- 10 - 接点

1/1
前へ
/30ページ
次へ

- 10 - 接点

 アヤは日課となっている午後の散歩を終えて戻ってコンピュータの前に戻る。メールを受信した途端に現れた「収穫♪」というタイトルに思わず独り言が洩れた。 「……久し振り……」  小百合から連絡が来ることも、あのバウンスの名前を見ることも。  時間の都合がつくなら電話して、の一文に押されるように携帯電話に手を伸ばす。待たされたのはほんの少しだけ。相変わらずの明るい声が耳元に流れて来る。 『今、お散歩帰り?』 「うん、そんなとこ」 『そっか。……メール、見てくれた?』 「うん」  バウンスで「道の先」にあっさり辿り着いたと小百合は書いていた。マキという名のOL。出会ってからの間にいくつかの長文メールをやり取りして、現実世界に存在した《S.T.》の姿がおぼろげながらも見えて来た。  田口翔太。5年前に享年29歳でこの世を去った青年の昼間の顔はサラリーマン。インターフェイステクノロジー社で研究開発の職に就いていた。  マキはその会社に、彼より2年遅れて入社した。総務課員の1人なので、彼の会社内での顔を知っていた。田口が《S.T.》という名でDJとして活動していたことは全く知らず、彼の不可解な死に方から逆に判ったことだと話していた。  それからの彼女は、独自に《S.T.》のことを調べていたようだ。  DJをする日は、いつも何処か現実感のない目で会社から出て行っていた。あの日もそうだった。そう書く彼女のメール文面は、冷静だけれどまだ戸惑っている。  何故死んだのか、それが判らない。  家族がなかった田口翔太の死は、公的な意味では葬式も何もないまま送られた(クラブでの独自の追悼パーティはかなりあったらしいけど)。総務員としてマキは彼の死を会社で手続きした立場だが、そこに当然付加されるべき理由は結局「不明」のまま。 「……あれ、噂だけじゃなかったんだ」 『噂?』 「死因のこと。てっきり、なんてーか、単に美化されて原因不明とか言われてんだと思ってた。29歳の若さで心筋梗塞とかだと『カリスマ』に相応しくないから言われてないだけとか」 『じゃないらしいわ。家族がないから結局、病院での死亡宣告とか役所の死亡届とか、全部会社の総務課が代行したみたいだし』 「……そか。マキさん、全部把握出来る立場だったって訳か」  そのマキが言うのだ。原因不明の死だと。 『……なんか引っかかるよね』  アヤが思っていたことが小百合の口から零れる。  不思議だ、と思う。ここまで科学の発展した時代において、人の死の原因が判らないなんてことがまだあること自体、医学には素人のアヤには解せない。もしかしたら、医学界ではよくあることなのかも知れないけど。 『でね』  小百合の声のトーンがこころもち落ちる。 『ちょっと気になっちゃって色々調べてみたんだけど、他にもこの手の噂って結構あったんだよね……あの時期』  あの時期。即ち5年前。ブレイン・クラッカーが亜種の乱立により無毒化され、伝説的なDJが死に、クラブカルチャーそのものが消滅へのカウントダウンを始めた時代。 「噂って、何」  小百合の沈黙に、言外の困惑が透けて見える。 『……同じような原因不明の死の話とか、仮死状態の話とか』 「仮死状態……」 『うん。単なる噂レベルの話。ただ、ブログとかウェブサイトとか、検索システムが浸透してるメディアを避けるように流れてるってのが、ちょっとだけ気になるんだけどね』 「cgi生成の隠しサイトとか?」 『いいえ、それがニュースグループなの。altの下とかに泡沫ニュースグループを作ったり消したりしながら流れてる一団がいる、って話は前から聞いてたんだけど、その断片的な情報をとにかく集めまくってみたら、そんな話がちょっと出てた』  ウェブサイト全盛の時代にあえてそこを避けて流れる噂。ライフラインに近くなったインターネットというメディアの中で、オープンでありながらも大部分の人は既にアクセスする手段すら知らないであろう場所。 「なんでわざわざ……」  アヤは、目の前のモニタに浮かぶ真っ白なウィンドウに目を向けた。ブラウザについているニュースグループの購読機能は、だいぶ以前からアカウントのセットアップもしないまま忘れ去られていた。 『いくつかアドレス送ってみる。ホントに泡沫で、他のサーバにフィードされないうちに消したりしてるものもあるみたいで、全部がアヤのプロバイダに流れているとは思えないけど……一応、ね』  送られて来たアドレスのために、久々にニュースグループリーダーをセットアップする。  小百合のメールから拾い出したアドレスは、確かにどれももう存在しなかった。  たとえオンラインに存在した期間が短かったとしても、ウェブやブログであれば検索エンジンのキャッシュなどで拾えることもある。でもニュースグループとなると恐らくはもう何処にも存在しないだろう。ニュースサーバの持ち主がよほど物好きであれば別だが。  実物を確認することは諦めて、小百合が拾い出したダイジェストを眺めてみる。  ウェブサイトの掲示板に同じく、そこに流れているテキストを全て真実として見ることは出来ない。  ただ、その中の1つは、肉筆でもないのにその文体から何処か悲壮さが漂っている。  ──自分達が今見たものを、ただの原因不明で終わらせていいんだろうか。でもウェブには載せられない。もしこのイヤな予感が真実なら、たとえ検索エンジンのロボットにだって、探される訳には、個人を特定される訳には行かないから──  アヤはスクリプトを組み始める。  もう5年。田口翔太という男の死とクラブカルチャー、そしてブレイン・クラッカー。仕事で関わっただけのそんなパーツ達が、もっと別の何かでつながっているような気がして仕方がない。  それを商品化してしまったのは自分だ。それにお金を出す企業があった。サービスとして既に始まっている。それでも。  ──もし何かを見落としているとしたら。田口の死と、まだ輪郭はあやふやなままだが他にもあるらしいいくつかの死の中に、致命的な何かがあるとしたら。  小百合は言っていた。あの《S.T.》は本物だと信じていたと。  ──もし本物なら? 彼の死そのものに何かが仕掛けられていたとしたら?  その田口が生きる場である「バウンス」が──  オンラインの「バウンス」が、人を殺さないと言い切れるのか──?  膨大なニュースグループを検索する。ヒットした記事をマークして本文をダウンロードする。簡単な動作確認を済ませると、アヤはコンピュータをシャットダウンしないままディスプレイだけを消す。  プロバイダのニュースサーバに現存する全ての記事を探す。ほんの少しでも引っかかるものをピックアップする。それはただ単に、胸の中のざわめきを鎮まらせるために必要な儀式のようなものかも知れないが、そうしてみなければ心に淀んだもやもやを取り払うことは出来そうになかった。  ※  翌朝----世間的には「もうすぐお昼」。  一通りの家事や雑用を終わらせて、いつものように午後の散歩。仕事自体に定型が存在しないフリーの立場だからこそ、規則正しい習慣づけがないとアヤの頭のモードはうまく切り替わらない。もう何年も続いた流れは、今日もきっちりとスイッチになってくれる。  パソコンを起動する代わりにディスプレイだけをつける。  ほんの2秒の沈黙。ぱっ、と現れたデスクトップの中で、ぼんやりと光るリスト。仕込んだスクリプトが仕事を終えたのはもう朝方に近い時刻だった。  キーボードを操作して次々と記事を開いて行く。明らかに無関係な広告は削除。くだらない雑談も削除。メールボックスもそうだけれど、結局インターネットに集う「情報」は、媒介が何であっても読んでるより消してる時間の方が長い気がして来る。  そうやって削ぎ落とされたソリッドな情報だけを目の前に並べる。  とは言っても、それが有効な情報なのかどうかは、また別なのだけれど。  インターネットの5年は長過ぎる。小百合があれだけのダイジェストを何処から拾い出したのか不思議なくらい、もうその「事件」の痕跡は薄い。  ただ。ニュースグループという場所は、有意の情報よりスパムの方が我が物顔にのさばっている場所だからこそ、見逃されそうなテキストがひっそり埋もれていることもある。  ──日本語ニュースグループに英語で投稿されたスパム。前世紀からよくありがちだったhtmlメッセージ。  アヤはその場で適当なフリーメール・アドレスを取得する。適当に殴り書きされたようなhtmlに載せられたテキストにはbrain crackerの文字が埋もれている。それが、前後の文章から「あの」ブレイン・クラッカーの意味であると確認する。  でも、その文章は何かを伝える意志があるとは思えない。  だからこそ反対に、アヤの掌に嫌な汗がじわりと浮かんだ。  そのテキストは。「それ」が──ブレイン・クラッカーというモノの持つ意味を知っている人間しか、多分、興味を示さない。それを狙って書いたように見える。  altの下に最近作られたニュースグループ。それがアヤの使うプロバイダに、この日にフィードされたのは幸運だとしか言いようがない。膨大になり過ぎたニュースグループというメディアのalt以下のグループは、せいぜい長くて3日程度しか蓄積されていないのに。  出会えてしまった。アヤには、それは奇跡だとしか思えなかった。  ──ブレイン・クラッカーのトリガーとデータ。sugarはヒントを作った。それだけだ。 「……ヒント……」  手続きが終わったばかりのフリーメールで、そのメッセージの主とコンタクトを取ろうとする。  吐き出すような、何かを挑発するような、そんな文章の裏には奇妙な自信。伝説化したブレイン・クラッカーがヒントでしかないと言い切るなら、その先にある思考はなんとなく予想出来る。 「……あなたは、それ以上のものを作れる自信があるわけだ」  メールソフトを立ち上げたまま、アヤは仕事に復帰する。  ※  時々机から離れて軽い運動をする程度で、「仕事中」のアヤはほぼ1日中コンピュータの前にいる。だが、メッセージの主は結局何の返答もよこさなかった。  携帯のメールならともかく、一応は普通のメールアドレスだった。もしアカウント自体が存在しないものならば、エラーで帰って来るはず。エラーメールさえ戻って来ないということは、一応配達はされている、はずなのだが。 「……まあ、ほいほいと連絡つけて来るような軽々しさだと、逆に怪しいけどね……」  誰に言うともなく呟いて、今日何度目か判らない伸びをする。  冷め切ったコーヒーを入れ直そうと立ち上がる。独り暮らしのワンルームマンションは、普通の家で言うリビングダイニングが1つあるだけの構造。入り口に向けて細い廊下が伸びていて、バスとトイレがその横に並ぶ。キッチンと部屋は境目が曖昧なまま続いている。  アヤは、室内履きにしているスリッパをぺたぺた言わせながら台所へ立つ。  普段、アヤはTVを点けていない。仕事中はほぼコンピュータの画面とにらめっこなので、目を取られるTVは仕事との相性が良くない。主なメディアはラジオだ。ただ、ラジオにはいわゆるニュースショーやワイドショーのような類の番組がないためか、今イチ世間の細かい話題にまでは乗り切れていない。そういう情報についてはTVの方が便利なのだろうが、もう習慣になってしまっていて、今更ダラダラとTVを眺める気分にはなれないでいた。  温かいコーヒーを手の中に包み、反応のないメールボックスを眺めながら考える。  たまたまバウンスに関わったからこそ知りえた情報がある。田口翔太という男の原因不明の死。「脳がクラック(破壊)する」という通称で呼ばれる、データから作用するITドラッグの存在。こんな不穏なものたちは、アヤの前に現れている間はただの噂に過ぎなかった。  小百合が接触した「マキ」の存在が、それらを一気にリアルへと誘導する。  田口翔太──《S.T.》は、バウンスで出会う限りはただのデータだ。コンピュータによって作られたデータ。それに小百合がいくら不思議なリアリティを感じていたとしても、誠が知らないはずの情報を《S.T.》が持っていたとしても、それはあくまで誠が「作った」《S.T.》でしかない。  ──でも。  ニュースグループの記事を拾い上げる。  原因不明の死が、死ではなく、復帰の見込みがない昏睡状態である可能性。ただの妄想に過ぎないその言葉がそのままメディアに乗ることはなかったとしても、そんな、医学的に説明のつかない『死』が存在したら、ニュースにならないのだろうか。  データをトリガーとして発動するドラッグ……このIT時代の副産物としてそんなものが存在するなら、たとえ少しばかりアンダーグラウンドな世界の話としてでもメディアが取り上げないなんてことがありうるのだろうか。  アヤは普段、普通の人と同じようにはメディアに接してはいないのだけれど、それを除いてもやはり、奇妙だ、と思うのだ。必要以上に隠蔽され過ぎている感覚。 「……ただのイタズラなんだろうか。面白がって流布させているだけの」  《S.T.》が死んだその時期とは、たまたま偶然重なっただけの。  ──コーヒーを喉に流し込んで仕事を再開する。今依頼されている仕事が終われば、しばらくは自由な時間が取れる。その時にでも、自分でも調べられることがあるかも知れない。 「まずは《S.T.》のAIだな」  誠が、キーボードを使わずして組み上げた膨大なコード。解析出来る材料は、とりあえずそこにしかない。  アヤは大きく深呼吸をしてから、残っていた仕事の続きに取り掛かった。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加