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- 17 - 状況証拠 I
「うーん、それは面白いねえ」
小百合は、思わず口に出すと同時にIMのウィンドウに打ち込む。
常にディスプレイに出しっ放しにしてあるインターネットラジオを数度クリックして、お気に入りのラジオ局に合わせる。激しく重いビートの上に、ゆったりと流れる弦の音。既に過ぎたブームのはずのハウスミュージック。
『面白いの??』
マキから戻って来たメッセージは何となく怪訝そうに見えた。
「うん。正直、あのクラブについては私も作者じゃないから仕組みは知らないんだけど、あの感覚をデータで再現出来てるってことは面白いと思うよ」
『あの感覚……』
何かを思い出したようにIMのメッセージがそこで止まる。
クラブという場所が、あの時代に「何を」作ったのか。サブカルチャー論を振りかざすつもりはないけれど、小百合は時々考えることがある。
海外では常にドラッグカルチャーとくっついていたクラブカルチャーは、日本ではあまりドラッグと仲良しではなかった。もちろん、仲が悪かった訳ではなく、それなりの「親和性」を保っていたけれど、欧米に比べるとさほど密接ではなくて、クラブに来ていた人のほとんどがドラッグとは無縁で「楽しんで」いたと思う。
音それ自体がドラッグだったから。
小百合にとってはそうなのだけれど、この感覚を共有出来る相手はそう多くはない、と思う。
それに、と小百合は思い出す。
ドラッグと呼べるまでの音場空間を作り出せるDJだって限られていた。
客のそれぞれが色んな周波数の受信機を持っていて、それにぴったり「来る」空間を作るDJに会うと「ハマる」。そんな「ハマる」DJに出会うことが、イコール、クラブという場と出会うことだった。──そんな風にも言えるかも知れない。
『害があるものじゃないっていうのは分かってるつもりなんだけど、でもなんか不思議な感じ』
「うん、そうかもね」
人間の脳をシミュレートするライブラリ、か。
脳を騙ることはいずれ肉体を騙ることになるのかも知れない。
……にしても、レセプタがなかったはずの(多分)マキのような人たちも「感じ」られるのだろうか、あの空間を。既にレセプタがあるという自覚のある小百合にとっては、それはリアルと変わらない感触でしかないので、その怖さはよく判らない。
『科学的にそうなるように出来ている、んだよね、多分』
「科学的に?」
『そう。誰でもああなるように』
それを科学と呼んでいいのかどうかは謎だけれど、
「まあ、あくまでシミュレータだけどね」
そう。実際の所は、それが本当に「気持ちいい」ものではない。
実際の肉体がそう思っている時の信号の流れを、コピーされた脳が感じているかのように騙っているだけ。
片手間にネットの海を泳ぎながら「話」をしていた小百合の目に、ぽんっとウィンドウがポップアップする。diff(メールチェック)からの知らせ。
何気なく開く。アヤからのメッセージ。
sugarには、無事に会えたみたいだ。
「ちょっとごめん、電話入ったみたい」
小百合がそう打つと、自分もそろそろ落ちるから、と言い残してマキも接続が切れる。付き合わせちゃったかな、と少しだけ反省する。
アヤの携帯番号に向けてIP電話で発信すると、すぐに応答があった。
「お帰りー」
『ただいまぁ』
「どうだった、sugarは」
『……本名、私が知っちゃって良かったのかなあ』
「あらら、喋っちゃったの? 里見さん」
『うん』
くすくすと笑う。ただ、実際の所、sugarはずっと昔はNetNewsに出没していたこともあり、当時は本名も晒していたから、さほど「秘密」ではないのだけれど。クラブ関係者でなければ逆に「sugar」の呼称の方が知らないはずだ。
「それで? 何か報告があったりする?」
『うーん……報告と言うかなんというか……』
戸惑いながらアヤが話し出した体験談は、小百合にも予想がつかなかったことが色々と含まれていた。
一番驚いたのは──というより、そんな可能性を考えてみたこともなかった──彼のbankが彼本人によって残されたものではなかったということ。その中に『彼』本人がいたこと自体は、何となく理解出来るような気がする。彼は一早くet-aiのライブラリに目をつけていたし、だからこそブレインクラッカーが生まれていたのだから、この「新技術」を利用して何らかのトラップが自分をターゲットに発動した時、自身に制御権を取り戻す何かを埋め込むくらいはやるだろうとも思えるし。それでも、bank自体が、いわば「偽物」であるなんてことは考えたこともなかった。
それでも、少なくとも海外のsugarの知り合いの間には、当の本人の居所よりも先にカマクラのbankという所在の方が知れ渡っている。
不可解ではある……けれども、彼本人がそうしたのかも知れない、とも思える。
何のためにだろう? 隠れるために?
だとしたら「本人」は何処に「隠れて」いるんだろう?
sugarもまた、クラブという文化に触れた人々にとっては、《S.T.》とは別のカラーではあるけれど伝説のDJだ。深くはあれど基本的には高揚感(アッパー系)が《S.T.》の本分。別の単純な言い方をすれば「クラブとは盛り上げるもの」。sugarの本分はダウナー系だった。気の合う仲間とまったり過ごす空間構築の部品としての音楽。リズムはあるけれど、たゆたうような、流れるような。もちろん踊ることも出来るけれど、瞑想に入ってしまってもいい、そんなカラー。彼が作ったブレインクラッカーの「触媒」が完全アッパー系だったのはちょっとした事件だったくらいに。
「……」
ふと小百合の唇が開きかける。自分が思い出して言いかけたこととリンクするアヤの言葉。
『ライブラリが引用されてるかも知れないって話が出たの』
やっぱり。
声に出したつもりはなかったのに、アヤはその単語を掬い上げる。
『……小百合もそう感じる?』
「作った人間じゃないから判らないけど……」
誰でもそう感じるものなの? というマキの言葉がフラッシュバックする。
──どう作ろうと自由だ。ブレインクラッカーは、危険視されてはいたが基本のコードはかつて公開されていた。誰かが亜種を作ることは可能で、実際に亜種も出たし、無毒化された亜種を本人がバラまきさえもしている。それを引用したことそれ自体は法律的は何も問題はない。
けれど。
無毒化される前のオリジナルコードでそれがなされているとしたら、クラブ自体が「危険物」判断されるおそれは確かにある。とはいえ、じゃあ本当の「オリジナルコード」を、バウンスの作者である誠が手に入れることは可能だったのかと言えば、小百合が知る限りの情報ではNoのはずだ。誠はクラブの客ではあってもtribal-MLの会員ではなかったはず。小百合自身もそうであるように。
「誠さんに聞かないの?」
『最近連絡取り辛いのよ、2人分働いてるから』
自分と岡田の分だろう。言外の意味に頷く。
「岡田くん、まだ戻ってないんだ」
『……うん』
本当はそっちについても情報が欲しいんだけどね、とアヤはぽつんと呟いた。経路の辿れないアカウントのロストだから、セキュリティ上、サイバーオンライン側のアカウント関連の調査が優先されているのだろう。処置としては妥当な話。所詮、アヤたちは開発のために契約されただけ。
「アヤ」
『ん?』
「とりあえず、ブレインクラッカー周りの情報、渡すだけ渡す? もしライブラリの引用があったんだとしたら、まだこの事件には裏がありそうな気がしてならないの」
そう、それは、マキと小百合の間で共有され続けて来た疑問と重なってしまう。
──何故、作者の誠が知っているのか。あれが《S.T.》本人なら説明がついてしまうこと。ブレインクラッカーのライブラリもその1つだ。《S.T.》はtribal-MLにいた。そして、「IT社の田口翔太」なら、それを引用出来るだけの環境も、技術力もあったはず。
知っていてもおかしくないのだ。ブレインクラッカーのコード自体も。
状況証拠だけが積み重なって行くこの状況は、何となく不気味だ。何か不安なのか、その正体も判らないからこそますます。
※
アヤは受け取った膨大な資料を仕事の片手間にぼんやりとめくっていた。実際は物理的に「めくる」わけではないが。
今は既に残っていないサイトの残骸、NetNewsの切れ端。音が触媒になって発動するというブレインクラッカーの仕組み自体は、確かにネット上のバーチャルクラブで真価を発揮するだろう。所詮バーチャルで「実害」が伴わなければコンテンツホルダも否定はしない。実害がない程度の「中毒性」があるならばむしろ歓迎されるべきコンテンツのはずで。
ただ、誠が意図的に「それ」を組み込んだのかどうか、と聞かれると、YesでもNoでも自信がない。仕様は2人で作り上げた。初期の実装は自分も参加した。けれど、後半の細かい所は殆ど彼が組んだ。特に最後の数日間で組み込まれた膨大なライブラリは、まだ全てを追えてはいない。
誠にメールを投げておく。サイバーオンラインは実質、岡田の後任者を見つけなかった。問題のあぶり出しを兼ねて開発者を管理者として投入しているようなものだ。
──ただ、投げても投げても返信は一向に戻っては来ないのだけれども。
アヤは、まだ何処かバーチャルな世界自身に没入し切れていない部分があるのかも知れない。実際に体を動かして声を聞く方が話が早いと思い始めている。
どうすれば直接会えるのだろう? あの事務所に「出勤」することはあるのだろうか?
思い悩むよりも動いてみようかな。アヤは口の中で呟いてから携帯を開き、事務所の守衛室の番号にかける。
常に誰かは詰めている守衛の方々は既に顔見知りだ。先日の「岡田」の件で細々と連絡を取り合ったりもしていた。話は、すぐに通じる。
誠は週に3度は顔を出しているという返事が返って来た。アカウントロストというクリティカルな案件が発生している以上、そのぐらい頻繁に通わされるのはおかしなことではないし、それを、かつての仲間であるアヤが知りたがることにも疑いは持たれなかった。
連絡を取りたがっていることを、守衛さんにも伝言することにした。
……これでも連絡を寄越さないとしたら、別の可能性を考えなければならなくなる。アヤは、心の片隅に浮かんだ疑惑めいた影を、ふるふると頭を振って追い払った。
──それから数日で、誠から電話がかかって来た。やっぱり何だかんだ言って、リアルの対人コミュニケーションは強いなあ、などとアヤは1人で苦笑する。
微妙に疲れているらしい電話の声に恐縮し、「私に手伝えることは言ってよ?」と心配しつつ、対面で話したいことがあるからと切り出す。仕事をしながらで構わないとアヤが言うと、じゃあ次に出勤した時に、ということになった。アヤも異存はなかった。
※
岡田が倒れた時以来、久々に訪れたプロジェクトルームは、見た目はほとんど変化していないように見えた。あれから色々な対策が施されたとは聞いたけれど、主にはソフト的な部分と、クリティカルなDBインターフェイス部分だという話をちらっと聞いていた気がする。
「お疲れさま」
既に仕事を始めていた誠に、缶コーヒーを差し入れる。
あの頃は、理想のクラブを作り上げるという自分の目標に突き動かされていたという感じだった彼も、今は、続くルーティンワークに少し疲れている雰囲気だった。
「……トモのことで進展なら、」
「ないんでしょ? それは判るよ。進展があるんなら連絡くれないはずないし」
「……ああ、うん……」
誠はぼんやりした手つきで缶のプルタブを開ける。
「それより、聞きたいことがある」
「……」
誠は微かに頷いていた。目はウィンドウのログから離れなかったけれど。
変に回り道をする方が遠くなるだろう。そう思って、単刀直入にアヤは切り出した。
「もしかして……ブレインクラッカーのライブラリを、バウンスの構築で、利用してる?」
缶を弄んでいた彼の手が、ほんのわずかに、ひくっと震えるのが判った。
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