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- 15 - アドレスの生死
この5年、マキはそれをしてみようと思いつつも出来ないでいた。それは、たとえば遺族が何かの事故に巻き込まれた人と同じ心境なのだろうと思う。マキは、彼の──angel@et-ai.labの「遺体」を見たくなかったのだ。
アドレスにとっての「遺体」。それは、送信してuser unknownで戻されることだ。
et-ai.labというドメイン自体がまだ「生きて」いるのはマキも知っている。et-aiの技術があってこそ作られている数々のソフトウェア、ハードウェアが、この世の中には流通している。マキが直接コンタクトを取ることがなくても、et-aiの存在は揺るぎない。だからhost unknownには多分ならない。
ただ。user unknownで戻って来なかったとしても、angelというアカウントが果たしてまだ「彼」のものであるかどうかは判らない。あの当時だって、angelが正式に彼個人のものとして作られたアカウントなのか、彼がハックしていただけなのか、それはマキにだってはっきり判っていない。
ただ。
あの頃、マキがこのアドレスに送ったメールは、確実に彼の元に届いていた。あまり対話が成立していたとは言えない関係だったけれど、それでも言葉の端々から、マキが女性であること、働いていること、当時まだ20代であること、などなどは、ちゃんと把握して話してくれている風だったから。
このアドレスに送信してみて、それがuser unknownで戻るのも恐ろしいけど、彼以外の他人に渡ってしまうのもまた、少々厄介だ。密やかな2人の文通を知らない第三者にとっては、スパムと変わらないだろう。自分で取得しているメールアドレスが、たとえわずかでもスバムと判断され、スパムフィルターに引っかかるようなことにはなりたくない……出来れば。
「彼」が、会社のローカルサーバを見に来ているようにangel@et-ai.labも監視してさえいれば、問題ないのだけれど。今のマキはそれを期待出来る立場にはいない。自分の会社のサーバと違って、et-ai.labというアドレスがフィードされるサーバに潜り込むことも出来る訳ではない。
それでも──仄かな希望が消せない。
このまま「生死」不明のままで思い続けるべきか、とにかくもトライして何かしらの結果を得てみるべきか。
悩みは、常にという訳でもないがずっとマキの心に引っかかり続けていた。
あの時、彼は書いていた。「あなたのアドレスが、その時までどうか無事生き延びてくれますように。」
その言葉を信じるならば、多分マキは待つべきなのだ。彼とやり取りしたこのアドレスを捨てないように、他の人に渡してしまわないようにしながら、ずっと。
でも──待ち続けるだけは疲れる。何の保証もないまま、待ち続けるだけは。
仕事を終わらせる。残業は少しだけ。
周りからどんどん人がいなくなって行くのを横目で見ながら雑務を片付ける。週末、という言葉に世間一般が感じるほどにはこの会社は浮かれてはいない。大体が平日5日9時から5時というライフスタイルからは外れた連中が多いのだ。
いつものルーチンでサーバにログオンする。テンポラリを掃除、バックアップ。タイムスケジュールで組まれて自動化されているとはいえ、それなりに動きを見守らないと何処となく不安なのはいつものこと。
隣で、型通りの挨拶を同僚と交わしていた後輩の矢島が、1人になった途端にマキの方へ近づいて来た。気配を感じて振り返る。にこにこと屈託ない笑顔に出迎えられる。
何を言われるのかは予想がつく。最初に「入った」時の約束をまだマキは果たしていないのだから。
「せんぱーい、どうですか、今夜」
「まあ、少しなら構わないよ」
サユリと知り合ってからは、夜、時々IMで会話を交わしたりすることもある。ただ約束しているわけではないし、何か判れば彼女はオフラインでも伝言を残しておいてはくれるのだけれど。
彼が、単なるデータベースではなく本人であるなら、少しくらい休憩を入れてくれたりはしないのだろうか。あの時がたまたま、ずっと詰めっ放しだっただけで。ただの音楽セレクトマシンに過ぎないのなら、ぶっ続けでブースにいるのも仕方ないのかも知れないけれど。
ただその辺りは、クラブという文化自体をよく知らないマキには何とも言えない。まだ生身が当たり前だった頃、普通のDJというのは、トイレに行くくらいであとはこもったままというのが常態だったのかも知れない。
マキが更衣室から荷物を抱えて出て来ると、矢島は廊下で携帯の画面とにらめっこしながら待っていた。
「メール?」
「まあそんなとこです。……先輩、好き嫌いあります?」
「──は?」
寮のサーバ部屋行くのに何の好き嫌いがあるんだろう、とマキが首を傾げると、
「オレはイタリアンの気分なんすよねー、てか溶けたチーズの気分」
「……ちょ、今夜ってそういう意味?」
「いや、腹ごしらえですっ」
「ああ……はいはい」
たとえそうであっても、たかがクラブ仲間とはいえ、女と2人きりで食事というものに緊張感がないらしい。マキは特にこの後輩に思うところがあるわけでもないので、ただ内心だけで微かに苦笑し、2人で外へ向かう。
考えてみれば、マキは職場の連中と何処かで外食する機会はほとんどない。元々この会社自体が、同じ職場であるが故の仲間意識といったものに無頓着なせいもある。とはいえ、たいていのIT系企業とはそんなものだろう。開発系・研究系の職種はただでさえ時間意識というものが希薄な連中ばかりだし、営業系は客都合で時間概念を殺さないと生きて行けない業界なのだ。ネットワークは、24時間動きっぱなしなのだから。人付き合いが悪い、とかいう個人的な理由ではなく、みんなが一斉に似たような時刻に仕事を終えるという組織ではない、という理由。
マキを含めた総務系・経理系はその中では例外だ。少なくとも深夜に仕事をする羽目になったことは今まではない。
元来マキは外食自体をあまりしない。昼食のためにある程度の現金は持ってはいたけれど、突然の出費に耐えられるほど財布は重くはない。矢島に断ってコンビニのATMに寄り道した後、なんとなく話しながら歩いているうちに小さな店に辿り着いていた。ショーケースをちらっと覗いて安心する。高い店ではなさそうだ。
「……へえ、矢島ってこういう店とか知ってるんだー」
にやにや笑いを頬に貼りつけてからかうと、
「残念ながらそんなんじゃないんすよねー」至って落ち着いた返事が帰って来た。「親戚がやってる店なんすよ」
「なるほど」
からかうネタを1つ逃したのは残念かも、などと、らしくもないことを考えてマキは少しだけ心で笑う。
小さなその店は、長屋のように奥に細長く、4人掛けのテーブルが3つ並んでいた。入って右手から伸びるカウンター席、その奥が厨房のようだった。愛想のいい声に出迎えられて、奥のテーブル席を占有する。客はまばらだった。
オレンジの柔らかな光の中でオーダーする。矢島はメニューも見ずにピザをオーダーしたらしい。ウェイターをしていた青年とは気安い仲のようだった。
マキはパスタをオーダーする。
「……でさ、あの」
「なんすか?」
「物凄く当たり前みたいに来ちゃったけど……なんていうか、こういうの普通なの?」
「はい?」
「いや、女性と2人きりでお食事っての」
「……」
矢島はほんの少しだけ首を傾げていた。その表情に何も裏がなさそうなのを確認して、
「……いや、うん、納得」
意識なし。それならこっちも意識する必要なし。クラブ仲間モードってことなんだな、あくまで。そう解釈することにする。
「……ひょっとして俺、なんかまずいことしてます?」
「いやいやいや、してないしてない」
軽く手を振って見せる。まあ、マキの方だってドキドキしながらデェトに誘われるような珠ではないのは自認しているのだけれど。ここまで意識されないのもまた、普通の女の子だとちょっとプライド傷つくかもなあ、などとふと考える。
「ところで、矢島」
「はい」
降って沸いたデェトなら、それなりに活用の仕方というものもないわけではないし。
「腹ごしらえついでに、色々聞いてもいい?《S.T.》のこと」
※
マキにとっては2度目のバウンス。サーバ部屋から薄暗いクラブへと足を踏み入れる違和感は、最初の時よりは軽減した。渡されるチケットの意味ももう判る。
相変わらずボックスに詰めっぱなしの《S.T.》の音だけを聞きながら、カウンターでぼんやりとフロアに目を投げ遣る。
──パスタと一緒に入って来た《S.T.》の姿は、あの時にサユリから聞いたものとほぼ同じだった。情報として新しいものは何もなかったが、それでもマキにとって収穫はあった。つまり、小百合が語っていた《S.T.》の姿が、決して、小百合という個人から見た歪曲した姿なのではなく、ファン誰もがそう捉えていたという普遍的な姿であったということだ。
マキにとっては田口翔太という青年の第三人格みたいに見えて来る。会社での青年、lucifer@ei-ai.labとしてのテクスト、そしてDJ。ただ、彼の『実体』が既に亡い以上、これからの田口翔太は《S.T.》としてだけここに生きることになるのだろう。ずっと。
たとえば、とマキは考える。
音楽には力がある。人を感動させたり、煽ったりする力が。ただ、それほど深いマニアではないマキにとって、音楽が心を動かすという現象は、言葉──歌詞の力を借りるものであることが多かった。
けれど、クラブミュージックは違う。
聴き継がれているクラシック音楽のように、美しい旋律があるわけでもない。あるのはただ規則的に──本当に規則的に、電子的に、ひたすら続いているリズムだけ。少なくともマキにはそうとしか聞こえない。それでも、ファンだったマキや矢島のような人達にとってはそれが、他とは比べることの出来ない唯一無二の何かなのだ。
そう、ましてやDJは、人が作った作品をテクニックを使ってつないでいるだけで、マキのような素人にとってそれは「創造的」ですらないように思える。作られた音楽にはまだオリジナリティと呼べる何かはあるだろう。でも、それをつなげているだけのDJのオリジナリティは何処にあるのかは判らない。
けれど。小百合は言う。「バウンスは彼を再現した時点でもう成功を約束されてたようなもの」だと。矢島は言う。彼は伝説だと。
──誰がやっても同じになるわけではないのだとしたら、DJの作り出すオリジナリティとは何なんだろう。どうして、他の誰でもなく彼でなければならないのだろう。
フロアで飄々と楽しんでいるらしい矢島の姿が人混みの中にちらちら見える。マキは時折、キャットウォークの端にあったボックスを振り仰ぎつつ、ただ音の洪水の中でグラスを手にぼんやりしていた。
そもそも聴き比べたことがないマキには、《S.T.》の魅力は判らないだけなんだろうか。
《S.T.》の音に、素養のない人間をも感じさせる何かがあるのだとしたら、マキはこんな風ではいられないはず。
──結局そこに戻るのか。
マキは溜め息をつく。そう。問題は、『何故なのか?』、なのだ。
カウンターで初心者の話相手になってくれる小百合のような存在は今日はいないらしい。
浴びてみたら何かが判るのかも知れない。
そう決断して、初めてのフロアに足を踏み入れた。
フロアとカウンターのエリアを区切っていた壁だと思っていたものが、実はスピーカーシステムだったことは、中に入ってやっと理解した。3段に積まれた巨大スピーカーのコアが、バスドラムの音に合わせてブンブンと震えていた。
凄いなあ、とは思っても、オンラインのクラブであるバウンスは、音は実際にはスピーカーから出て鼓膜に入るわけではないので、装飾以上の意味はないはずなのだけれど、それでも聞こえて来る音場はそれらしくチューニングされている。
フロア──と言うより、巨大スピーカーの壁に囲まれたスペースは、お互いに肩が触れることもなく、恐らく空いている部類なんだろうとマキには見えた。いずれにしても、人々は互いに干渉はしない雰囲気。誰もが孤立して自分の世界に閉じこもり、場を共有する、という雰囲気よりは、音を浴びているための最適のポジションとしてここにいる、という感じ。
お腹に響く低音。音量は自分ではコントロール出来ないけれど、周りにいる誰もが、コントロールパネル貸して下さいと言える雰囲気ではない。意図的に意識を散らして何とか耐える。
スピーカーから遠ざかろうと思うとフロアのド真ん中になる。落ち着かないな、とは思っても、周りに合わせてふらふらと体を揺らしてみる。
ただでさえ酸素の足りない場所で(そう演出されているだけだろうが)、体を動かすとさらに息苦しくはなる。頭がぼんやりとして来る。そこに、規則的に突き上げて来るリズム。日常では確かに体験出来ない感覚ではある。けれど。
(──これは……)
苦しさが過剰になると、人は自分の精神を守るために脳内物質を調整して快楽を引き起こすことがある、なんて説がある。マラソンなんかで疲れが限界を超えると、走っている感覚がなくなってふわふわ空を飛んでいるような錯覚に陥るのはマキも小学校の頃に体験した。このクラブの体感はあの時と同じなのかも知れないと思う。疲労や苦しさが過剰になった時に、ヒトが防御反応として出したはずの快が、誤解されているだけ。
(だとしたら、ひどく浅い娯楽ではあるのよね)
そして……DJというものの個性もまた、必要ないのではないだろうか。
目の置き場所に困るので、瞼を閉じて音に集中しようとしてみる。
そうすることで何かが判らないかな、と思った途端に、流れるようなピアノと伸びやかなシンセの音が耳に飛び込んで来た。
あの時もこの曲を聴いたな、とマキはぼんやり思い出す。小百合が「盛り上げにかかった」と言っていた曲。
自分の足元しか見つめていなかった客たちの視線がふわあっと動いたのが判った。マキは驚いて目を開く。
(……なに、これ)
その曲がフロアを満たして、力強いリズムを刻み始めると、マキの体の奥で、何かがじんわりと溶け出すような、不思議な感触が広がる。
それと同時に、緩やかに、本当に緩やかに鼓動が大きくなる。
自分の心臓の鼓動なんて、激しい運動をした時や恋愛をした時くらいしか意識なんて普通は出来ない。動いていることさえも。でも、その時は、じわっと溶け流れた何かがそうする薬剤であったかのように、とくんとくんと脈音が体を揺らしているのが判った。
一定のリズム。抱かれるようにマキの中に広がるリズム。
音楽が弾けるように大きくなる。煽るように奏でられる電子音が、その1つ1つが、マキの体の芯に滑り込んで、何かを促すように、揺さぶる。
揺さぶられる。
変だ、と頭の何処かでマキは思う。
けれど、その理性が自分の体を動かすまでに至れない。
優しく自分をかき回してくれる、そのリズムに身を委ねている方が、……気持ちが良かった。
自然と顎が動く。目線が吸い寄せられる。
一段高い所にいる、その音の落とし主を。
──これが?
マキは視界に入れただけのそこにいる彼を思い出した。
──この感覚が欲しくて「信者」が集まるの?
体の方の限界が先に来て、自分でも意識しないうちにカウンターに戻って来ていた。
フロアから遮断されたそこでは、あのおかしな感覚は襲って来ない。音に包まれて煽られて、揺さぶられて動かされることの、快感。
原因は音なんだろう。それはこれではっきりしたけれど、でも、何故この音楽にあんな作用が存在するのか、理屈ではまるで判らない。Fakeから受け取ってしまったディスクであの曲を聴いた時には、あんな感覚はなかった──曲自体の特性では、ないはずだ。
と言うより。
「……音以外の力が、ある気がする……」
それは、インターフェイステクノロジー社にいるからこそ感じたことかも知れなかった。これは、このクラブには、音を流して客を踊らせるという以上の仕掛けがあるのかも知れない。それがもし、クラブによるものではなく、DJによるものだとしたら、バウンスが、架空の何者かではなく《S.T.》を再現させることに力点を置いた理由がはっきりする。
まだ仮説に過ぎない。それでも。
これは《S.T.》の──lucifer@ei-ai.labの、力、なのだろうか。
ひらめくようにマキの脳裏にテクストが甦る。
『ぼくは何かを見つけたと思う。
それがどう実装されるのかなんて今は想像もつかないけど。
たぶんぼくは見つけたと思う。』
「……まさか……」
マキの手の中に、ひんやりした汗が浮かんだ----ような、気がした。
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