- 19 - bob in junk

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- 19 - bob in junk

 それは、アヤ自身さえ出したことをすっかり忘れていたメールの返信だった。  その場で適当に作って、すぐ消すつもりだったメールアドレス。そのフリーメールからアヤの常用アドレスに転送されて来て、初めて思い出した。  思い出したと同時に奇妙な疑問が浮かぶ。オンラインのものにしては随分と時間がかかりすぎている……本当にコミュニケイションをする気があれば、もっと早く返事を寄越すだろうし、ハナから話す気がないんだったら無視すればいいだけのこと。メールアドレスからだって「捨てアド」だと気付かれそうなものなのに。  律儀なんだかルーズなんだか判らない。  英語のスパムに紛れたニュースグループの「sugarはヒントを作った」。その素っ気無い文字列に浮かんだ自信。アヤの揶揄するような言葉に、「彼」は日本語で返事を書いて来た。  ──自分は、「直系」を知っているのだと。それを現に手に入れているし、知りたいなら売ることも出来ると。  アヤにとってそれはほんの少しの苦笑を伴う言葉。何故ならその作者のsugar自身がバンクに閉じ込められているのをこの目で見ているし、彼自身の口から、それが彼にとって黒歴史であることを聞かされているから。本人が「改良」するはずはないし、誰かに託して改良させる意志があったとも思えない。  アヤは岡田のアカウントを借りた。銀行には悪いけれど、踏み台にさせてもらう。彼が、あの涼しげな瞳が、黒く部屋を映し込むディスプレイの向こうで微笑んだような気がした。  アヤは買うと言う前に彼と『商品』について話せないかと持ち掛けてみる。ちょっと怖くなったとか怯えて見せれば、逆に商品自慢をしてくれるかも知れない。この手の商売人は自慢やハッタリをしたがるし、時にその中に重大な秘密を孕んでいたりすることもある。  その返事は殆ど間を置かずにやって来た。彼はとあるIRCのチャンネルを指定して来る。アヤのディスプレイにもう1つのウインドウが開いた。名前はtomo──岡田が、銀行に『拝借した』名前。 [#BC-area75 tomo]is anyone here? [#BC-area75 bob]日本語通るよココ [#BC-area75 tomo]ありがと [#BC-area75 bob]疑ってるの [#BC-area75 tomo]そうじゃなくて知らないんです [#BC-area75 tomo]この周辺のことに興味持ったの最近なので [#BC-area75 bob]新入りってわけ [#BC-area75 bob]このアカウントほんもの?  アヤは思わず眉をひそめる。気づかれてる? [#BC-area75 tomo]実在してますよ、現にちゃんと今話してる [#BC-area75 bob]いやそういう意味じゃなくてね [#BC-area75 tomo]??よくわからない [#BC-area75 bob]いやいいんだ、混乱させてごめん [#BC-area75 bob]ホントに何も知らないんだね [#BC-area75 bob]じゃあ、何を知りたいわけ  今の一瞬で手がどっと汗ばんだ。ハンカチを出して来て手を拭う。相手がIRCを指定して来たこと──たとえonlineと言えども「対面」しなくて済んだこと──は幸いだった。単なる気まぐれではなく、ある意図を狙ってブレイククラッカーを扱うような売人なら、目をつけていたとしても不思議ではないだろう、「バウンス」にも、岡田知明のやったこと----この銀行のドメインにも。 [#BC-area75 tomo]いわゆる薬とは違うタイプなんですよね [#BC-area75 tomo]死ぬことなんてあるの? [#BC-area75 bob]そこまでリスク説明しなきゃ買えないようなら [#BC-area75 bob]手を出すの止めたら  ……怒ってる、多分。  何処にいるか判らない男が憮然とキーボードを叩くのをふと想像してしまう。 [#BC-area75 tomo]ふつうこの手のものって「危険はないけどイイ」って [#BC-area75 tomo]いう感じだから珍しいなあって [#BC-area75 bob]実際珍しいんだからしかたないさ [#BC-area75 bob]バウンス知ってるだろ 「うわ……」  知らず知らずのうちに声が出ていた。 [#BC-area75 tomo]って何? [#BC-area75 bob]知らないわけないだろ、そのアカウント使ってて  アヤの口の端が少し歪む。微笑みになり損ねた微笑み。もう1度ハンカチで念入りに手を拭いた後、 [#BC-area75 tomo]ごめんなさい、多分それ、前の持ち主のことですよね [#BC-area75 bob]前の持ち主? [#BC-area75 tomo]買ったんです、これ [#BC-area75 tomo]ちょっとこういうの試してみたかったけど自分の使うの怖くて [#BC-area75 tomo]いわくあるっていうのは知ってます、何かの店やってたって  反応が帰って来ない。  切られるか、とふと身構えたものの、相手は黙ったままだ。  岡田のものとしてこのアドレスを知っているのは誠とアヤと彼自身だけのはずだった。少なくともこのアドレスと「バウンス」を結べるのはこの3人だけのはず。母親の方のコンピュータからアドレスが洩れ、それを追跡した物好きがいたのか……。 [#BC-area75 bob]今メール送った  文字と共にメールボックスにも旗が立つ。 [#BC-area75 bob]キャッシュまたはe-cash [#BC-area75 bob]e-cashの時は前金半額、受け取った後に半額。納得したら送って [#BC-area75 tomo]キャッシュってことは  心臓の鼓動が一気に高鳴る。 [#BC-area75 tomo]会って渡すってこと? [#BC-area75 bob]いや、信頼出来る筋に委託するだけだよ [#BC-area75 bob]何だよお前、オレに会いたいの? [#BC-area75 tomo]そりゃあどんな人が売ってるのかって興味はあるよ [#BC-area75 bob]残念でした  今度こそ切れた。  アヤは暫くそのチャンネルでtomoを待機させておくと、早速メールボックスを開く。念のためウイルス・チェックを走らせる。シロ。  ──開いた目の前に出て来た文章は、アヤにとって意外な収穫であり、予知した恐怖の一部でもあった。  ※  土曜の夜。「バウンス」の賑わいは秒単位で加速する。特別にイベントが開かれる日でなくても、淡々とした《S.T.》の繰り出すビートは客たちを非日常世界へ連れて行く。  本人はいたって淡々としたものだ。アヤの言葉を耳にするまでは。  ファイがいた。声をかけられて、ちょうど空いたスツールを示される。ファイのまくし立てる挨拶は適当に聞き流し、ちらりと周りを確認する。知った顔はなし。  最初はファイに振って見ようか…… 「ねえ」 「あぁん?」  耳を近づけて来る。 「ボブって知り合い、いる?」 「いるけど」 「ビーシーについて何か話してなかった?」 「ビジィ?」 「ビーシー」 「ビィタミィンシィ?」 「……いいわ、ファイに聞いたのが間違いだった」 「あー、何その言い方ぁ……」  いやそのままの意味。ファイは元々そういうことをやるタイプじゃないから。言わずに手だけ振ってブースの方へ向う。  そうなればもう候補は1人しかいないのだ。 『バウンスのDJに話を振ってみな。キーワードはボブとビーシー。』  もう1人のDJはブースで非常に忙しそうだ。ちらと見上げると目が合った。アヤのその瞳をどう受け止めたのか、《S.T.》は暫くじっと彼女の方に目を向けた後、待っていて、と言うように店の奥を指し示した。  翻り、人混みの合間を抜けて奥へ。バーシャルな壁に仕切られた隣は、誰もいない灰色の空間だった。  まるで──とアヤは思い出すように目を閉じる。sugarが隔離された、あのバンクの部屋に似ている── 「えらく深刻な顔しちゃって、どうしたの」笑いはいつものように。屈託ないまま、小さいレコードバッグをすとんと床に下ろす。「まあ、滅多に1人じゃ来ない人が来てるってことは」肩をすくめる。「僕が何かやらかしたんだろうけどさ」 「ボブって名前に心当たりは」  疑問形ですらない。もうそれは、確信と呼んでいい。《S.T.》の微笑は凍りついて、遠い何かからライブラリを呼び出すためのディスクアクセスのような間があって、それから。 「つい最近知り合ったヤツのことかな……」 「ビーシーについて何か聞いてる」  ちょっとした悪夢の始まり。《S.T.》の表情はそれまでになく引きつったものになり、体が動こうとしている。アヤは彼の左手をつかむ。震えている。 「な……」  振り返る。こんな《S.T.》が引き出されたのはもう最初で最後かも知れない。作った誠も、使われるとは思ったこともなかったかも知れない。 「なんでアヤさんなの……」 「なんでってことないでしょ。人には色んな意志があるものだから、そういうことだってある」 「たっ、」手を振り解き、「頼まれただけなんだ、ある人に、一時期だけ──別に今までそういうことしていたわけでもないし、これからだったやるつもりも」  気づいてないのは《S.T.》なの? 誠なの? ドラッグそれ自体は、バウンスは許容していたはず。そういう契約だったはず。このドアを一歩外に出れば消えてしまう、演出のパーツに過ぎなかったはず。  だから逆に──  この《S.T.》にここまでの反応をさせているということは。  この先にある、何かが。誠が、この《S.T.》というシステムの中に仕組んだ何かが。  あるいは、  「本人」の意志──? 「別に責めてやしない。私はここの空間の作者ではあるけど警察じゃないのよ」 「じゃ何しに……」 「買いに来たのよ。そういう会話であなたに声をかけるのは、そういう目的の人間のはずでしょ」  黙り込む。荒い呼吸を鎮めようとすればするほど震えは大きくなる。暫く無抵抗に見えていた腕が動いて振り払われて、それでも見て判るほど小刻みに震えながら、 「アヤさんには売れないよ。絶対」 「なんで」 「嫌だ!!」  その悲鳴は、アヤに言ったものではない。音は響きを失って霧散する──《S.T.》も。  音楽と痛い静寂。  何もないグレイ。  消えた。《S.T.》が。そしてその代わりにファイがいた。赤い線のような光が目の奥で乱れている──乗っ取られてる? 「誰……」  ファイじゃない。 「……」  指さした先に複雑なカッテングを施した大きなガラス玉がある。偽物の宝石のような。転がりながら僅かな光を吸い込んでは反射する。音のベースラインを辿るように揺れて、戻り、そして時々思い出したように止まる。 「コピーが必要ならあそこからダウンロードするといい。今から3時間以内」 「誰……?」 「あんたが必要なのはそれなんだろ。オレが誰かなのかじゃなくて」  再び消滅。  音楽と静寂。  アヤの手の中のディスク。その中の「直系」は、旧式のmpgデータとあるプログラム。ディスプレイの中に並んだ2つのアイコンを見つめながら、アヤはそれをどうしようか考える。  今まで、話に聞くだけで実際にそれがどういうものなのかを「知って」いたわけではなかった。音がどうやってドラッグになり得るのか。シミュレートされた脳にも作用することが出来る唯一のドラッグ。  アヤは自身のニューロデータのバックアップを取ることから始めていた。そして小百合にメールを書いた。色々な事情があってある実験に関わることになったので、家のパスワードロック解除キーを預けます──もし何かあったら、よろしくね──。  接続。自分の中でゆっくりとカウントダウンしながら入る。アイコンから繰り出された擬似空間は、最初のざらざらしたノイズが安定した後に、sugarのバンクの部屋で聞いたような激しさと浮遊感の同居した音場世界へシフトする。音の深海。自己の内面の更に奥へ忍び寄り、心地よい混乱と、時に衝撃と、意志の介入を感じさせないままやって来る、膨大な安心感と高揚と鎮静と、闇の──  闇の安寧。  溺れさせる意図を持った。  ドアを開けることの出来ない部屋の暗闇。
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