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第一章 父の帰還 場面一 別れ
夜明け前の、暗い空―――
ぶるる、と、馬が鼻を鳴らす。冬の冷たい空気の中、吐き出す息は、白い湯気のようだった。漆黒の馬の傍らに立つ長身の男は、愛馬に跨ろうとして、不意にこちらに気付いた。
「ドゥルースス」
男は低い声で言った。ドゥルーススは身を竦ませる。男は馬に乗るのをやめ、早足に歩み寄ってきた。数人しかいない随人たちも、予想外の人間がそこにいたことに驚いたらしい。ひそひそと囁き交わすのが判った。
「一人か」
ドゥルーススは黙っていた。ドゥルーススは六歳にしても小柄な方で、五十ウンキア(一二〇センチ)程しかない。七十五ウンキア(約一八〇センチ)の長身で見下ろしながら、ニコリともせずに低く尋ねられると、逃げ出したい気にさえなる。男はそれだけ言ってしばらく口をつぐんでいたが、随人たちを振り返り、「クィントゥス」と一人を呼んだ。
「ドゥルーススを邸に送ってくれ」
馬を下りて駆け寄ってきたクィントゥスに、男は命じた。
「かしこまりました」
「父上!」
ドゥルーススは言った。男は青みがかった灰色の眸で、ドゥルーススを見る。
本当に、ローマを出て行ってしまうんですか。
どうして、ぼくやみんなを棄てるんですか。どうか一緒に連れて行って下さい。
言葉が出てこなかった。鼻の奥がつんとして、ドゥルーススは唇を噛んだ。クィントゥスがドゥルーススの背に手を触れ、ドゥルーススを促す。
「ドゥルースス様」
「ひとりで、帰れます」
必死に涙を堪えながら言った。だが、父の言は常に絶対だった。ドゥルーススの主張など、通ったためしはなかった。
「ドゥルースス」
父は静かに言った。
「皆の言う事を聞いて、よく勉強しなさい」
クィントゥスに連れられて邸へ戻りながら、ドゥルーススは未練がましく振り返った。眸に映ったのは、何事もなかったかのように皆のところに戻る父の、がっしりした背だ。とうとう、堪えていた涙がボロボロと溢れた。
惨めだった。ドゥルーススは、どこかで期待していた。別れを悲しみ、名残を惜しむ真心のこもった言葉。温かい抱擁。そして、父が、一緒に来いと言ってくれるのを。
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