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第1話 Overture(序奏)
夏の終わりを告げるツクツクボウシが、その身を焦がすかのように、激しく啼いている。
外は蜃気楼が立ち上るほどの熱気だが、全国吹奏楽コンクールA県大会が開催中のB市民会館大ホールは、冷房が効いて、スーツ姿でも肌寒いほどひんやりしている。暗い客席と対照的な眩いステージには、青陵高校ブラスバンド部の演奏者が全員着席済みである。男子校ならではの、迫力ある演奏が持ち味だ。
最後のメンバー、指揮者の柏木 圭が、舞台袖から登場した。意志の強そうな眉、切れ長で奥二重の涼しげな目元、すっきりした鼻筋。濡れ羽色の前髪をあげ、きれいな額を見せている。一見冷たそうな細面の整った顔立ちだが、笑うとキュッと目が弓なりになり、人懐っこい表情になる。感受性の豊かさは、小さいが厚みのある唇から伺える。百八十センチ強の長身に、広い肩としっかりした胸板。首や手足が長く、まるでモデルか俳優のようにタキシードを着こなし、指揮棒を手に微笑む彼に、客席からは、ほおっと溜め息が漏れる。
柏木は、両手を上向きに広げ、メンバーに起立を促す。全員が起立したのを確認すると改めて客席を振り返り、胸に手を当てて腰を九十度に曲げ、丁寧にお辞儀をした。
全員の着席を確認すると、タクトを構え、メンバーひとりひとりの顔を見渡した。全員が緊張した表情をしている。柏木たち三年生にとっては、これが最後のコンクールとなる。柏木は唇の端を少し持ち上げ、
「さぁ。俺たちの演奏を楽しもう」
眼差しで語り掛ける。
草薙 菫は、この瞬間の柏木の微笑みと、タクトを自在に操る彼の繊細な指先が好きだった。仮に柏木自身が不安や葛藤を抱えていたとしても。ステージに立てば、自信に満ちた態度で「俺を信じてくれ」と、躊躇なく部員たちを一つの方向に引っ張ってくれる。
そんな柏木に、ついていきたい。その背中に、少しでも追い付きたい。その一心で、草薙は青陵高校入学以来、一年数か月を過ごしてきた。コンクールに出場しているのは三年生が主体だが、人数が少ない一部の楽器ではバランスを整えるため、一年生や二年生でも出場することもある。二年生の草薙は、一年生だった去年からコンクールに出場しており、今回が二回目だ。
ブラスバンドの「『音』が出る」のは、直接的には金属や木材で出来た楽器からだ。しかし、「『音』を創り出す」のは楽器と接する演奏者の唇や歯だし、そこに息を吹き込むのも演奏者だから、聴衆に届く『音』は、楽器だけでなく演奏者の肉体に大きく依存する。
少し喉が痛かったり、唇の皮が一枚剥けたりといった、些細な体調の変化で途端に演奏が冴えなくなることもあるし、逆に身体を鍛えれば、楽器自体が同じでも音色は輝きや力強さを増していく。
一部の楽器だけが演奏し、他は音を出さない場面では、バレエの群舞ダンサーが舞台背景の一部となって溶け込むように、音を出さない楽器は舞台装置の一部になる。
ブラスバンドは、まさに肉体による芸術だ。そういうところが面白いと草薙は思っていた。
この面白さに取りつかれ、柏木に触発されてトレーニングに励んだ結果、草薙の身長は一年で五センチ近く伸び、体重は十キロ増えていた。高校入学当時、身長こそ百七十五センチと恵まれていたものの、体重五十キロ台と華奢だった身体は、今では青年らしい溌剌とした肉体美を発散するようになった。身長といい、細身ながらも程良く筋肉を纏った均整の取れた身体付きといい、今では周りの部員から「後ろから見ると、柏木と草薙は双子みたいだ」と言われるほどだ。
「後ろから見ると」とわざわざ前置きが付くのは、十八歳という実年齢より大人びて見えるクールな印象の柏木と比べ、草薙は立派な体格とは裏腹の愛くるしい顔立ちだったからだ。二重の丸くて大きな目、ふっくらした涙袋。親からも「女の子に生まれていたら、さぞ『可愛い』って言われたろうに」と嘆かれるほどの美形だ。フワフワの鳶色の髪は入学当初は今より長く、眉毛を隠して大きな目を強調していたし、撫で肩でほっそりした身体つきも相まって、「トイプー(トイプードル)ちゃん」とあだ名されるほどだった。
男子校である青陵高校に入学した当初は、上級生や同級生から熱いアプローチを受けたことも数知れない。
しかし、大きく逞しく成長し髪も短く切った今、望まない相手からのラブコールが減ったのは、一途にひたむきに柏木に片想いしている草薙にとっては、ありがたいことだった。
静寂がコンクール会場を支配する。
草薙はトロンボーンを左肩の上に持ち上げ、マウスピースをそっと唇に押し当てた。右手で軽くスライドを前後に動かした後、ホームポジションに戻し、スタンバイする。全員の準備が整った。指揮者も演奏者も、相撲の土俵入りで「制限時間一杯」を迎えた力士のように気合十分。凛々しく引き締まった表情だ。
柏木の肩と腕に力が入った瞬間。そのタクトが振り上げられるのを、演奏者はもとより、観客すらも息を呑んで待ち構える。
タクトが持ち上げられると同時に、演奏者全員が息を大きく吸い込み、
振り下ろされると同時に、それぞれの楽器に熱い息吹が吹き込まれ、
全員の思いを乗せて、ひとつの旋律となって、うねり、今、走り出す。
柏木の、草薙の、そして青陵高校ブラスバンド部にとっての夏は、まさに今、始まった。
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