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第10話 仲間割れの危機を乗り越えて【草薙】
季節は巡る。新年度がやって来た。
草薙は変わった。二年生への進級を機に髪を短く切った。つぶらな大きい瞳は変わらないが、今や「トイプーちゃん」と呼ぶ者はいない。180センチ近い長身に、細身ではあるが筋肉の付いた身体つきと甘く優しげな顔立ちが、王子様のようだと近隣の女子高生が色めき立った。先輩たちに引けを取らない演奏技術と控え目な人柄もあいまって、ブラスバンド部の新入部員の中には草薙に憧れる者も少なくなかったが、「鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」と言うように、草薙は熱く、しかし静かに柏木を想い続けていた。
トロンボーンには二人の一年生が入った。後輩にも分け隔てなく親切に接する草薙を慕ってくれる。二人が順調に上達するのを見るのは嬉しかった。
最上級生になった柏木は、草薙に微笑んだ。
「後輩が育つのを見るのも、いいもんだろ?」
「ええ、本当に。去年、僕を教えてくれた圭先輩ほど、うまく教えてあげれてるか、自信はないですけど」
草薙は控え目に微笑み返した。
「これで良かったのかなぁ? とか悩むだろ? 一緒だよ。ようやくお前も、俺の気持ちが分かったか」
柏木はニヤリと悪戯っ子のような表情で、草薙のお尻を軽く叩いた。
トロンボーンパートは士気も高く、足並みが揃っていたが、一方で、吹奏楽コンクールを控えた青陵高校ブラスバンド部全体が必ずしも順風満帆に歩みを進めているとは言い難かった。梅雨入り前のある暑い日、全体合奏で、サックスパートの状態が悲惨だということが分かった。殆どのメンバーが譜面通り吹くことすらできない。
フルートの三年生でパートリーダーの菊田が声を荒げた。
「おい。どういうことだよ! この譜面が配られたの、いつだと思ってる? 一か月以上前だぞ。なんで碌に読めてないんだよ。この一か月、何やってたんだよ?」
「……仕方ないだろ。体育祭だったし。みんな色んな競技に選ばれてて忙しかったんだよ。……お前らみたく、部活だけに専念できなかったもんでね」
サックスのパートリーダー片桐が言い返す。
「……なんだって?! リア充自慢で誤魔化してんじゃねえよ。やること、やってからにしろ。コンクールまで、あと二か月ぐらいしかないんだぞ?!」
真面目な菊田は更に鼻白む。
「まあまあ。菊田、落ち着けよ。片桐だって、ちゃんと考えてるよ。こっから巻き入れてくよな?」
お調子者だが平和主義者のユーフォニウムの上杉が、両者を宥めにかかる。
「上杉は優しいよなぁ。俺はぶっちゃけ菊田と同意見だね。県大会まであと二か月なのに、これを危機的だと思わない方がおかしいよ。俺は去年の二の舞にはなりたくないね」
クールで皮肉屋ではあるが、普段は瓢瓢として、争いごとから一歩引くことが多いトロンボーンのパートリーダー柳沢が、珍しく静かな怒りを表した。
音楽室に静けさが広まった。沈黙を破ったのは柏木だった。
「なぁ。俺たちは、何のためにブラスバンドやってるんだと思う?
なんでコンクールで良い結果を出したいって、必死になってんだろうな?」
部員一人一人の顔を順繰りに眺めながら、穏やかに淡々と問い掛けた。部員たちは互いに顔を見合わせた。
「みんな色んな考え方を持ってると思う。
……実は俺も、去年のコンクールの後かなり自問自答したんだ。俺なりの結論だけど。
究極的には、頑張ることに『意味なんか無い』と思ってるんだよ。例えば、野球部に『なんで甲子園目指すんだ?』って聞くのと同じじゃないかな。野球部で頑張ったって、プロ野球選手になれるのは、ほんの一握りだろ?
同じ夢を目指すこと。
頑張ること。
そして最後までやりきること。
……つまり『やることそのもの』が意義なんだと俺は思う。
何より俺は、このメンバーで演奏する最後の機会に最高の演奏をしたい。みんなとも、その気持ちを共有したいんだ」
去年のコンクールでは忸怩たる思いを抱えていた柏木だが、その思いは昇華され、今の彼の表情は清々しかった。
「『いい演奏』って、何なんだろうな」
ポツリと柳沢が言った。
「僕ららしく精一杯やり切って、観客に感動してもらえる演奏、ですかね」
草薙が柳沢の言葉に呼応した。
「『俺たちらしい』って、どんなんだろうな」
「あの……。僕、中学校でもブラスバンドやってたんですけど、去年、青陵の学園祭に来てブラスバンド部のステージを観て、感動しました。幾つかの高校の学園祭に行きましたけど、青陵は部員が全員男子だからか、音量とか迫力がすごいんですよ。うわーカッコいいと思って。それで青陵を志望校にしたんです」
普段大人しい一年生が、当時の興奮を思い出したかのように、頬を紅潮させて打ち明けた。
彼に感化され、一人、また一人と、部員たちがなぜ青陵ブラスバンド部に入ったのかを語り始めた。毎日互いに顔を合わせていても「あいつ、そんな風に考えてたのか」と、新たな気付きはたくさんあった。誰とはなしに、土曜に再度、議論するために自主練で集まろうという声が上がった。
「青陵ブラスバンド部らしさとは」
「どんな演奏をしたいか」
「そのコンセプトを今回の曲でどう表現するか」
この日の活動の終わりには、程度の差こそあれ、全員が憑き物が落ちたようにサッパリした表情をしていた。
「草薙!」
帰宅しようとしていた草薙は、柏木に呼び止められた。
「あのさ、お前、ユニフォーム小さいんじゃない? もしイヤでなければ、俺の貰ってくれない? サイズ的にはちょうど合うはずだし」
「あ……確かにヤバいなって思ってました。でも、そんな大事なもの、僕が貰っていいんですか?」
草薙は内心踊り出したいほど嬉しいのを隠し、遠慮がちに眉を下げて尋ねた。
「うん。草薙に貰って欲しい。俺、コンクールはタキシードだし、それが終われば引退だから。もう着る機会ないんだよな。なんかそう考えると寂しくてさ。お前が着てくれれば、青陵のブラスバンドと繋がってる気がするから」
少し照れたように柏木は笑った。
「じゃあ遠慮なく、着させてもらいます。僕も圭先輩が見守ってくれてると思って、頑張りますから。
……今日の圭先輩のお話、すごく刺さりました。今年のコンクールは僕らにとって、一生に一回しかないんだなって改めて思いました。残ってる練習時間はもうそんなに長くないですけど、僕は僕なりに全力を尽くして、トロンボーンみんなを最高の状態に持って行きますから」
ユニフォームを引き継ぐ意味を共有できたと互いに感じた二人は、微笑みながら見つめ合った。
コンクールの舞台は、柏木のタクトで演奏する最後の日になるかもしれない。草薙は、憧れの人の後ろ姿を切なげに見送った。草薙の片想いをただ一人知っている、親友の竹下は溜め息交じりに耳打ちした。
「菫、お前、今のままでホントにいいのか? ちゃんと伝えた方がいいんじゃない?」
「……僕の気持ちなんて、迷惑にしか。それに、告白して、もし気まずい顔なんかされたら立ち直れない」
イジイジする草薙の背中を、竹下はどついた。
「迷惑とか、あるわけないよ! 先輩がお前のこと嫌だったら、マッパのお前の介抱なんかしないし、ユニフォームくれたりしないだろ?」
一年前の合宿で、風呂で貧血を起こして倒れた挙句、大好きな柏木に全裸を見られ、パンツを履かされ、パンツ一枚の姿のまま背負われて運ばれるという人生最大の黒歴史を持ち出され、草薙は真っ赤になって両手をバタバタさせた。
「ちょ、やめてよ! その話は……!!」
「当たって砕ければいいじゃん。もし万一、気まずくたって、どうせ会えないんだから。コンクール終わったら先輩は部活引退で、半年後には卒業しちゃうしな。玉砕して辛くなったら、その時はまた話聞いてやるからさ」
竹下はわざと気楽な口調で、草薙の気持ちを和らげた。
「ん……。ありがと」
背中を優しく押してくれた親友の思いやりに、草薙は感謝した。
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