- 12 - 噂と事実の境界線

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- 12 - 噂と事実の境界線

 ネットワーク上に存在する情報なんてものは、99%の噂と主観、そして1%の客観的事実。そんな風にふざけ半分で切り捨てることは簡単なのだけれど。  ネットがこんな風にジャンクな情報の巣窟となってしまってから、より一層磨きがかかっている分野が存在する。スピードと距離を飛び越えて。一頃のそれとは明らかに「伝わり方」が変わったもの。  ──都市伝説。  結局、《S.T.》というDJもブレイン・クラッカーも、5年を経てネット上に散らばる言葉たちに変換されて行く過程で、単なる都市伝説と温度は変わらなくなってしまうのかも知れない。  ……ブレイン・クラッカーという精神性ドラッグは、突き詰めて行けばただのビット列。脳という肉体には直接作用しないもの。ただ、正確に言えばそれがドラッグと捉えられるためにはそれなりに条件が必要で。 「……要するに、『トリガー』っていうのはセレプター・パッチだった、ということ……かな」  ──現実に言い換えるなら。リンゴを食べたらイッちゃえるように、脳の味覚神経の反応をA10にムリヤリバイパスする、みたいな?  それは噂の累積に過ぎない状況証拠。ただ、そう噂される土壌が何処から来るのか、それを考えるとオチオチ取りこぼすわけにも行かなくて。 「真相は『techno-tribal-ML』の中に、ね……」  サユリはがちりと頭の中でスイッチを切り替える。緩やかに緩やかに現実へと戻って来る。  視覚も聴覚も断って、ただネットの海の中をざぶざぶ泳ぎ回る方が量的には効率が良くても、未だ肉体を抱えた自分には「疲れる」。ただ、その「疲れる」が気分的な問題なのだということは、頭では理解しているつもりなのだけれど。  視神経を使っているわけではないのに目が疲れたような気分になったり。音は聞いていないはずなのに何となく耳がわんわんする気がしたり。喋ってもいないのに喋り疲れたようなため息が出たり。これは、脳がチップと通信する際に、擬似的に視覚や聴覚と接続するしかないから仕方がない、のかも知れない。ヒトの脳はまだ、生まれついてコンピュータと通信出来るようには出来ていない。  「現実」の相手と話すテキストを考えるためには、ディスプレイとキーボードという「効率の悪い」手段を使う方がいい。スピードダウンがクールダウンも兼ねてくれる。  愛用しているアイデアプロセッサを起動する。ここの(S.T.)絡みで書き溜められたメモは、色んな枝葉が伸びている。ただのテキストやHTMLに書き溜めておいたらどうなっているか、想像するだにうんざりする。元々、ただのメモのようなものも(結局はアウトラインレベルで整理した方が自分が判るので)階層化するクセがついている。こういうテクストのシャッフルみたいなものは、考えてみたらコンピュータ独特の世界かも知れない。  ぼんやりとツリーを眺めて開く。  ──techno-tribal-ML。  このML……メーリングリストが実在していたことはサユリにももう調べがついていた。かと言って、今でこそ溢れているフリーのMLシステムを通じて行われていた訳ではなく、ある大学に勤める青年が、自分の管理するサーバの端っこで、リソースをいわば「無断借用」して運営していたMLだから、そのログは残念ながらオープンな場所にはもう残っていない。主宰者の青年が職場を変えた時に実質解散していて、それきり。参加者が自分のメールソフトの受信トレイに溜め込んでいれば見せてもらえるかも、程度のものだ。  今のサユリには、techno-tribal-MLのメンバーであると今でもはっきり名指せるのはあのsugar──ブレインクラッカーの作者と目されているサトウアキヒロだけだ。噂の中ではtechno-tribal-MLの主宰者がsugar、というのもちらほらあったのだけれど、それは否定材料の方が多い。sugar、というよりサトウアキヒロが失踪してからもMLは管理され続けている。隠れてひっそりではなく、堂々と。  ──brain cracker。  最初に「出回った」のはtechno-tribal-MLの中だと言われている。と言ってももちろんメールに添付されていたわけではなく(当時、無断借用でありリソースのキツいtechno-tribal-MLはファイルの添付を禁止していた)、ダウンロード可能なURLに誘導されてるリンクがあった程度だけれど。  ただ、techno-tribal-MLの当時のメンバーはみんな「肉体持ち」であって、その効果を実際に体感出来たメンバーはいなかったはず。techno-tribal-ML自体が、割とこじんまりした仲間意識の強いMLだった……し、当時はまだあったリアルのクラブで遊ぶ仲間たちの連絡手段という意味合いのMLだったこともあって、そのメンバー自体がどうこうした、という説はあまり考えられない。  この「発明品」に対するsugarの態度(についての噂)は一貫している。必要以上に広めようとしなかったこと。ごく内輪にだけ見せていたこと。それを「外」にバラすことは「裏切り」と捉えられたこと。──にも関わらず、それは流出したこと。  ただ最後の1つは、FTPであれhttpであれ、何処かのサイトスペースに参照される形で置いた瞬間に、既にリスクは始まっているものだ。それをsugarが知らなかったとは思えない。ただのミスだったのか、MLを信じ過ぎたのか、撤去するのを忘れたか、たまたま見つけられた悪意によってバラ撒かれたのか。真相は謎。  どちらにしてもsugarはそれを上回る勢いで無毒化されたニセbrain crackerをバラ撒いた。本当に必要なメールがスパムに埋もれて行くのと同じで。やがて、どれが本物なのか、その境界はあやふやになって……存在そのものが霧散する。  ──そして、《S.T.》……田口翔太。  マキに出会わなければ、彼が実在していたことすら徐々に薄れて行ってしまったのかも知れない。そこにいたはずの人なのに、ひどくリアリティのない存在。  《S.T.》という名の29歳のDJは、その死1つでクラブカルチャーを緩やかな破壊に追い込んでいた。少なくともサユリや、その近辺の人たちにとっては。  多分、世間のその他の人々にとってはひどくどうでもいいことに違いないのだけれど、ある年齢以上の──つまり《S.T.》を知っているということだけれど──人々にとって、彼の死はクラブカルチャーにおける大断層なのだ。決して埋めることの出来ない溝。その後に、どんなDJがどんな空間を作ろうとも、あれは取り戻せない。頭の中の浸透圧をおかしくさせるような……不思議なほど、奇妙な染み込み方をするエモーショナルな音場空間を作り出す人だった。  ふう、とサユリはため息をつく。思い出すと溺れそうになる。  ……バウンスの《S.T.》が、ただの「再現」ではなく「本人」ではないか、と疑う理由はそこにもある。これはサユリのひどく主観的な話なのだけれど。  ブログやBBSで何十と綴られているオンライン版「バウンス」の感想テキストたちを手繰っても、サユリが感じているコレとシンクロする言葉はまだ見つけられない。だから客観的事実、とはとても言えない。  だけれど。  サユリの脳は、そうトレーニングされたせいでもあるけど、コンピュータとの親和性は他の人よりは高い、はずだ。もちろん、完全にそっちに行くことを目指している意志体やその予備軍たちよりは低いのだけれど。  そのサユリの脳は、あの空間を、リアルで《S.T.》が作り出していたあの空間と同じものだと理解している。  単に、憧れていたDJである《S.T.》が再現されたから、そう「思い込んでいる」だけだと解釈したいのに。脳の一部が、どうしてもそう決めつけてしまうことを止められない。  それは。あれが誠という青年による再現だと聞いた後でもやはり変わらないのだ。  バウンスに足を踏み入れるたび、ふわりとあの空気に囲まれる。綺麗だけれど、時に泣いているかのようにウェットで。音をバラして組み立てて技巧を見せつけるのとはまた違う、音を流れとしてパーツにする能力。機械的な音楽であるはずの、電子音のカタマリであるはずの音に、音以上の何かを、心に届く「波」を乗せられるチカラ。  あれこそが《S.T.》なのに。  あの音こそが。  ──それなのに、何故、あの人は、ほんものでは、ないの?  微かに音がする。メール新着。ウィンドウを開いてみて少しだけ驚いた。もうとっくに途切れたと思っていた情報が、こんなタイミングでやって来るなんて。  サユリはしばらく迷った後に、わずかなメッセージを添えてアヤに転送する。必要ならまとめて話してもいい。彼女は、何処まで辿り着いたのだろう。 ※  眠れない夜にアヤの元にやって来たそれは、眠る前の暇潰しにしては少々刺激的過ぎる内容だった。  サユリから「説明が必要なら連絡して」と短いテキスト。後に続くのは引用された英語のメール。さほど難しい単語はない。翻訳システムを通すまでもない。ローマ字で綴られた異質な地名が、余計に判りやすくさせている。  ほとんど反射的に携帯に手が伸びる。  ──sugarは今、鎌倉にいると聞いた。  ──bankの中に。 「……えと、サユリ?」 『来るとは思ってた。早いね。端末の前にいた?』  電話の向こうの親友は落ち着いている。 「うん。ちょっとびっくり。sugarって……失踪したって聞いてたから」 『まあ、失踪なんだと思うよ。今でも。本体が何処にいるのかは判らないから』 「でも……もしbankにいたら」 『そうね。それは……彼自身が、ある意味、この世の中で生きることを放棄した……ってことかも知れない。本人に聞かないと判らないけど』  bank、と横文字で綴られるそれは銀行という意味ではない。それは巨大な人間データベースだ。大雑把に言ってしまえば、それまで紙で作られていた「自分史」が電子化されたもの。  ただし、et-aiの登場以来、自分の人生を文字や写真に書き残すという従来の自分史とはいささか違う使われ方をされている。代表が、自分のその当時に持ち得た記憶を全てデータ化して電子媒体に放り込んでしまうこと。バウンスの「管理人」である岡田知明の父・隆はクラブ経営を始めてからの記憶一切という形で自らをバンクに残して行方をくらませている(それを、息子である知明は「リバースを受けて」=自分の脳のリソースの一部として取り込んで、クラブの管理人となっている)。  人が自分の頭の中身をバンクに預けようとするのは、たいてい、死が近くなってからだ。それは前世紀までの自分史を作る動機も似たようなもののはずだ。自分の人生、とりあえずやりたいことはやったから、ここらでまとめて残しておこう、と。バンクに残る脳のデータも、大半はそういう動機だ。何かを成し遂げたから、死が近づいたから。  岡田隆は、(彼が経営していた方の)バウンスの閉店の後、バンクにデータを残して失踪している。以来見つかっていない。  そしてsugarも……同じだ、というのだろうか。 「……しかし、なんで英語」 『sugarの交流関係って、人数的には狭いけど地域的には広いのよ。海外の友人がぽつぽついるとは聞いていたんだけどねー。クラブ仲間系のツテ辿ってたらイギリスにまで広がっちゃって』 「そうなんだ」 『うん。でもそれだけの価値はあった。私個人的にも興味あるし』  ぽつねんとディスプレイに輝く2行を横目に、アヤは椅子に背中を預けて少し伸びをする。 「それにしても……ガセって可能性は?」 『調べるには、鎌倉行ってバンクこじ開けるしかないでしょうね。一応、つじつまは合ってるけど』 「つじつま?」 『ひとつ、sugarが最後に「隠居」してたのって鎌倉だから。ふたつ、そんなに日本に興味があるわけでもない外国人が、わざわざKamakura(サユリは「カマクゥラ」みたいな、変な英語訛りで発音した)と書いてよこした。Tokyo(トキオゥ)でもOsaka(オ・サーカ)でもなくKamakuraってのがね。変に具体的過ぎる』 「……なるほど。…あれ、ちょっと待って。鎌倉『行って』バンクこじ開ける?」 『そうだよ。だってオンラインされているなら私が見つけていないはずがないもん』 「あ、そうか……」  スタンドアロンか。  バンクにデータを残す目的には、かつての自分史と同じで、誰かに見せたいという顕示欲が含まれていることは明確だ。だから、たいていのバンクはオンラインで参照出来たりする。もちろん、フルオープンで参照出来るのは文章程度のものに限られるけれど。でも、たとえば岡田知明が父からのリバースを受けるために、物理的にそのバンク(のハードウェア)がある街へ出向く必要はない。ある程度のセキュリティの配下に置かれているデータでも、手続きさえすれば全国何処からでもアクセスは可能なのだ。  だから。bankが地名とセットで語られることは、実はあまりないのだ。それに思い至って、アヤはやっと納得する。 「そうか、鎌倉行ってこじ開けないとならないのか」 『そうだね。ハズレって可能性もあるけど』  アヤは長いため息をつく。  sugarがバンクに残ろうとしたとすれば、残そうとしたモノはブレイン・クラッカー絡みである可能性は高い、と思った。でも逆に、無毒化したものをバラ撒いたくらいだから、彼の中であれは黒歴史として永久封印している可能性もない訳ではない。  後者だとしたら、それでもなおバンクに存在するsugarが語るものは、あの頃のクラブカルチャーが持っていた空気感そのものなのかも知れない。  テキスト系の記録でないならば──脳のデータ、であるならば、手続きを経れば他人がそれを「追体験」することも機能として提供されている。  誠が、バウンス開店直前に見せた不思議なトランス状態。  あれを解読するヒントが、もしかしたらsugarにあるのかも知れないと。  アヤは何となくそう思っていた。根拠があるわけではないけれど。 「鎌倉……行こうかな……」 『ワタリはつけられると思うけど。色々と』 「そうなの?」 『うん。もし、sugar本人の理由じゃなくて、外部の理由でスタンドアロンにさせられているのだとすれば、突然行っても恐らく無理だよ? 本当にあるとしても、存在自体否定されるかも』 「そうだね。……お願い出来る?」 『オッケ。何か判ったらメールする』  電話はそこで切れる。  不思議な高揚感はあるけれど、果たしてそれが前進になるのか後退になるのか、今のアヤにはそれも判らなかった。  第一、自分は何を探しているのだろう。  何を知ろうとしているのだろう?  自分とはまるで縁がなかった「クラブカルチャー」の世界の中に……何を、見ようとしているのだろう?
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