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-9- 道の先にあるもの
定時を1時間ほど過ぎて、残っている人間が誰もいなくなった事務所で、目を閉じたマキと矢島がワークステーションのディスプレイに照らされていた。2人の意識はそこにはない。マキの意識が次に目覚めた時、目の前には木の扉があった。
矢島が手の中のキィで扉を開ける。マキは誰かにスキャンされているのを意識する。
「……先輩はオレのguest扱いで」とか何とか、受付らしき女性に話している矢島の声がした。
「どうぞ」
女性はにこやかに2枚のチケットのようなものをマキに差し出す。判らないまま受けとって中へ。
もわあっ、と、音楽と煙が自分に襲いかかって来る感じがした。こんなにたくさん煙草を吸う人間がいるのか、と思ったのはマキの勘違いで、それは煙草の煙もあるがスモークのせいでもあるらしかった。
極度に視界が悪い。喉や目が痛むのでやたらにまばたきばかり繰り返していたら、矢島が笑って空中で何かに触れた、いくつかのコントロール・メニューらしきものが現れる。
「リアルを追求しているからこういう感じなんだけど、嫌な人はパラメータでコントロール出来るんですよぉ」
大声でマキの耳元で叫ぶ。パネルに目を凝らして幾つかのボタンを押す。視界が晴れて、音も小さくなる。なるほど。
足元は短いキャットウォークの先に螺旋階段が見えた。下を見ると、人の頭が見える。50人くらいか。ぎゅうぎゅうというわけではないが適度に混んでいる感じ。
螺旋階段の途中からもう一つのキャットウォークが伸びていて、その先に小部屋があった。その中にいる人物──。
目をさらに凝らす。間違いない、田口翔太。周りを機材に囲まれている。あそこがDJボックスか。
矢島がまた近づいて来て、
「オレは音でかいままだから先輩に話しかけるとうるさいかもぉ」
「……確かに」
「えぇ?」耳に手を当てて聞き返す仕草の矢島。
「なんでもなーい」大声で答える。自分でもうるさい。「私はあちこち見物してるから楽しんで来てー。《S.T.》はまだあの中みたいだから、出て来たら聞いてみるー」
「はーい」
軽い足取りでフロアに降りる。マキもゆっくりとその後に続く。
螺旋階段の上からは見えなかったが、物陰にバーカウンターのようなものが伸びていた。そこに何人かの人が座って休んでいる。みんな喋るということはあまりしていないらしい。
一人、凄く目立っている女性がいる。その足のせいだ。
彼女の足は義足だった。本当に義足なのかファッションでそうしているのかはマキには判らない。その義足は黒光りする金属で出来ていて、上には透明な「皮膚」がかぶさっている。時々、光がその足の中を走る。最初はよく判らなかったが、しばらく見ていたら、それが走りながら筆記体で色んな英単語を綴っているのが判った。trance、beat、dope、dance、craze、など。
にこにこと楽しそうに上半身を揺らしながら、時々バーカウンターの中の店員と話したりしている。その様子を見る限り、彼女は常連らしい。
マキはその隣の空いているスツールに腰かける。居心地が悪そうにもぞもぞしていると、その女性が話しかけて来た。
「──初めて……でしょ?」
「は、はい……」
そりゃそう見えるだろうな。ちょっと恥ずかしいと思いつつもマキはその彼女の人当たりの良さそうな笑顔に少しホッとする。矢島に色々聞ければいいのだろうが、せっかく楽しそうなのを邪魔するのは忍びない。彼女は「踊れない」のだろうから、もしかして話し相手になってくれはしないか。そんな期待も少しはあった。
「チケット貰ったでしょう?」
「え、ええ」
「ドリンクチケットなのよ。踊るの得意じゃないなら、何か頼んでみたら?」
マキはホントに何も判っていなかった。2drinksというのはつまりドリンクチケット2枚ということか。
「えーと……」
「何でも出来るわよ。彼、データベースだから」中のバーテンを指して言う。
「……へ」
「アバタでも意志体でもないの。単なるホログラム」
「そうなんですか……」
マキはジントニックを頼む。にこやかな青年はその場で慣れた手つきでカクテルを作り始める。
「酔っ払いたくなければパネルで調整してね」
ポン、と空間をつつく。そんなことまで調整可能とは。
「あなたはguest扱いだから自分ではこのパネル出せないでしょ」
「あ、はい」
「使って……はい」
ひゅうん、と半透明のパネルが自分の方に飛んで来た。
「あ、どうも……」
最も弱い設定にする。drug、などという項目も見えて思わず目を見張る。
パネルが閉じた。
「ここは治外法権なの。究極のバーチャルリアリティ」
「──凄いですね……」
この女性は、きっと初心者を見つけるとこうしていつも話し相手になってくれるのだろう。そんな気がした。ちゃんとした人間の感じがするから多分アバタだ。
「そうでもないわよ。だってみんな幻だもの。この中だけの、ね」
「……そうなんですか……」
「──」女性は少しおかしそうにくすっと笑って、「何だか妙ね。興味があって来たって感じじゃないみたい」
「ええ、まあ」
「ここにそんな顔して来る人は珍しいわよう?」いたずらっぽく笑う。「連れのボーイフレンドにむりやり連れて来られたの?」
「いや、ボーイフレンドってわけじゃなくて……ムリヤリって訳でもないです」
「そう? じゃあ少しは楽しまなくちゃ」
「──ええ、まあ」
曖昧に笑うしかなかった。
音楽は、マキはヴォリュームを調整してはいるが相当大音量という気はする。床に振動が伝わって来るからだ。その規則正しいリズムを感じながら、客たちの様子を見学する。
みんな自分の世界に閉鎖している感じがする。自分で思い思いの方角を向いて、ただリズムに溺れている。一段高い位置にあるDJブースの様子はここからは窺い見ることは全然出来ない。
出て来た弱いジントニックを唇を濡らすような飲み方で消費しながら、目で矢島を探してみるが、もう人混みに紛れてしまって見つけられない。
きっと楽しんでいるんだろう。それなりに。
傷だらけのカセットで聞いたような記憶のある曲がかかっている。わあっと何人かの客が歓声を上げている。
「あらあら、盛り上げにかかったわねえ?」
のんびりとした隣の女性の声。
「……盛り上げる曲、なんですか?」
「そうね。彼、得意なのよ、この辺り」
「──生きてた頃から?」
思わずそんな台詞が口から出て。
女性は、驚いたように動きを止める。
「----『田口さん』の、知り合い?」
その名前のニュアンスはわかる。つまり、DJとしての《S.T.》ではなく、個人としての田口と知り合いか、という意味だ。だから、
「ええ、まあ」
とだけ答える。
「──そうか、それで判ったような気がするな。何でこういう場所に興味なさそうなのに来てるのかってことが」
「ははは」
軽く笑う。
「色々聞きたいなあ。私は《S.T.》のことは知っていても『田口さん』のことはよく知らないし」
「私は逆です」
「そうかあ……。私、小百合よ。あなたは?」
手を差し出される。マキは握手に答える。「マキです。初めまして」
「ちょっと待ってね」
小百合はパネルを出して何やら調整している。裏から見ても、それは音量調整らしいことは見えた。
「……小百合さん、さっきまであのヴォリュームで普通に喋ってたんですか?」
「うん。慣れると聞き分けられるようになるのよ、音楽と人間の声と」
マキには信じられない世界だった。
小百合から飛び出す《S.T.》の姿は、会社にいる時の田口とはまるで別人のようだった。誰にでも優しく、でも「距離」をわきまえている人。DJとしてはカリスマだったこと。彼の作り出す空間は誰も真似出来ないと言われていて、中毒者が多かったこと。それでも、それを「商売」にするのを嫌った《S.T.》はDJを職業にしようとは最後までしなかった。そのため、彼が回す日は限られていて、それがまた《S.T.》という生きている伝説に拍車をかけることになった。
彼か死んでしまってついに本物の伝説になった時、それと共にクラブという文化がしぼんで行ったのは、《S.T.》経験者からすると納得出来ることだ、と小百合は言った。彼は、クラブが持つ麻薬性をうまく体現出来ていた貴重な存在だった。それを失ったことでクラブに意義を見出せなくなった人がいても当然だ、と。
「──だからね、バウンスは彼を再現した時点でもう成功を約束されてたようなものよ」と小百合。「生きているうちから彼は唯一無二だった。そう、まるで神様みたいにね」
「──何だか信じられないな」
「もし、会社という中で田口さんを知っていてそう思うなら、それは私たち『信者』からしても」と言ってくすくす笑い、「ある意味理解出来ることよ。きっと彼は自分の生きているエネルギーの全てをクラブのフロアを作り上げることだけに傾けていたんだと思う。他の生活は一切捨て去ってもね」
「──なるほど」
「じゃあ会社では生気の抜けた単なるサラリィマンだったわけだ、田口さんは」
「……ですね。ちょっとコンピュータオタクというか。何考えてるのかわかんないタイプでした」
「へええ……」小百合はとても興味深そうだ。
ふっとマキは思った。小百合は、彼のluciferというアドレスのことは知っているのだろうか、と。
DJとして麻薬的な空間を作り出す魔術師、なんて言い方をすれば、それもまたet-aiのやっていたこととの奇妙な一致を感じさせる。
ただ、彼は隠そうとしていたのは確かだから、まだ時期尚早かも知れない。初対面の彼女に聞いてみることは。ただ、DJとしての《S.T.》の姿をよく知っているとなれは、聞いてみたいことはたくさんあった。
マキは恐る恐るメールアドレスを尋ねる。小百合は特に気にもせずに教えてくれる。マキもアドレスを教えた。小百合も、『田口さん』には興味津々のようだった。
それから他愛ない話をして時を過ごしていた2人の元に矢島がやって来たのは午前3時を過ぎた頃だった。久し振りのクラビングに満足げな疲労感を漂わせたその青年は、「今日はもうオレ帰ります」と何処か夢心地の目のままでマキに言った。マキは小百合に挨拶をすると矢島とともにバウンスを後にする。
「目覚めた」後も矢島はしばらくぼけっとしていた。マキがどうしようかとしばらく困っているうちにようやく正気を取り戻したらしく、ふうっと大きな溜息をついて彼は伸びをする。
翌日は休みだが、しかしこんな夜中まで会社にいるのは総務部員としては珍しい事態だ。研究部の連中で泊まり込んでるヤツは何人かはいるだろうが。
「……いやあ凄かったですねえ……でも、結局会えませんでしたね」
「そうね。ずっと入ったままなのかな」
「かも知れません。《S.T.》は生きてた頃も一人で5時間とか平気で回してましたから」
「──へえ……」マキは荷物をずるずると引き上げる。「まあとにかく今日は解散ね。今度は、寮のサーバ部屋とかの方がいいかな」
矢島も住んでいる会社の寮には各部屋に専用回線が引かれている。それはいったん寮の一部屋に置かれたサーバを経由して、この会社内のサーバと接続されている。その寮のサーバの置かれた部屋が「サーバ部屋」だ。そこには、サーバ本体の他に数台のコンピュータが置かれていて、root(管理者)権限を持つ寮長を中心にして寮の住人が交代で管理しているのだ。その部屋はサーバの置き場であるとともに住人たちのサロンと化してもいた。
「えっ、また行ってくれます? 先輩」
「だって約束でしょ。私だってとりあえず田口さんに聞いてみたいことあったし」
「あっ、はい、じゃあオレrootに相談してみます」
「うん……でも相談しなくても週末とかなら誰か入ってそうじゃない?」
「はは、そうですね」
2人は来週末にもまた行ってみる相談をしながら会社を出る。案の定、研究部にはまだ灯りがついていた。
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