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- 22 - bank II
ゆっくりとした時間がそこには流れている。
多分、この「遅さ」はネットから切り離されているが故のものなんだろうな、となんとなくアヤは思った。
「ネット」のお蔭で買い物も銀行も24時間フル稼働するようになってしまった時代。もちろん、実際に24時間開いているのは窓口だけで、実際の処理はまだ昼間にだけ動いている。とはいえ、人々は既に、すべてのサービスが24時間動いているという認識で生活している。
小さな隙間時間ですらケータイに搾取されている、と声高に叫ばれたのはもう何年前なんだろう。すべての時間の価値が悪い意味で平等になってしまった時代に、アヤは生きている。
でもここは。──ネットがないから。
「……久し振りだね」
穏やかに笑うsugarは、多分、最初から「本人」なんだろうとアヤは思った。彼をこの鎌倉ブランチに閉じ込めた何者かは、あまりかんじがらめに彼を縛ることはしていなかったらしい。
「お久し振りです」
「ええと」彼は少しイタズラっぽく笑う。「色々話すのが面倒だったら、『見せて』もらうけど」
「そのつもりで来てました。なんていうか、多分、言語化出来ないこともいろいろあるし」
「そう」
sugarは、弄んでいたシンセサイザーから手を離してゆっくり立ち上がった。
その指先が、そっとアヤに向けられる。優しく瞼を撫でるような動き。アヤは釣られるように目を閉じて、──
過ぎた時間はほんの一瞬だった。
少しだけ重い溜め息がsugarの口から流れる。
「君はもう、真犯人に辿り着いてる。あるいは、確信している。ほぼ100%」
「……」
アヤの戸惑いは、ここだけに存在する伝播で彼にすぐに伝わった。
「……そうだね。彼は──『生きて』いないはずだ。少なくとも、現代の科学では」
なのに、彼の『実在』が何故ここまで濃くならなければならないのか。
肉体を離れて意識が存在する。SFの世界では語り尽くされた陳腐な「夢」が、とうとう現実に浸食して来たのだろうか、彼は──脳細胞という肉体を捨てて『生きて』いるのか。
「でも、アヤさん?」
「──はい」
「そんな疑いを持っていなかった頃、バウンスの中にいた彼に違和感は持っていなかったはずだよね」
「……ええ」
「今の『彼』──バウンスの中の《S.T.》が、桁違いに出来のいいAI、という可能性は考えてみなかったの?」
アヤが口を開くより、彼が読み取るスピードの方が圧倒的に早い。息を吸った頃には既に彼の方が難しい顔をしていた。
「ふむ……管理者が『誘拐』されたんだ」
「──もちろん、その、結びつけて考える必要がないことなのかも知れませんけれど」
「ここまで痕跡も残さず、アクションも残さず、目的が不明」
「……AIなら、多分、何かの目的を必要とするはずでは」
「うん……あ、ごめん」
sugarが何の脈略もなく突然軽く頭を下げ、拝むように片手を上げてみせる。
「え」
「ちょっとここ、入っていいかな」
頭の中に少しだけ異物感を感じる。頭蓋骨の裏側がかゆいような。これは擬似体験されたアラートで、──アヤ自身にすら表層では記憶していない領域に何者かが入ろうとしている。
「え、なに……見つけたんですか?」
「っていうか、コレを見せたかったんじゃないの、アヤさん」
「──あ」
あの時の。「直系」を騙っていたブレイン・クラッカーの体験。
「……わかりました。その、あんまり探索領域広げないで下さい……」
「大丈夫、その辺は弁えてるから」sugarは笑った。「伊達じゃないよ? ブレイン・クラッカーの作者なんだから」
頭の隅っこをくすぐられるような感触がやって来てから、やがて不思議な温かさが頭全体を包み込む。痛みはなかった。ふわふわとしてつかみ所のない感覚。sugarは──というよりsugarの「像」は、動きを止めている。でも、アヤの頭の中では何かが動いていた。
短いような長いような時間。時間の概念すら、その間は停止しているような気さえしていた。
──アヤが気付いた時には、咄嗟にまばたきを繰り返していた。まばたきをしてから、自分がそれをしていなかったことを改めて思い出したかのように。
「確かにいいセン行ってるな、とは思うけど」
「……ホンモノじゃないですよね」
「そりゃね。──でも、うーん……」
今までになく厳しい顔になる。『黒歴史』に触れるのだからある程度は覚悟していたのだけれど、それを飛び越えて禁断の箱を開けてしまったような気分になる。
「直系言うだけはあると思うよ」
「……似てるの?」
「『効果』を計算したんだろうなとは思う」
ということは。
元々のブレインクラッカーの世界もあんな感じなんだろうか。
「ああ、うん。……そうだね。そう遠くないよ」
闇の安寧、だ。
クラブ、という空間に求めるものはある種の高揚感だと思っていたけれど、少なくともアヤが感じた世界は闇の方が濃かったように思うのだ。
ただ、自分でもあまりはっきりとは記憶していない。なんとなくの残像があるだけ。それと、事後の「現象」について知るのみだ。少しの間、肉体の器官を封鎖された記憶。
「記憶がないと感じているのは──」言葉を探すようにsugarは話し出す。「多分、本当に記憶がないからだと思う。元々のブレインクラッカーもそういうものだったし」
「残さないんだ」
「現象はね。だって、ブレインクラッカーにとっては必要のないものだと思う。──下品な話で悪いけど、セックスだってそんなもんでしょ。している時の一挙一動を自分で覚えてるヤツなんかいなくて、その快楽だけが後に残る。純粋快楽ってそういうものだと思う。自己コントロールは失うもの、だと」
「──ブレインクラッカーを作る時にそういうの想定した?」
「というか。……ライブラリ側がそういう想定で動いている感じだったけど」
et-ai。恐らく初期の。
「元々、ブレインクラッカーの開発動機はそこだったから。ライブラリ側にそういう機能があることが面白そうでつついてみたくなった、というか」
「純粋ハッカーってわけですね」
「そうなるかな。攻撃しようとしてたわけでもなく、稼ごうとしてたわけでもなく、そこに面白そうなものがあったから使ってみたくなった、というか」
そんな動機じゃなければ、たとえ一時的にでも迂闊に公の場所に置いたりはしないだろう。アヤにはやっと、彼がそれを当時「公開」してしまった事情が判ったような気がした。
「じゃあ……これって」
「うん……」
あえて言葉にする必要もなかった。
つまり『敵』は、商業化への道を歩き始めたet-aiが捨てたはずの危険な領域を復活させる手を持っているということ。悪くすれば「内部犯行」だ。
「et-ai.labが不文律で抱えていたルールを破ったのかな」
「et-ai.labにそんな不文律が今でもあるとは思えないけど。封印したのはコンプライアンス判断だったと思う」
「……じゃ今でもやろうと思えば出来ると?」
「今の方がやり易いくらいじゃないのかな。ニューロデータのフルバックアップ取れるようになったみたいだし」
「……あ」
なんだかイヤな予感がする。「初の」オンラインで再現されたクラブ、なんて、その手のアンダーグラウンド・ツールが出回る隙にもつながりかねない。
自己責任、その言葉だけを隠れ蓑にして。
「──でも逆に言うと、『相手』もそこに縛られていることにはなるんだね」
「え」
「et-aiのライブラリ。ここまで忠実に使っているということは……」
sugarは少しだけイタズラっぽく笑った。
「現在は潰されてしまったバグにもまた、無防備な可能性もある。逆に、そこにつけ入ることは出来るのかも知れない」
「……」
sugarが何を言い出すのか、アヤには予想がつかなかった。
「『トラップ』を預けてもいいかな」
「──罠?」
「そう。いつどんな風に発動するのかはあえて教えない。君のデータがハックされて洩れてしまうと意味がないから。音源の形でネットの海に投げてみようと思う。彼は……拾うかな」
「拾うと思います。オフラインのレイブカルチャーはもう下火ですから、オンラインで音源捜すのは普通になっていると思います」
「なら、『かかる』かも知れない。うまく行けば、『彼』に尋問出来るチャンスが来るよ。きっとね」
sugarは、ぽん、と片手で何かを投げ上げるような動作をした。いつの間にか掌に小さな白いボール。彼はそれを、何気なくアヤに放ってよこした。
はずみで受け取ってしまってから手を見ても、そこには何もなかった。
「私、受け取れてました」
「仕込ませてもらったから。さっきも言ったけど、いつどんな風に発動するのかはあえて教えない。大丈夫、君自身には何も危害は加えないよ」
sugarはちらりと空を見上げる。
「そろそろ時間なのかな」
ちかちかと頭の奥で何かがまたたいた。係員が迎えに来た合図。
「そうみたい」
「じゃあ、また。……何かが変化した時には、また会いに来てくれると嬉しい」
「うん」
静寂の領域に徐々に彼の姿が溶けて行く。それと共にアヤは、頭の領域の一部に明らかなハッキングを意識していた。多分sugarで、『トラップ』の存在そのものすらアヤの記憶から消そうとしているのだろうと判った。
それはそれでいい。彼はハッカーだけれど、でも、紳士的な人だ。そう信じることは出来るようになっていたから。
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