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第4話 初恋。そして、失恋【草薙】
新入生が生活にも慣れた五月のある日。放課後の練習時間、いつものように部員たちはパートごとに各教室へと散らばった。トロンボーンのスライドに吹き付けるスプレーを忘れたことに気付いた草薙は、部室に取りに戻った。
彼が何の気なしに部室の引き戸を開けると、衝撃的な光景が広がっていた。
柏木が桜井を抱き締め、キスをしていた。
柏木の左手は桜井の腰を抱きかかえ、右手はボタンが幾つも外されたシャツの胸元に差し込まれ、桜井の胸の頂を弄るように長い指が艶めかしく蠢いている。柏木は興奮して桜井に覆いかぶさっており、小柄な桜井は柏木の首に両手を回し、ぶら下がるようにその身体を委ねている。二人は呼吸を荒げて、噛み付き合うかのように互いの唇を激しく貪り合い、音を立てて舌を絡め、全く草薙に気付く様子もない。
草薙がその場に立ち尽くしていたのは、ほんの十数秒のことだった。彼は息を殺し、そうっと引き戸を閉じ、黙ってその場を立ち去った。部室からは足音も聞こえないだろうと思われる数十メートル離れたところで、彼はぎゅっと目を瞑り、唇を噛み締め、指先が白くなるほど強く両の手で自分のトロンボーンを握りしめた。それからおもむろに、左脇に楽器を抱え直し、人影がない校舎の裏手に向かって走り出した。
視界がぼんやり霞んでいるのは、コンタクトレンズの度が合わなくなってきたからだ。胸が痛いのは、最近あまり走ってなくて、心肺機能がちょっと落ちているからだ。
ぽろぽろと零れ続けて止まらない涙。校舎の裏手の誰もいない敷地にへたり込んで、何分過ぎても締め付けられている胸。懸命に何度も否定しようとしたが、草薙は自分の本当の気持ちに直面せざるを得なかった。
だけど、あんまりだ。
『実らない』とは言うけれど、自覚した瞬間に失ったことを同時に知る初恋だなんて。
(僕は……僕は、圭先輩が桜井に夢中になっているのが嫌だった。桜井に嫉妬したんだ。圭先輩の胸に抱かれているのが、自分だったら良いのにと思った。
圭先輩に対する気持ちは、お兄さんみたいな存在に対する憧れだと思ってたけど、そうじゃない。僕は圭先輩を、「そういう対象」として好きなんだ……。
だけど、圭先輩は桜井と付き合っているに違いない。あんないやらしいキスをしていたもの……。みんなが何度聞いても、圭先輩は認めなかったけど、やっぱりあの二人は恋人同士だったんだ……)
草薙は声を抑えきれず嗚咽した。
その日どうやって自分が家に帰ったか、草薙は覚えていない。夕飯もとらず、自分の部屋でベッドにもぐり込み、ただひたすら涙を流した。初めての胸の痛みを、どう逃がして良いか分からなかった。
草薙は、これまで特定の女の子に明確な恋心を抱いたことはなかったが、かといって自分の性的指向が同性愛だと意識したこともなかった。中学時代、他の男子とエッチな雑誌をこっそり見て騒いだり、ませた同級生が彼女とどこまで行ったとか、そういう話で盛り上がったこともあった。
初めて恋愛感情を抱いた相手が同性の柏木だったことも、彼をひどく動揺させた。
翌朝も食事は喉を通らなかったが、何とかシャワーだけは浴びた。あまりにひどい顔をしている彼を心配した母親が、何も聞かず蒸しタオルを作ってくれた。
「菫、これで顔をあっためなさい。むくみが取れるから」
蒸しタオルを手渡され、彼は黙って母の言葉に従った。
その日、初めて草薙は朝練を休んだ。もし、部室で仲睦まじくする柏木と桜井の姿でも目にしてしまったら、泣かずにいる自信がなかったからだ。教室でも、仲の良いクラスメートから心配された。
「菫、なんかあったの? 今日、元気なくない?」
「うーん、昨日、家で焼肉食べ過ぎちゃってさ。さすがに胃の調子が悪い」
苦しい言い訳だったが何とか誤魔化した。
放課後の部活も本当は行きたくなかった。だけど欠席する理由が思いつかなかったし、欠席の報告を友達に頼むのも億劫に感じた。草薙は重い脚を引きずって部室へ向かった。
柏木は他のパートの練習に付き合っているようで、トロンボーンの練習には来ていない。
熊谷は、今日は欠席だ。
柳沢は、どうやら彼女と喧嘩したらしく、しょっちゅう電話するため教室を空けている。
草薙は上の空で、一人練習を続けた。ちょうど柳沢が何度目かの電話で教室を外している間に柏木が入ってきた。草薙は、胸をぎゅっと握られるような苦しさを感じたが、軽く会釈をして、そのまま練習曲を吹き続けた。柏木は少し離れて窓際に立ち、無言のまま、じっと草薙を見ている。
そんな真っ直ぐ僕を見つめないで……。
今は、あなたの顔を見るだけで辛いんだ……。
そんな草薙の心の叫びにもかかわらず、無情にも練習曲は終わった。楽器を下ろさざるを得ない。きっと柏木から何か指導を受けるだろう。聞かざるを得ない。草薙は唇を噛み締めて俯いた。
「草薙。今日は、どうした?」
柏木は、さり気なく切り出した。
驚いた表情で草薙は顔を上げ、無言で柏木を見つめた。
「心ここにあらず、って感じだぞ。顔色も良くない。コンディション悪いのに、オーバーワークじゃないか? 草薙にしては珍しく高音域がフラットしてる。今日は誰も先輩が居なかったから、練習のペースが作りづらかったろ? 一人にして悪かったな。俺が気を付けるべきだった。ごめんな」
柏木は、草薙を労わるように優しく言った。
「いえ、柏木先輩のせいじゃないです。僕が自己管理できてないだけです。柳沢先輩も、今は、たまたま電話中で居ないだけで」
草薙は目を逸らし、硬い表情のまま、やや早口で答えた。
「やっぱり、俺のせいだな」
柏木は黙って草薙の言葉を最後まで聞いていたが、溜め息をついた。
「ち、違いますって。だから、僕は、」
柏木は、必死に言い募る草薙を手で制した。
「じゃあ、なんで、急に他人行儀に『柏木先輩』とか言う? お前、いつも『圭先輩』って呼んでくれてるじゃん。理由がわかんなくて悔しいけど、きっと俺が何かしたからだろ? それに、お前は庇ってくれたけど、柳沢、あいつ今日ろくに練習してないだろ。彼女と揉めてるって本人から聞いてる。たぶん部活どころじゃないって、俺、知ってたから」
どうして、この人は、こんなに人の心の動きに敏感で、思いやりが深いんだろう。
傷心の痛みを少しでも和らげようと、無意識のうちに柏木との間に距離を置こうとしていた。それが名前の呼び方にまで現われていたことに、指摘されるまで気付いていなかった。
柏木の優しさは、草薙の胸を余計に抉った。叶わない恋の相手から優しくされ、その魅力を改めて認識させられるのは、今の草薙には酷だった。途中からは柏木の顔を見れなかった。自分の上履きの爪先を睨み付け、草薙は必死に涙を堪えた。
「草薙。今日は、もう上がれ。これ以上練習しない方が良い。故障するぞ」
柏木は、草薙の左肩をぎゅっと強く掴んだ。掴まれた場所が膿んだように熱い。草薙は、無言のまま頷いた。それを見届けた柏木は、草薙の肩から手を放した。
帰り支度を始めた草薙の姿を確認した柏木は、教室を出ていく途中、出入り口で立ち止まり振り返った。
「ホントは、お前のわだかまりが何なのかも聞きたい。でも、今日はやめておく。気を付けて帰れよ」
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