭く続くファリスの声に、ヘイデルが小さく笑った。 「私はあなた方とは違って、余計な事など考える暇はないよ」 「……白々しいものだな」 ルトの心にあった言葉を、ファリスが口にした。 この、いかにも一筋縄ではいかないような魔人からアスアド達を守り、野望を砕かなければいけない。 ファリスは魔軍を解放させて好機を作ると言っていた。 それは、アムジャット達の企みを一度は完遂させてしまうという事。 確実に隙はできるのだろうが――。 (だめ、だめ! 僕が余計な事を考えてどうするんだ!) ほどなくして、二人の男が魔人に引っ張られるように王の間へやってきた。 栗色と金色の髪の男。 「アスアド! カリム!」 ルトは思わず大声で名を呼んだ。 砂漠で別れた二人の無事な姿に安心する。 こんな形で再会したくはなかったけれど。 「ルト……!!」 二人もルトの無事な姿を見て、わずかに安堵の表情を浮かべた。 しかし、その表情も玉座に座る男を見て一変する。 「あ……兄上……!?」  アムジャットを目にして、アスアドとカリムは驚きに目を見開いた。 石になったと信じて疑っていなかった兄王子との八年ぶりの再会。 想像すらしていなかっただろう。 「あ、兄上……どうして兄上が……っ?」 驚愕を隠す事なくアスアドが声を震わせる。 アムジャットが軽く手を上げると、従僕がアスアド達の拘束を解いた。 すぐにアスアドが玉座に走り寄り、その背をカリムが追う。 「カリム……」 兄弟王子の再会に気を取られていると、隣から弟王子の側近の名が聞こえた。 「え……?」 ルトが見上げると、ファリスがアスアドにも劣らぬ驚愕の表情をして、カリムを凝視していた。 どう見ても、カリムを知っている様子だ。 (どうして……ファリスがカリムを……? ファリスは四百年間、紅宝玉の中にいたのに)  その疑問を口にする前に、アムジャットの声が王の間に響いた。 「久しぶりだな、アスアド。もう八年になるか。国が岩と砂になってから、お前は苦労を重ねていたようだな」 「…………」 アスアドは己と同じ紅榴石(ガーネット)の瞳を見つめながら、あまりの衝撃に言葉を失くしていた。 「アムジャット様……。お健やかなご様子で何よりでございますが……八年間、私達はずっと殿下は石になってしまったと思っておりました」 アスアドの代わりに、カリムが固い声で続けた。 「殿下は、この短くはない年月……何をしておられたのですか?」 カリムの声が尖る。 呪いから逃れて偶然に生き別れていただけではないのは、一目瞭然だろう。 仕組まれた異常な再会に、カリムは怒りに似た疑惑を玉座に向けた。 「私か? 私はヘイデルと共に、ずっと、ここ……アレムの都にいたよ」 「ここが、アレムの都……?」 アスアドの顔が幾重にも重なる驚愕に塗りこめられる。 改めて王の間に視線を巡らせたが、すぐにアムジャットに向き直った。 「……兄上が無事で安心しました」 兄の生きている姿に喜びを感じている弟の視線を受け止めて、アムジャットは冷たく笑った。 「私が無事なのは当然だよ、アスアド。本来なら、お前達の方こそ石になっている筈だったからね」 「……どういう意味ですか?」 アスアドは怪訝そうな顔をした。 その横に立つカリムが、鋭い表情でアムジャットに視線を向けている。 「国を不毛な土地にしたのは私なんだよ」 「は……?」 弟の瞳から兄と再会できた喜びの光が消えていく様を、アムジャットは微笑みながら見つめた。 「い、意味が分かりません……。兄上が国を呪うなどと……」 「意味が分からなくとも、真実ですよ。私がアムジャット様の命令で魔法をかけました」 「な、に……?」 アムジャットの側に控えていたヘイデルが口を開いた。 「お前が……どうやって、あんな大きな魔法をかけられるっていうんだ」 「黙っておりましたが、私はジンなのですよ。最後にお会いした時から姿が変わってないでしょう?」 「……ジ、ン……」 瑞々しく若い容姿のヘイデルを見ながら、アスアドは苦しげに眉根を寄せた。 「……では、本当に兄上が国を……無にしたと……」 「そう言っているだろう。正真正銘、私の仕業だ」 表情一つ変えずに告白する兄を前に、弟は足元が崩れ落ちていく思いがした。 「どうしてですかっ!? どうしてあんな……」 アスアドの胸に美しい国が一瞬で岩と砂になった光景が鮮明に蘇る。 美しい海に囲まれて幸せに暮らしていた民が、家族が、一人残らず灰色の石になり。 深く愛し、愛され、失うなんて微塵も思っていなかった全てが目の前で無となった。 急に。何の前触れもなく、奪われた。 喪失感と、悲しみと、怒りと――。 名も付けられない思いが心を掻き破り。 行き場のない感情はアスアドの身体をずっと蝕み続けている。 そんな恐ろしい惨劇を、全てを絶望の底に叩きつける呪いを指示したのが兄だというのか。 共に美しい海を眺め、温かい人々の愛情に包まれ、掛け替えのない時間を過ごした、敬愛するアムジャットが――。 胸の中であまりにも多くの思いが巡り、唇が震えるだけで言葉がでない。 喉の奥が詰まり、アスアドは己の呼吸が止まっているような苦しさを感じた。 「どうして? それはお前だって分かっているだろう?」 アムジャットが弟の懊悩(おうのう)など知りもしないとばかりに涼しげに答える。 「私を裏切ったくせに」 兄への裏切り。 全く身に覚えのない言葉に、アスアドが声を荒くした。 「いつ……いつ、俺が兄上を裏切ったというのですかっ!?」 必死な弟王子の姿にヘイデルが口角を上げた。 「裏切りの自覚がないとは、いただけませんね。あなた様のジンは黙秘しているのですか?」 「俺の、ジン……?」 言葉の意味すら分かっていないような様子のアスアドに、ヘイデルは嫌な笑みを浮かべた。 「知らないのですか? カリムはジンですよ」 「は……?」 アスアドは瞠目して、カリムを見つめた。 「……う、嘘だ。カリムが……そんな……」 側近の紺碧の瞳は、何の感情も見せずにアスアドを見つめ返していた。 「……アムジャット様」 アスアドの視線をそのままに、カリムがいつもと変わらない理性的な声で兄王子に問う。 「あのような強い魔法をかけるのはジンを従えている者の禁忌です。一体、どういうお考えなのですか?」 「禁忌? 皆が私を裏切った制裁だ。当然だろう」 「俺は兄上を裏切ってなんかいません」 兄の一方的な言い分に、アスアドが声を上げる。 裏切った事など一度もないと言いきれる。 カリムとヘイデルが魔人である事も全く知らなかった。 何がどうなっているのか。 アスアドは己の知らない所で何かが大きく噛み合っていないもどかしさを感じた。 「この調子だと、いくら話しても無意味ですね。本題に移りましょう。さぁ、ルト。その大事な腕輪をこちらに。そうすれば、この二人には何の危害も加えないと約束するよ」 ヘイデルの合図で、従僕の魔人がルトに手を差し出してきた。 とうとう、この時が来た。 ルトはファリスと視線を交わすと、己の手首からゆっくりと腕輪を外した。 「その腕輪――。俺達と交換なのか!? ルト、絶対に渡すな!」 アスアドが従僕を押し退けようとするが逆に振り払われ、カリムに体を支えられる。 「無駄ですよ。ルトには腕輪を渡すという道しか残されてないのですから」 「アスアド……いいんだ……」 ルトは外した腕輪を従僕の手に渡した。 「ルト……っ」 再び従僕を押し退けようとするアスアドをカリムが抑えた。 (……魔軍がアムジャットの手に渡って、これから封印が解かれてしまう……けど、それが僕達の好機になる――) ルトは腕輪が従僕からヘイデルの手に運ばれるのをじっと見据えた。 「ずっと探し求めていた腕輪をもたらしてくれたあなた方には、どれだけ感謝しても足りないぐらいですね」 そう言いながら、ヘイデルはアムジャットの手に恭しく触れた。 「……いよいよ、この時が参りましたね。何よりも待ち望んでいた、強大な力を手に入れる瞬間です」 「この時を迎えられたのも、お前が傍にいてくれたおかげだ」 アムジャットの手首に、ゆっくりと金の腕輪がはめられた。 これで、あの恐ろしい食人鬼達はアムジャットのものになってしまった。 「もしかして、中にいるグール達を自分のものにする気ですか!? 何故……。兄上は……そんな事を望む方ではないでしょう!?」 立ちはだかる従僕達の間から、アスアドは必死に兄に問いかけた。 沢山の食人鬼を支配下に置こうとしている。 どう考えても、悪事を企てているとしか思えない。 あの、どんな時も穏やかで思いやりに溢れていた兄がどうして――。 アスアドは、自分と同じ色の瞳を見つめた。 八年経っても変わらない面差しの兄。 けれど、心の内は全く変わり、アスアドの届かない所へといってしまった。 「私は……もう、お前の知る兄ではない……」 アムジャットは弟の思いを振り切るように腕輪を大きく掲げた。 「兄上……っ」 「アスアド様、だめです」 再び従僕を押し退けて兄に元へ駆け寄ろうとするアスアドを、カリムが止める。 「抵抗しても、こちらが返り討ちにされるだけです。グールは解放されてしまいますが、どうか機を待って下さい」 カリムがアスアドに耳打ちする。 「だが、封印が解かれたら一大事だ」 「大丈夫です。まずは私達がヘイデルの支配下から逃れる事が優先です」 誰にも分からないように、カリムは静かにファリスと目配せをしていた。 機が迫っている。 ヒリつく緊張感に、ルトは背筋を震わせた。 掲げた腕輪にはめられた紅宝玉が、時は満ちたとばかりに光り輝いている。 その美しい光を、アムジャットは微笑みと共にうっとりと見上げた。 「この八年、ずっと待ち続けて……とうとう私達の望みが叶う時が来た」 「兄上……。考え直して下さい。そんな大きな力を手にして、何になるというのですかっ。国を無にして……アレムでジン達と暮らして、今度は腕輪の力まで手に入れようとしている。俺は兄上の考えが理解できません……っ」 「理解など求めていない。何を言われようが、私は止まらない。前に突き進むだけだ」 「兄上っ!!」 アスアドの最後の制止を退けて、アムジャットは高らかに声を上げた。 「偉大なる大魔神に作られし魔軍よ。アムジャットの名のもとに、今こそ解放されよっ!」 アムジャットの声と共に紅宝玉が強く光り、王の間を紅く染める。 (ああ……解放されしまった……。けど、アスアド達を助けて逃げる機が巡ってきた) 光に次いで、激しい突風が腕輪から巻き起こった。 ルトの体は飛ばされそうになったが、逞しい腕に強く抱き寄せられた。 「ファリス……っ」 「この騒ぎに紛れて、都から出る」 「うんっ」 ファリスの広い胸に腕を回すと、足が地を離れた。 凄まじい爆音が都中に轟く。  ファリスはルトを抱えて突風が吹き荒れる王の間を飛び出した。 後ろには、魔力による突然の飛行に驚くアスアドとカリムが続いている。 紅い光と風で荒れ狂う王の間では滝のように腕輪から食人鬼が流れ出てきていた。 「どうやって、ここから出るの?」 都はヘイデルの結界で覆われているのだ。 王の間は大騒動だが、上手く結界を壊して脱出できるのか。 「魔軍が解放されるのにはかなりの衝撃が伴う。王の間どころか、この都中が大荒れになるだろう。結界はその力に耐えられずに消滅する」 事実、腕輪から放たれた光と風は食人鬼の解放と共に勢いを増し、都を覆い始めている。 その暴風に押されるようにして大理石の柱廊を飛び抜け、小さな噴水の並ぶ中庭に飛び出した所で、ファリスが眉根を寄せた。 「……ヘイデルは、ここで俺達を潰す気のようだな」 「こんなに……」 まるでルト達がここを通る事を分かっていたかのように。 数多の魔人が待ち構えていた。 ヘイデルの従僕。 しかも、前に追われた時と比べて魔人の強さが明らかに上がっている。 「数が問題だな……」 強い魔人が揃っているとはいえ、ファリスからすれば大したものではないのだろう。 しかし、三人を守りながら大量の強い魔人を相手にするとなれば話は違ってくる。 「カリム。今から一時的な結界を張る。維持は任せられるか?」 「大丈夫だ」 後ろにいたカリムが即答する。 自然なやりとりに二人の信頼が垣間見えた。 信じられないが、カリムも魔人だとヘイデルが言っていた。 だから、ファリスはカリムを知っていたのか。 「すぐに終わらせる」 ルト達を魔力で包むと、ファリスは魔人の群れへと飛び込んでいった。 「私達は少しでもファリスの負担が減るように、何があっても対応できるようにしておきましょう」 「あのジン……紅宝玉に封印されてた奴だろ? 名前を知ってるって事は……やっぱりお前はジンなのか?」 ルトも知りたかったアスアドの問いに、カリムはわずかに視線を落とした。 「後で、お話します。今はアレムからの脱出を一番に」 ファリスの力で倒された従僕が、ルトの前にある見えない結界に次々と叩き付けられる。 瞬く間にねじ伏せていくが、それ以上の数が庭に集まってきていた。 (このままだとファリスが魔人達に潰されるよっ……!) 絶え間なく襲ってくる異形にファリスは苦渋の表情を浮かべている。 「ファリスっ……」 己の無力が泣きたくなる程に悔しかった。 こんな時に自分に力があれば。 守られるだけではなく、一緒に戦うだけの。 「ルト」 胸を震わせファリスの姿を目で追っているルトの肩に、カリムがそっと手を置いた。 「今、一番危険なのは自分の心を乱してしまう事だ。何もできないのは悔しいが、状況を把握し信じて待つ事も一つの力だ」 紺碧の瞳に宿る強い光がルトの心を励ます。 「うん……。ファリスを、みんなを信じてるよ」 ルトの言葉にカリムは微笑んだ。   「結界は既に消えている。いつでも脱出可能だ。ファリスは……もう心配いらないようだ」 「え?」 カリムの視線を追うと、押し寄せていた魔人の一角が消し飛んだ。 「ファリス! 手伝うよ!」 庭に現れた幼い魔人がファリスの背後を襲う異形をなぎ倒した。 「シディ!」 ルトは声を上げた。 「助かった、シディ。もう少し減らしたら、ルト達を頼む」 ファリスとシディは己の魔力を一気に解放した。 群がる魔人の大半が声を上げる間もなく消滅する。 それでも、まだ山のように向かってくるヘイデルの従僕達。 「後は俺に任せろ!」 庭の中央にある噴水の上に飛ぶと、ファリスはルト達の周囲の魔人を一掃する。 「今のうちに行くよ!」 シディの力で体が浮上した。 「ヘイデルが都中の魔人を大集合させてるんだ。早く逃げないと面倒くさい事になるよ」 ルト達に気付いた魔人がこちらに向かって来ようとするが、全てファリスが砂に変える。 その隙に宮殿の輝く円蓋を飛び越えて、都からハドラントの砂漠へと飛び出した。 「わっ! 追手が来たっ」 シディが焦って飛ぶ速度を上げた。  宮殿から魔人が飛んでくるのが見えたが、急に地上の砂が舞い上がり周囲の景色をかき消した。 大きな砂嵐がアレムの都を包んだのだ。 「シディ、どうなってんだ?」 「ファリスの魔力だよ」 一面の砂色に戸惑っていると、ルトの体が背後から抱き締められた。 「お待たせ」 「ファリスっ」 いつの間に傍に来ていたのか。 ルトを抱き締めているのは自分の使い魔だった。 「終わりが見えないから砂嵐で撹乱した。後は、ひたすらに逃避行だ」 ファリスの魔力で更に飛行高度を上げようとした時、カリムが口を開いた。 「ファリス。今から、お前が魔法をかけた国へ向かってくれないか?」 「大王の息子のか?」 「そうだ」 ファリスはカリムの要望を疑問に思いながらも、主を横抱きにしながら頷いた。 「追手をまく為に荒い飛び方になる。皆、少し我慢してくれ」 ファリスの腕の力が増した刹那。 体が空高く垂直に飛び上がると、もの凄い速さで進み始めた。 風が体を圧迫して呼吸さえ上手く出来ない。 「ゆっくり強く息を吸え。早めに追手をまくから、怖いだろうが耐えてくれ」 「ん……」 気遣わしげなファリスの視線を受け止めて、ルトは頷いた。 信じられない高さから急降下し、見知らぬ山脈を縫うように飛ぶ。 何度も旋回や上昇、下降を繰り返し、恐怖に歯を食いしばる。 必死に胸にしがみついて我慢しているルトを抱きながら、ファリスは募る焦燥感を抑え、確実に追手を振り落していった。 「ファリス……追手は……?」 身を包んでいた圧迫感が消え、ルトは顔を上げた。 「完全にまいたよ。これから西方の国へ行く。もうしばらくの辛抱だ」 「うん。このぐらいの速さなら大丈夫だよ。ありがとう」 追手が消え、飛行速度が遅くなる。 平気である事を示したくて微笑めば、頬に優しく口づけられた。 「んぇっ!?」 「俺のご主人様は強い子だな」 頬に感じたファリスの唇の感触がジンジンと心を熱くさせた。 恐怖とは全く別の高鳴りが胸を支配し始める。 (こんな時にドキドキしてどうするんだよ!) ファリスの胸の中。 優しい口付けを受けて緩みそうになる気持ちを必死に律した。 「そろそろ着くが……おかしいな」 太陽を追うように空を飛び続け、大陸の端が見えようかという頃。 砂漠の彼方に大きな岩山が見えた。 「俺は魔法を解いてないが……」 「さっきカリムが言ってた国の事だよね?」 「ああ。四百年前に砂漠と岩山を俺の魔法で海と島に変えた。解いた覚えはないが、元に戻ってる」 「え……」 砂と岩が、海と島に。 どこかで聞いた事のある話だ。 ルトが知っているのは真逆の話だが。 (それって、もしかして……) 確信に近い疑いを口に出す暇もなく、目前に幾つもの岩山が迫る。 ファリスはその中でも一際大きな岩山の麓に降り立つと、ルトを砂の上に降ろした。 アスアドとカリムも、シディの力ですぐ後ろに到着した。 こちらの二人は乱暴な運ばれ方をしたようで、アスアドが息も絶え絶えといった様子だ。 「もっと丁寧に運べよ!!」 「ごめん、ごめん! あまりその辺を考えてなかった」 おざなりに謝りながら、シディは乱れた己の髪を整えている。 反省はしていないようだ。 「カリム、どういう事だ? 俺の魔法の効力が消えている」 ルトの隣に立つファリスが固い岩肌に触れながらカリムに問う。 「ヘイデルが魔法をかけたと言っていたのはこの国の事だ。ファリスがかけた魔法を無効化する形で魔力が発動されていて、人間が全て石になる強い呪いも重ねてある」 「そうか……」 寒々しい岩山にファリスは憐憫の目を向けた。 「アムジャットとアスアドがここの兄弟王子なんだな。アレムでの話からして……兄王子と使い魔が結託して、国を無残な姿にしたって訳か」 「……そうだ。私はアスアド様の側近をしている。国に魔法をかけたのは強いジンだとは分かっていたが、まさか身内同然であったヘイデルの仕業だとは考えていなかった……完全な油断だ」 「普通、兄王子に仕えている仲間が国を滅したとは思わないだろ」 ファリスは四百年前に魔法をかけ、八年前までは広く碧い海であっただろう不毛な砂漠を眺めながら切ない顔をした。 「……あんなに美しかった国がなぁ」 全ての営みが消えた国を純粋に憂うファリスの横で、アスアドが眉根を寄せてカリムに強い視線を向けていた。 「どういうつもりだ、カリム」 「アスアド様……」 「黙って聞いていれば、俺の知らない話ばかりだ。お前は、どれだけの事を隠している?」 アスアドがカリムの肩を掴んだ。 「申し訳ありません……」 「謝罪なんかいらないっ」 アスアドの語気が強くなる。 カリムの肩を掴んでいる指がかすかに震えていた。 「質問に答えろ! お前は、ジンなのか?」 怒りに染まった紅榴石(ガーネット)と、紺碧の瞳が見つめ合う。 「……はい。私はジンです」 カリムは交わった視線をほどき、瞼を伏せながら答えた。 「母君の……マイムナー様の命令で、ヘイデルと共に側近としてお仕えしておりました」 「母上の……? じゃあ、二人は元々母上の使い魔だったのか?」 「そ、れは……」 カリムが言い淀む。 煮え切らない態度に、アスアドの眉宇に新しい怒りが浮かんだ。 「アスアド。多分、カリムは口止めされてる。俺達にとって、マイムナー様の命令は絶対なんだ。他言無用と言われていれば誰にも話せない。許してやってくれ」 「俺達……? ファリスも母上に仕えてたのか? でも、お前は四百年間、紅宝玉の中で……」 ファリスの言葉の中にある矛盾に、アスアドが訝しげな顔をした。 当然だ。 紅宝玉の中に封印されていたファリスが、アスアドの母に仕えている訳がない。 互いに存在を知る機会すらないのだ。 普通ならば。 「封印される前は魔界でマイムナー様を守護する立場だったんだよ。カリムも同様にな」 魔界。 大魔神が統べる、魔の者達の世界だ。 そこでアスアドの母に仕えていたという事は――。 「……まさか……母上もジンなのか……?」 半ば呆然と問うアスアドに、カリムは視線を下げたまま頷いた。 理解が追いつかない。 八年前に国を無にしたのは、石になっていたと思っていた兄だった。 人間だと信じて疑っていなかった側近は魔人で。 それだけでも衝撃的なのに。 実は母まで魔人だったというのか。 アスアドは荒れ狂う感情の嵐が大きくなるのを感じて、唇を噛みしめた。 「しかし、今はマイムナー様は石になり、カリムは力を完全に失っている。何があった?」 「……この国に魔法がかけられた時、アスアド様と己の身を守る為に自分の魔力を盾にした」 マイムナーはこの国で妃となってからは魔力を出来る限り封じていたという。 そのせいで、ヘイデルの魔法に気付く事なく周囲の人間と同じように石になってしまったと、カリムは説明した。 「……あの時、俺達だけ石にならなかったのは自分の力を犠牲にしたからだったって事か?」 荒れ狂う感情のままに、アスアドがカリムの胸ぐらを掴んだ。 「どうして、そんな大事な事を黙ってた!? 母上に全て口止めされてたって言うのか? ふざけんなよ!! この八年、いや、初めて会った時から、ずっと俺を騙してたのかっ!?」 「アスアドっ」 カリムを揺さぶっているアスアドを止めようと、ルトは二人の間に割って入った。 「感情的になる気持ちは分かるが少し落ち着け。カリムが人を騙すような奴じゃないのは、自分が一番分かっているだろ?」 紅榴石の瞳に強い怒りを宿すアスアドにファリスが静かに言う。 「俺が知ってるカリムはそうだ……だが、実際は全て隠されていた。俺は本当のカリムを知らないも同然だ」 「違いますっ。アスアド様、私はっ……」 言葉を重ねようとしたカリムに、アスアドは冷たい視線を送る。 「今更……何を聞いた所で、信じられる訳がないだろ」 アスアドはカリムの脇を抜けて岩山沿いを歩いていき、すぐに姿が見えなくなった。 「カリム……」 張りつめていた空気の糸がぷつんと切れる。 ルトは少しだけ肩の力を抜いたが、緊張は一切ほぐれなかった。 「こんな時にすまない……。私の思慮が足りないばかりに、主を傷付けてしまった」 カリムは片手で顔を覆い、細くため息を吐いた。 「マイムナー様の口止めなんて言い訳に過ぎない。私が臆病なばかりに、真実を話す事を先送りにして……」 この八年間。 話す時間は沢山あったのだ。 しかし、言い出す機会を逃したから今更だからと、真実を隠し続けて来た。 その結果がこれだ。 怒りの奥に悲しみを滲ませたアスアドの表情。 臆病な選択が主への裏切りになってしまった。 この地が不毛の国となってしまった時。 アスアドは絶望と悲しみに覆われ、感情が失われた。 主のあんな表情は、もう二度と見たくない。 その為には何でもすると心に決めていたのに――。 「まだ、間に合うだろ」 ファリスはアスアドが消えて行った方に親指を向けた。 「追いかけて、しっかり話し合って来いよ」 「話し合った所で私の裏切りは変わらない……。アスアド様の信頼を私は――」 「隠してた事実は変わらなくとも、二人の気持ちは今からいくらでも変えられるだろ。ほら、早く行って来い」 思い悩むカリムの背をファリスは力強く押した。 「お前は昔から頭の回転は速いくせに、自分の気持ちを伝える事は苦手だよな」 小さく笑うファリスに、カリムは無言で瞼を伏せた。 「上手く伝えられないなら何度言葉を重ねたっていい。アスアドはそういう事も全部受け止めてくれる主なんだろ?」 「…………」 ファリスの言葉にカリムは足を踏み出した。 取り返しのつかない過ちを犯し、主を傷付けてしまった。 どんな言い訳もできる立場ではないが。 決してアスアドの気持ちを裏切るつもりではなかったのだと。 いつだってアスアドの幸福を側で願っていたのだと。 言葉を尽くせば、少しでも主の心に伝わるだろうか。 「……ありがとう。少し時間をもらう」 「気にするな。俺達はあっちに見えるオアシスに散歩にでも行ってくる」 砂山の向こうに小さく緑が見える。 歩けば結構な距離だが、飛べば一瞬であろう。 カリムはルト達に視線を配ると、すぐにアスアドを追って行った。 「あれだけの事、なかなか打ち明けられないよね……」 シディがアスアド達が消えて行った方を見ながら呟いた。 「主を大切に思えば思う程、言えなくなるだろうな」 魔人によって国が呪われて旅に出ているのに、側近や母親が実はその魔人だなんて。 アスアドの心に追い打ちをかけるようなものだ。 言うべきか言わざるべきか。 とても悩んだに違いない。 「あの二人なら、すぐに仲直りできるよ」 「そうだね……」 ルトもカリムの消えた背を追うように視線を滑らせていると、ぐいと手を引かれた。 「早くオアシスに行こうよ。水飲みたい」 「ジンって喉渇くの?」 「飲まなくても生きていけるけど、僕は飲みたいの」 シディはルトの右手を取ったまま体を浮かせた。 腕一本だけを支えに宙に浮きそうになってルトは慌てた。 「ちょっと! ま、待って!! 無理だから!!」 「平気平気!」 右腕を引っ張られ、完全に足が地を離れた。 「待ってよ!!!!」 こんな調子でアスアド達も運ばれたのか。 なんと恐ろしい。 「わっ! だ、だめだって! ひぇっ! た、助けてっ」 大声で嫌がるルトの体にファリスが笑いながら腕を回してきた。 「わ、笑いごとじゃないよっ」 ファリスの胸の中で安定を得てルトは安堵の息を吐いた。 「わるかったよ。慌てる様子が可愛くて、つい」 「僕、本気で怖かったのに! ひどくない!?」 ぷりぷりと怒るルトに、ファリスの笑みが深まる。 「あのさ……いちゃつくなら、せめてオアシスに着いてからにすれば?」 抱き合って騒ぐ二人に、シディは砂漠より乾いた視線を送った。
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