- 16 - bank I

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- 16 - bank I

『ワタリはつけられたよ』  小百合からのメールは、そんなタイトルがついていた。  アナログな手段だけれど、こういう時はなんだかんだで電話が一番確実なんだね、などとふざけたように書いている。そこに書かれた携帯電話とIP電話の番号。 『どっちかはつながるはずだから、里見さんという人を訪ねてみて』  添付ファイルはPDFだった。開いて見ると、出て来たのは、昔懐かしいFAXで送られたかのようなギザギザと粗いモノクロの地図。  本文を見直して納得する。本当にFAXで取り寄せたらしい。何処かのウェブサイトで公開されていれば、リンクを教えればいいのだけれど、「ここ」は一般には公開されていない場所だから。添えられた言葉に不思議な気持ちがする。  bankが……現代の「自分史」が、公開を望まない場所にひっそりと置かれることがある、という不思議。  アヤは、携帯電話と各種設定を確認済のパームトップコンピュータをデイパックに放り込み、ある平日に鎌倉に向けて出発した。細かい乗り換えもあり、距離的には大したことがなくても片道1時間半ばかりの電車の旅。  そこからは地図を頼りに歩くことになる。  辿り着いたのはあるオフィスビルの一角。どこかのIT企業のデータセンター、といった感じの部屋だった。システム・ビー・鎌倉ブランチ、と書かれた小さなプラスティックの板が貼られたドアを開けて入る。  「里見」は落ち着いた物腰の男だった。まるで堅物の銀行員のような雰囲気でアヤを出迎える。「保管」されている「部屋」までの道すがら、聞きたいことがあれば、という言葉に甘えて少しだけ話をする。  何故、公開を望まない「バンク」データなんてものが存在するのか。それでもこうしてアクセス手段が提供されているのは何故なのか。 「……よく聞かれるのですがね」里見は本当に慣れた様子で淡々と応える。「一般に公開するために残すのではななく、特定の相手に向けて残すケースがほとんどですよ。一般非公開データセンターは鎌倉以外にもブランチを持っています。北は網走とか……南端は枕崎だったと思います。だいたい都道府県に1つ以上はあるはずですよ」 「センターの存在すら公になっていない……んですよね?」 「いえ、公にはなってますよ。ただ、ネットには載らないというだけで。紙の広報には載りますし電話やFAXなら窓口でも教えてくれます。ネットで検索が常になっている今どきだと、検索して出て来ないものはイコール存在しないと思われがちなようですが……。まあ、一般非公開データセンターに預けるような方は、それをメリットと見做しているからこそ、預けて下さるのですが」 「一般非公開の物件、ということは、何らかのアクセスキーを持たないと普通は見られない、ということですね?」 「はい」  里見はあるドアの前で指をパネルに滑らせる。指紋認証キー。カチャリと錠の外れる音。 「彼の──佐藤暁宏さんのバンクの場合、彼が用意した『アクセスキー』は、」  重たいドアがゆっくりと開く。HDDの動く微かな音が、何十台分も一斉にドアの中から流れ出す。 「『知っていること』でした。──佐藤暁宏と『sugar』というDJが同一人物であることを。クラブという世界のことは私も聞きかじっている程度ですが、彼の『本名』を知る人だけにアクセス権利を与えたかったのかな、と」 「なるほど」  sugarの本名は、アヤも初耳だ。だが、こうして入れて貰えているということは、小百合は知っていたのだろう。小百合というより、あの時代にクラブというムーヴメントを浴びていた人であれば知っていたことなのかも知れない。  そのアクセスキーは、広いのか狭いのか、実際にクラブカルチャーに触れていたわけではないアヤには実感が沸かないが。  その広大に見えるマシンルームの更に奥に、小さく区切られたスペースがあった。出入口を1つ残して、天井まで届くパーティションで密閉されている部屋。 「この部屋がインターフェイスです。彼の場合は擬似意志体的なアウトプットも出来るように作り込んでいらしたので『ご本人と話す』のが一番いいかと思います」 「……はい」  ドアを開けるとそこには安楽椅子。視覚と聴覚をデジタルの世界につなぐインターフェイス。会社にある"MOTHER"と基本的には同じだ。  用が済んだら、ドアを出て横のボタンを押すとまた里見が迎えに来るそうだ。  人の『バンク』にこんな形でアクセスしようとするのはもちろん初めての試みだった。残されているものしか出て来ないから、挙動がおかしくなったらそれ以上詮索しても何も出て来ませんよ。里見はそう言ってから、ついでのようにつけ加えた。 「そうそう、あんまり刺激しない方がいいみたいです。事情は知りませんが、この『バンク』を引き出す人達はみんながみんな彼を怒らせるか泣かせるかしに来てるみたいなんでねえ。とうとう特別区域に入ることになっちゃって」 「特別区域??」 「ああ、この部屋の中からは知らんでしょう。ディスクアレイの話ですよ。暴走されても、平気なように」  ドアが閉じるとそこは闇と静寂。開店前のクラブといった風情。  グレイの床にグレイの壁、配管剥き出しの天井。くすんだシルバーメタリックのレコードバッグ、シンセサイザーが1台、そして壁にうずくまるように自分の膝を抱えた1人の男。  彼に会いに来た人は『怒らせるか泣かせるかしに来てる』と里見は言っていた。親しい友人が懐かしんで会いに来るという類の再会ではなかったのかも知れない。ブレイン・クラッカーの話だろうか? 無毒化をしようとしたくらいなのだから、本物に触れて欲しくはなかったのかも知れない。 「何しに来たの」  男が先に口を開いた。こもった声。 「……話をしに……」 「飽きたな……」 「あ、そりゃ、そうなんだろうけど……」  沈黙。 「いや、でも……その……」  動きすらしない。 「……何で『バンク』に残ろうと思ったの」  意外な言葉に反応した。 「そんなこと聞いて来るやつ初めてだよ」 「いや、だって、あなたみたいに伝説がくっついちゃった人だと、『バンク』に残っちゃってもこうなるって予想出来たんじゃないかと思って。判りもしない人が沢山訪ねて来て、あることないこと喋ってくようなこと──」 「何が『あること』で何が『ないこと』なの」  さっきまで沈んでいた顔が上がる。少しの光が眼球の上を走ったような気がした。 「……っと……その……、何ていうか……そんなの、言葉のアヤなんです、別にその……」 「そんなことなさそうに見える」 「な、」  判らなくなる。このわからなさは《S.T.》によく似ている。そりゃ『バンク』は、ホログラムとは違って、彼自身が無事だった頃に自分で再編集した自分の記憶だから、ちょっとアイロニックな会話に至りそうなことは予想していたけど──小百合が語る所によれば、「sugar」はそんな人だったから──、でも。  何だか違うとアヤは直感する。少ししかない光が目の上を走ったと思ったのは目の錯覚で、それは一筋の光となって静かな加速を始める。瞳から、頬へ、そして床へ。  泣かせてしまった── 「大丈夫、いつも『暴走』する時はこんなんじゃないよ」  毒が抜けたように穏やかに。 「ごめんなさ……」 「いいって。謝るのはこっち。見えちゃったんだよ」 「見え……?」 「この部屋にいる時はあなたもデータパケットなわけだから」  アヤの一部をハックしてる、ということだ。しかしあまり腹が立たない。それで見つけたものが彼を落ち着かせたのだとしたら。 「──随分遠くから僕に辿り着いたわけだね。君は『関係者』じゃない」 「はい、そうです」 「……黒歴史、か。……僕がそれを『嫌っていた』と言い当てられるのは、君みたいな『遠い』人だけなのかも知れないね。なるほど、もうどうしようもないけど、アクセスキーは不適切だったのかな」  彼は立ち上がる。それを合図のように静かに流れ出す音楽。細かなビートと抜けるような浮遊感。リズムは煽る道具というより鼓動を支える静かな動き。遠くへ。高みへ。連れて行かれるような。 「『バンク』でいるのも悪いことばかりじゃないね……」 「えっ……」 「僕の意志じゃないよ、この『バンク』は。尤も、僕の『バンク』がこんなサブプロセスを抱えてることなんてアイツは知らなかったんだろうけど」  サブプロセス──? 「そんなことほんとにあるんだ」 「あるみたいだね。現物を目にしているんだから。まあいわば」もう笑顔。「『バンク』におけるイースターエッグかな。って、僕の場合は──」  音は高まり、 「こっちこそが僕の意志、なんだけど」 「僕は」  笑顔は穏やかで遠い。 「僕は何を目指していたんだろうね」  彼のサブプロセスが呼び出した追憶は甘く、緩やかにアヤの意識にも侵蝕して来る。 「あのプログラムが出来た時、僕はそれを破り捨てるべきだった、今でもそう思ってる。例え、それがどんなに信じていた『仲間』であろうと、いかに冗談に紛れていようと、僕以外の人間が触れてはいけなかったんだ」  気心の知れた仲間たちは看板もないクラブにふらりと集まり、彼も気負いなくディスクを選びながら。煽るでもなく落とすでもなく、ただ彼らの心のマトリクスにパーツを埋めるように音は流れて、 「……誰かが触れた?」 「そう、恐らく」 「そして改ざんした」 「改ざん、という言い方は僕はしないよ……あれの凶悪さは元からだから」  自虐の笑みは崩れて後悔へ変わる。 「僕の誤算はet-aiの存在だけ。"セット"を、ビット化してあそこまでコントロール出来るようになれるなんて思わなかった」  データ、プログラム、そして"セッティング"。ブレインクラッカーが未曾有のドラッグになるためにはet-aiというトリガーも必要だった──。 「あれは」  唇が歪み、 「初期et-aiのやっていることは、今ほどこなれてもいないし商売として成立もしていなかった彼らのやっていたことは、古い言い方を借りれば『洗脳』という言葉に近いと僕は思う。彼らが意志体で実験していたことは僕から言わせれば動物実験、いやそれ以下だ。ただ救いは彼らが追求していたのが主に快楽だったこと──苦しんだ人は、いなかったはず。例え破滅しても……"死ん"でも、苦しみや痛みはなかったはずだから」 「……」 「──リアルでは捨てられなくても、彼らは体を捨てようとした。捨てようとしたからこそ、ブレインクラッカーは目をつけられたとも言えるんだけどね。あの当時では、彼らにとって、唯一効き目のあるドラッグだったわけだから。例えA10を直接叩くものだって、神経回路という肉体を経由するものじゃあ、彼らは、"感じ"られないから」 「……"感じ"るために、利用した?」 「……恐らくね。人間は、意識のビット化と同時に、たくさんの、主に原始的な方のだけど、快楽を失ってしまったから。食べ物がおいしいという快楽、排泄してすっきりするという快楽、お風呂で温まるとか、水を浴びて気持ちいいとか……ね。ビット化と同時に快楽はスイッチ化されて、それを押すための一番カンタンなライブラリの原型として、たまたまブレインクラッカーが利用された。……僕は、そんな風に思ってる」 「……うん」  しばらく、静かに流れる音だけが満ちる。リズムがあるのに、それでいてひどく「静寂」を感じさせる音楽。 「僕自身は僕がこうなることを望んでいたわけじゃない。でも、こうなることを何処かで予感して準備はしてた」 「こうなるって……バンクに残ること、ね?」 「そう。……あのさ、聞かせてもらってもいい? 何故、そんなに『遠い』君がわざわざこんな所まで来ることになったのか」 「『ここ』が何処だか判るの?」 「多分ね。僕をこうしようとするようなヤツらなら、他に場所は思いつかなかったと思うよ。僕は最初から最後までずっと、鎌倉にしかいたことがなかったからね──」  ──それから。  何をどう話したのか、アヤは全てを覚えてはいなかった。  元々、sugarを訪ねようとしたその動機だってひどく曖昧だったのだ。自分が何を知るために彼に会いたいと思ったのか、それすらも漠然としている。  ただ、──ひどく募る不安はある。もやもやとした何か。誠が作り出したバウンスの空間。かつての《S.T.》の「症例」と岡田の『失踪』。つなげる証拠など何処にもありはしなくても、自分がそれを──クラブカルチャーというものの空気を、知らないがために、見逃していることがたくさんありそうな気がして。  sugarはこの鎌倉ブランチから外には出て行けない。ネットで起こっていることは何も知らない。バウンスの再現や《S.T.》の復活は、彼に会いに来る人々の口から何となく聞いてはいたようだけど。  sugarは、アヤの抱えたぼんやりした疑問には口を挟まなかった。恐らく、アヤを「読んで」いるんだろうな、とは、アヤも思っていた。アヤが想起するそのイメージが、言葉を介さなくても伝わるかも知れない、そんな、意識レベルの共有が可能なのかどうかが判らないけれど、それはそれでいいと思っていた。  ……アヤの言葉が尽きる。sugarは床に座り込んだままぼんやりと天井を見上げていた。 「……中毒性、か」  ぽつんと呟いた言葉に、アヤは少し首を傾げてから、ようやく思い出す。 「初めてログオンした時のこと?」 「……確かに、なんていうか、……ヘンな感じはするね。ブレインクラッカーそのものではないけど、この感触は、一部、ライブラリを引用されてるかも」 「バウンスに?」  内心、少し青ざめる。「商品」としてリリースしたものの中に「ドラッグ」の成分が混じっていたなんてことになったら、PL法の問題になりかねない。 「……いや。君たちの作ったクラブの構造の話じゃないよ」  sugarは、それからほんの少しの間、アヤの方を見つめていた。 「……僕にも全部が判っている訳じゃないけど」 「うん」  その瞳が逸れた途端、視線の先にふわりと何かが現れる。バウンスの中にも装置としては存在する機器たち。スピードを自在に変えられるDJ仕様のアナログレコードプレイヤーとミキサー。 「ブレインクラッカーのトリガーも音で、そして……そのクラブで起きていることのトリガーもまた、音──なのかな」 「……え」 「ただ、クラブだから、音はあるのが当たり前だから、逆に気づけない──」 「でも、あなたは」 「行ったことはないよ。でも君の中に残る『音』は聞ける」 「……」  これもまたネットワーク。瞬時にマスに公開されるネットの情報とはまた別の。個人から個人に伝わって行く情報。かつては、そんな情報だって存在したはずだけけれど、今時は、こうやってネットワークから隔離されていないと見えないのかも知れない。  アヤには判らない機器の前で、彼は何かを指先でいじっていた。周りに流れる音がそれに応じて変化しているのは理解しているけれど、実際に彼が『何』をしているのかまでは、アヤには判らなかった。 「ちょっと思いついたことがあるんだけど」 「何?」 「……トラップを、仕掛けてみるつもりはない?」  澄んだ高音が流れていた空間に、遠くから忍び込むような低音が混じる。アヤの中にゆっくりと染み込んで来る。 「何の……ために?」 「気になるんだ」  sugarの手の中にはいつの間にか1枚のレコードがあった。溝を確かめるように、眺めて、くるりと裏返す。 「……その、……《S.T.》が『誰』なのか、ということが、ね。少なくとも、あの空間に含まれている何かの引用元がブレインクラッカーだとしたら、君の同僚──マコトという青年よりは、田口の方が『近く』にいたことは間違いないよ。つまり、僕にも、君の友人の抱いた不審が理解出来るってこと」  田口、という名前が一瞬誰ともつながらず、脳の中で検索するのに少し手間取った。が、友人の抱いた不審、という言葉で、カフェで話したことが頭に甦った。  そう、《S.T.》だけが知っていて、誠が知らないはずのこと。それを、あの「創られた」《S.T.》が知っていたこと。 「……どうすれば、いいんですか」  彼はここから出られない以上、アームチェア・ディテクティブになるしかない。動くのはアヤ。それが何かを知る手がかりになるのかどうかすら、まだ判らないけれど。 「少し時間をくれないか。また、ここに来てもらえるなら、だけど」 「構わない。どのくらいの期間を置けばいいの?」
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