第一章 父の帰還 場面二 家族

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第一章 父の帰還 場面二 家族

「ドゥルースス」  従兄のゲルマニクスに(つつ)かれて、ドゥルーススは回想から覚めた。 「どうした、深刻な顔をして」  尋ねるというよりも、どこかからかうような口調だ。父がローマを去ってからの七年間、兄弟同然に育ってきたこの従兄は十五歳で、十三歳になったドゥルーススとは二歳しか違わない。だが快活で機知に富むゲルマニクスは、よくこの「弟分」に対してそんな話し方をした。 「ノロケを聞く顔じゃないぞ」  ドゥルーススは苦笑する。 「楽しみだな」 「本気か? 恒例行事だぜ」  ゲルマニクスは悪戯っぽい眸で笑う。  今日はローマの最高権力者アウグストゥスとその愛妻リウィアとの、三十五回目の結婚記念日なのだ。身内だけのごく内輪の宴で、明るい緑を基調にした果樹園の絵が一面に描かれた中食堂に、料理が並んだ一つの長テーブルと、それを囲む寝椅子とが設えられている。一つの寝椅子に三人で臥して食べるのがローマ流だ。  ドゥルーススはそのうちの一つに、ゲルマニクスを真ん中に、二歳年少の従妹リウィッラと共に臥していた。「身内」とはいっても、ドゥルーススの父はアウグストゥスの妻の連れ子だから、ドゥルーススはこの最高権力者の血縁ではない。だが、アウグストゥスはドゥルーススを家族の一員として遇してくれていた。  父がローマを去った時、ドゥルーススは六歳だった。父はドゥルーススの実母とは既に別れていたし、後妻との関係もうまくいっていなかった。結局、父の弟の妻―――もっとも、その弟は既に亡くなっていたが―――つまりドゥルーススには義叔母にあたるアントニアがドゥルーススの養育を引きうけ、三人の実子と共に育ててくれたのだ。  やがて宴席の準備が整い、アウグストゥスの柔らかい声が、室内に静かに流れた。 「皆が集まってくれたことに感謝する」  六十四歳になったアウグストゥスの、六歳年少の妻に対する愛妻家ぶりは有名だ。かつて二十六歳の若者だったアウグストゥス―――当時は勿論「アウグストゥス(至尊者)」などという仰々しい称号では呼ばれておらず、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスが彼のフルネームだった―――が熱烈な恋に落ちたのは、妊娠中の美貌の人妻だった。  リウィアの夫は、このローマでも屈指の名門貴族に属しており、リウィア自身も古くからの貴族の出身だ。これに対しアウグストゥスの方は二度目の政略結婚の相手と別れたばかり、しかも祖父の代には何を生業にしていたかもはっきりしない根っからの平民で、いわば「成り上がり」だった。それにも怯まず夫に直談判し、妻を譲らせたというから、相当惚れ込んでいたのだろう。普段むしろ慎重で、気さくな笑みを絶やさない、この大国ローマのらしからぬ最高権力者の一体どこにそんな激しい情熱が秘められているのか、ドゥルーススには見当もつかない。  その時リウィアの胎内にいたのが、ゲルマニクスの父で、十一年前に二十九歳の若さで故人となったネロ・クラウディウス・ドゥルースス・ゲルマニクス。(ちなみに「ゲルマニクス」は「アウグストゥス」同様に尊称で、「ゲルマニアを征した者」という意味がある。従兄はこの父の名を継いだのだ。)ドゥルーススの父ティベリウスはその実兄で、この弟とは四歳違いだ。フルネームをティベリウス・クラウディウス・ネロ―――クラウディウス一門に属するネロ家の人間で、個人名はティベリウス―――という。
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