- 21 - blackout

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- 21 - blackout

 深海から流れて来る音は穏やかで柔らかく、リズムは時に思い出したように自身の奥の方に響きだけを落として行く。青白い光の中でゆらゆらとたゆたうアヤの「意志」に働きかけている力は、決して何をも強制せず、時間の概念も思い出させず、ただ全てをその闇の一瞬に凍りつかせようとする。  無の麻薬──  アヤは目で何かを見ていた頃の自分を思い出せない。そもそも見るという行動の意味が思い出せない。闇と、音と、そして、意志だけが踊り出す、ゆるやかなダンス。  時折少し痛い意志の力が彼女をかすめて行く。放っておいてよ。言葉ではなく、あくまで意志だけでそう伝えて、相手の憐れむような怒りのような思考波だけがやって来て、ブラックアウト。  究極の動と究極の静が同時に持っているある種の恍惚。  ランナーズハイは時に自分が動いている自覚さえ失わせる。  今はそれに近い。  歩くはずのない意志は、それでも多分、何処かへ向かっている。  黒い帳の向こうにちかちかと赤の光が瞬いて消えて、赤の線が音の抑揚に合わせてグラインドし始める。だん、と大きなドラムの音を皮切りにして、乱れて行くリズム、ビート、低く支え続けているその音がやがてモノになる。触感を思い出させて、それから光を。アヤの前を赤が横切る。突然視覚という3次元が帰って来る。誰かが自分を呼ぶ声を聞く。聴覚という限定された音波の間から、懐かしい声を聞いたような気がする。  気がする──だけなのかも知れない。  それを懐かしいと感じたのは何故なのだろう、グレイの床。配管むき出しの天井。高いブースに、笑い声が満ちている。悪意の笑いが。 「お帰り」  アヤは立っていた。バウンスのフロアへ。  笑う声は壁に吸い込まれるように残響を消しながら、やがて音楽にまみれて遠くなる。  姿は──  秒を待たずに変わり── 「あなたはだれ」  声帯が動くのを、意識する。 「流石にアヤさんは意志が強い、みたいだね」  DJブースの中にいた人物は、最初その位置だけから《S.T.》のことを思い出したアヤの期待を裏切った。笑顔は、岡田知明。 「でもあなたは来るべきじゃないな」  その涼しげな顔の中に影が落ちる。悪意という名の── 「強制離脱、パスワードは」  一瞬歪んだ表情が岡田の顔から別なものへねじ曲がろうとしているように見えた。 「bounce」  風景は黒。  目の前で白が滲むように広がり、やがて目の焦点がゆっくりゆっくり合い始める。真綿が詰まったようにジンジンして耳が痛い。それも少しずつ晴れて来る。  物音がしたような気がして。 「いや!!やめて!!戻らないで」  体がある。 「だめ!!今は──」 「アヤっ」 「追わなきゃ」 「もうやめてよっ!!」  痛みがある。  熱もある。  鼓動も。  目の前に滲む白が天井だと判った途端、今度は別の滲み方をしている。涙? 「もう……もうやめてこんなこと……」  しゃくりあげているその声は小百合だ。  目の下にクマを作った誠は、背中を丸めて座り込んでいる。端末のすぐ上の手はもうキーを叩いてはいないけど何かを求めるようにガクガクと震え続けている。息が荒い。小百合の方は充血しきった目で誰が見ても号泣した顔。誠の唇の間からうめき声がする。アヤは、まだ自分の体の末端をコントロールする方法が思い出せない。気分ではなく本当に動けないのだ。神経の一部を乗っ取られたような感覚。目が小刻みに動かせるだけ。 「アヤ」  誠の声が言葉になった。 「なに」 「何しようとしたと思う、こいつ誰なんだと思う」 「何の話?」小百合がにじり寄る。 「アヤ、ホントにマジでもう絶対やめろ。あんたの行動が読まれてる。多分、あんたが接触した売人も、こいつも、仕組まれてる、多分。偶然にこんな精密なシステム組んだりしない。こいつは、」  手の震えがわずかにキーを掠る音がして、 「アヤを消そうとしてた──オンラインで殺そうとしてた。et-aiが封じたと噂されている究極のライブラリの話知ってるだろ。あいつはあれを使おうとした跡がある」 「岡田が……」 「へえ」唇が歪み、「岡田の顔してたんだ……」 「じゃあ誰」 「わかんねぇよ」  誠の言葉は穏やかだが、その一瞬後にキーを殴った指先の強さは尋常ではなかった。  アヤは思い出そうとした。彼の顔が崩れた、その行く先を。思い出せないのか消されているのか、霧に閉ざされた記憶は、思い出そうとする努力をすればするほど奥の方へと逃げて行くようだった。  ※ 「説明して」  小百合の声は小さかったが、誰もいない病院の廊下では妙に大きく響いた。 「俺にだって判らない」 「隠されたライブラリがどうとかって言ってたじゃない」 「……ああ」誠の言葉には微妙な間があったが、病室の扉を睨んでいた小百合はそれを気に留めることはなかった。「そっちね。……小百合は、et-ai labの話は何処まで知ってるの?」 「検索出来ることなら一通りは」 「じゃ表向きの情報だけってことね」  小百合の唇が少しだけ歪む。「何それ。誠だってet-aiについては部外者じゃないの?」 「……」  今度は彼女も明らかに見た。誠は、何かを言おうとして口を開いて、言葉を飲み込んでいる。  少しだけの沈黙。けれど彼の肩先から奇妙な緊張が漂っている。 「……そうなんだよな」  小百合に向けられた言葉ではなかった。 「……俺がそれを知っている時点でおかしいんだ」 「──え」  古い長椅子にすとんと腰を下ろした誠は、とん、と軽く自分の隣を叩いて見せる。小百合は促されるままにそこに座る。 「……そもそもet-aiが最初にやろうとしていたことは、人間の脳のシミュレートだった。だから、文学やSFの世界の『意識のIT化』とは全く違ったアプローチで。どっちかと言えば、二足歩行のロボットなんかの研究の方が"相性"は良かったのかも知れない」  小百合は頷いて見せる。「最初の非公式実験は、自律神経コントロールだった、っていう噂ね。つまり、肉体のコントロール」 「そういうこと。でもそれは倫理の壁に阻まれて、結局et-aiは『医者』になり損ねた」  最初にet-aiの存在が騒がれ出した時、その当時は噂でしかなかったけれど、確かに『医療』だったのだ。その当時、根本的に"治す"ことが難しく、対症療法しか存在しなかった神経系の病気──自律神経系も含めて──に対して、脳の構造そのものを解析し、流れる信号をコントロールする術を探るet-aiが一筋の光と見る研究者も多かった。  けれど。  人間の肉体を外からコントロールする不正な裏口(バックドア)になりかねないという慎重論が声高になり始めてから、et-aiは表舞台から完全にその姿を隠蔽するようになり。  唯一の「表舞台」として登場したのが、ネットワーク上でヒトの意識部分のみをエミュレートするチップと、それに対する『意識』の入出力だった。  脳という肉体そのものを改造しようとする技術は、結局闇に葬られたままだった。 「……そう。そういうことね」小百合は眉をしかめる。「あの症状は、そのバックドアが使われた結果だってこと?」 「それ以外に考えられない」  ──アヤは部屋で目を覚ました時、半泣きで見下ろしていた小百合に向かって最初に聞いたのは、自分の手のことだった。  指先の感覚がない、と。自分の指が、存在するのかどうかすら判らない、と。  体を起こすのにも、手の感触がうまく取り戻せずに2人の力を借りた。自分で肘を曲げて、指がそこにあることを視覚で確認してすら、自分で動かすことは出来なかった。  まるで、脳が自分の体を誤解しているような違和感。  人間は尻尾がないから、尻尾を動かそうとしても無理だ。それに似た感覚かも知れないとアヤは言った。  自分にはまるで、最初から「指」という肉体が存在していないかのようだ、と。  et-aiのライブラリに絡む脳障害は、専門の医師が今は存在する。ニューロデータのバックアップが存在したアヤの場合は、更に事は簡単だ。  その処置をする前に、自分では記録出来ないので、アヤは2人の前で経験したことを全て話した。ICレコーダに録音して、後に誠がそれを音声認識ソフトに通して文字化することにしている。ニューロデータのバックアップが戻った時、まれにそれ以降の記憶も一緒に飛ぶことがあるから。et-aiが生み出した、新たな前向性健忘症。まるで、ゲームでセーブデータを元にリセットしてやり直したように。アヤはかつて、そんなことが出来る今の技術の方が異常だ、と言っていた。 「『直系』のブレインクラッカーにそのバックドアが仕込まれていた、のかな」 「判らない。分析してみないと。アヤがそいつを見つけたのはニュースグループだったんだろ? だとしたら、被害者がアヤだけじゃないかも知れない」 「そういう話だったら、私の方が専門かも知れないわね。──でも、ここ数ケ月は私も色々と探りを入れっ放しだったけど、全く引っかかって来なかったのよ。今のet-ai、既にオープンソースだし、そんな危ないバックドア、初期メンバーでもない限り放置はされないと思うんだけど」 「じゃあ『初期メンバー』なんだろうな。仕掛けて来たやつは。しかも、アヤにピンポイントで」  事もなげに言い切った誠に、小百合は少し声を荒げる。 「アヤはそんな恨みを買うような人じゃない」 「アヤ本人とは限らない」 「何ですって?」 「アヤは餌に使われたのかも。というか、その方が色々納得が行くと言うか」 「……」  必要以上に淡々とした声。誠の目の中を覗き込むように小百合は身を乗り出す。 「『敵』の狙いは……誠なの?」  誠の目には迷いが浮かんでいる。 「この病院、電波飛んでるかな」 「え? ──院内PHS波は飛んでると思うけど」 「ああ」  小百合にはそれが見えていた。  現実では目にすることは滅多になかったそれを。  彼の瞳の奥でちらちらと瞬く赤。  オンラインではなくオフラインで。  その瞬間に彼女も悟った。  『敵』はそのバックドアを握っているのだ。  そしてこの2人の近辺にいて……監視している。  もしかしたら、監視されているのは彼だけかも知れないけれど。 「院内PHS波か──そっちね。随分時間かかったと思った」 「……何が?」小百合は知らないフリをすることだけで精いっぱいだった。 「いや」彼はふわりと笑ってみせる。「──なんでもないよ」  ※ 「『戻って』来た?」  半分笑いに紛れるような小百合の声に、アヤは小さく笑って頷いた。 「ただいまぁ」 「指も?」 「うん。記憶も飛ばなかったみたい。『最適化』通ってないのがいい方に働いたのかもね、って先生は言ってた」 「じゃ俺は飛んじゃうのか」誠の声もふざけている。 「かもねー」 「もう……」小百合はこつんとアヤの額をつつく。「こんな危ないこと、あっさり手を出さないでよ、アヤらしくない」 「まあ、なんていうか……ハンデだったからね」 「ハンデ?」 「クラブの世界の空気を知らないというか、そういうの」 「だからってブレインクラッカーは違うと思うなー、私」 「そうかなー」アヤは何かを思い出すようにすっと目を落とす。「同じだと思ったけど。『バウンス』の麻薬性と、あの感覚は」 「……」  小百合と誠は何も言えなくなったかのように黙り込んだ。  とは言え、2人の沈黙の持つ意味は違う。アヤにはそれが見える気がしていた。気がするだけであって欲しいと思いながら。  でも、とアヤは内心だけで呟く。  どっちにしても、経験してしまったこと、それが自分の中に『残って』しまったこと、それはこっちにとって有利な材料になるはずだった。  『彼』がいるから。あらゆるネットから隔離された状態で。  一昔と違い、病院ですら今はネットフリーではない。完全に『敵』の目から姿を隠すには、システマティックに隔離される以外、逃れる術は多分ないのだ。  誠はあの時と同じ目をしている。何処か夢見がちな目。それが、バウンス開発の最中は、自分の理想のクラブの姿を思い描いているが故のことだと思っていた。けれど、今はそうは思えない。  また来て欲しいと言ってくれている。  会いに行かなければならないのだ。  彼にこの経験をハックしてもらえば、何かが判るかも知れないのだから。  簡単な検査を終えて、そのまま退院させてもらえた。アヤは電車に揺られながら、何度か思い出そうと記憶を探る。あいつの顔。岡田の顔から変化したその先。  ただぼんやりと歪んだだけのような、そんな感じもする。今となってはもう薄れて来ている。『最適化』していれば、もしかして取り出す手段はあったかも知れないけれど、それももう期待は出来ない。  言語化も映像化も出来ない「経験」というデータ。それだけが、今となってはアヤの武器だ。  途中まで一緒だった小百合に、『彼』──sugarこと佐藤暁宏に再び会いに行くことは話した。小百合は何かを悟ったようにきゅっと口を結ぶ。 「誠に知られない方がいいってことね」 「いや……誠に、なら構わないんだけど」 「──ああ、うん」  重い静寂。口に出さなくてもそこで情報共有が成立する。  しばらくの後、中途半端な笑顔のままで小百合と別れたアヤは、そのまま家に直行する。家中のネットワーク機器の電源を落としてから、いざという時のために引いてあるアナログ電話回線とFAX機を引っ張り出して来る。  何処までごまかせるかは判らない。でも出来る限りのことはしてみなければならない。  鎌倉ブランチに電話して、数日後の面会の約束を取り付けた。前回、sugarが再会を約束してくれた日付よりは少し後になったけれど、多分、早いよりは遅い方がいいはずだった。
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