- 23 - テクストの行間

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 あの「体験」から帰って来た後、マキは自分のマシンの中に置かれていた「彼」とのメールを全て読み返していた。  1通も残さず取ってあるその中身は、元々マキとの対話は成立していなかった。でも、彼は書きたいから書いていたはずだ。誰かに話したいから話していたもののはずだ。セキュリティなのか守秘義務なのかは判らないけど、言葉自体はとても曖昧で、少なくとも彼がしていたことについて何かしらヒントがないと、何のことを話していたのかは全く理解出来ないものだった。  不思議な高揚感と罪悪感が入り混じる言葉。  ──それがもし、あのことだとしたら?  音楽データに、音楽以外の何かを紛れ込ませる技術。  今だって、著作権管理データや「すかし」のようなもの、認証データ、タグなど、デジタル化された音楽データには音以外のデータを色々入れることが出来る。そしてその便利さをみんな享受している。  でもそれは逆に言うと、今現在使われている仕様以上のことは出来ないという「縛り」にもつながる。  たとえば。et-aiが出て来た以上、「匂い」もデータ化は可能になっている。正確には、エミュレートされた脳データの上で何処を刺激すればどんな匂いを感じるのか、その刺激点をデータ化し再現しているだけなので、実際に鼻から何らかの成分が入るわけではない。  このデータを音と一緒にして配布ということは、今は出来ない。匂いつきMP3は、従来のMP3プレイヤーで再生出来ないかも知れないからだ。それに、匂いつきMP3がたとえ開発されたとして、「匂い再生機能がついたプレイヤー」が普及しないと、実際に香りと音楽を同時に楽しむというスタイルは永遠に普及しないことになる。  規格とはそういうもので。普及している規格は素晴らしいけれど、普及しているが故にそれ以上のことが出来ない足枷でもあるのだ。  ──あのクラブは、どちらなのだろう。  匂い再生機能つきプレイヤー、のように、音によって人の内面をかき回し異質な快楽を作り出す「再生装置」をあらかじめ組み込んであるんだろうか。  そして、それに対応した音楽データ──バウンスでしか味わえない「リアルな快楽」をもたらすための専用の音楽データを、かつて《S.T.》が使っていた音楽を作り直して組み込んでいるんだろうか?  それとも、音とは別に、あんな風に感じさせるシステムを用意して、同時に使用しているだけなのか。  「クラブ」なのだから、そういう仕組みがあること自体は別に悪いことではない。小百合もIMで話してくれた。それがクラブの「リアル」だったのなら。  ただ……。  再び、「彼」のメールを振り分けたフォルダを覗き込む。  ──彼のメールは、彼の死と同時に途絶えている。  そう、まるで彼の最後のメールこそが予言だったかのように。  『見つけた』けど、『それがどう実装されるかなんて想像もつかない』。そのメールの後にやって来た彼の不可解な死と、そして、あのクラブの空間。  偶然と片付けてしまえばそれだけのことだ。異様にタイミングがいいだけの、ただの偶然。  マキは少しだけ苦笑する。そんなことを「ただの偶然」と片付けたくないのは、多分、自分の中にまだ燻っている彼への希望のせいなのだ。彼がまだ、何処かでどんな形でも「生きて」いて欲しいという奇妙な願望。  自分はどうかしている。  メールソフトを終了させようとして指を伸ばしかけて、それでも閉じられずに戸惑う。  どうかしている。肉体はとっくに埋葬されているのだ。マキもそれは目撃しているのだ。彼は若かったけれど──孤独な死だった。ただ、実際に本当に家族がいなかったのか、事情があって縁を切りたかったが故に会社には何も言わなかったのか、そこまでは正直判らない。いずれにせよ、マキたち会社側の人間は彼の家族を知らなかったから、無断で彼を悼み送るしかなかった。  それでも……  それでも彼が「生きて」いることなんて、今の技術では出来るはずがないことなのに。  彼が見つけた技術の正体。  それによっては──彼の「生存」が証明出来てしまうかも知れない。  もし──。  もし、彼の最後のメールに込められたメッセージがそのことだったら?  あのクラブに込められたような、心理的効果だけでなく。  そうだとしたら。彼はSFの世界に飛び込んだことになる。  肉体なしに精神だけが生き続ける。永遠の命。化学ではなく科学がもたらした不老不死。データとしての脳が「成長」をしないとしたら、抜き取られたその一瞬で凍りついた人格のコピー。  もしそうだとするなら、彼のコピーに会う価値はないけれど。自律する精神がそこに宿っているのだとしたら、本当に……不老不死が実現してしまうのだ。精神だけの。  どちらなのだろう?  そのどちらかだという確信もないのに、それでもマキは考えてしまう。  マキにそのメッセージを残して消えた彼は、多分、マキには知っておいて欲しかったのではないかと思えるのだ。  マキが彼と結びつけて考える場所に「彼」のメッセージが残っているとしたら。  それをマキに見つけられることも、彼の想定範囲内だったのだとすれば。 「……私に、何を探して欲しいの?」  思わず口の中で呟く。  そしてふと、思う。  ──たとえそれが何であれ、『彼』に……バウンスでDJをしている(S.T.)に、どうしても会ってみないとならない気がする。  それで何がどう変わるかなんてこと、まだ判らないけれど。  かつてのluciferが、自分という存在をあのメールアドレスの相手として認知していたかどうかも判らないけど。  ──それでも。  ※  Cyber Onlineのサイトを辿っても、バウンスの営業時間中、《S.T.》とファイがどんなタイムスケジュールで担当しているのかは告知されていなかった。まあ、たとえば複数のバンドが出演するコンサートなんかでも、出演のタイムスケジュールが明かされていなかったりはよくある話だ。お目当てのバンドがいつ出て来るか知らせない方が、会場に客を足止め出来るとか、そんな理由で。  でも、バウンス自体は知る人ぞ知るサービスなわけで、掲示板サイトやSNSなどのコミュニティを覗けば、遊びに行っているファンの書き込みをいくつか拾うことはマキにも出来た。そんな中で、意志体ではなくアバター参加している人が、実況と称して、今どんな曲が流れている、というような話をリアルタイムに書き込んでいるスレッドがいくつかあった。  全部に目を通すのはかなり疲れた。疲れたけど、それなりの収穫はもちろんあった。  《S.T.》とファイのスケジュールにはちゃんと規則性があるのだ。  《S.T.》の正体が何であれ、彼はプログラムされたデータだ(ということに表向きはなっている)。ファイはアバタでバウンスに登場して回している(実際はデータ化された音源をつないでいるだけだが)。彼はバウンス以外ではちゃんと肉体で生活をしているそうだ。  だから、《S.T.》はファイの労働時間の隙間を埋めるように登場するのだ。  「仕事」とはいえ、ファイは生身ゆえ食事も睡眠も取っている。24時間動いているクラブのうち、夜の早い時間や昼間など、クラブに行くという意味ではちょっと中途半端な時刻にファイは現れる。深夜から朝方にかけての盛り上がる時間帯はほとんど《S.T.》。元々(S.T.)を「誘致」することでバウンスが生まれているのだから、メインは《S.T.》。そのため、彼は本当にボックスに詰めっ放しでいることが多い。  「会う」とすれば、当然、彼の空き時間を狙うしかない。  元々データに過ぎないはずの《S.T.》は、ブースを下りたら存在自体が消えてもいいはずなのに、彼は人間のDJであるかのように客と言葉を交わしたりいることもあるらしい。らしい、でしか言えないのは、情報ソースが掲示板やらのコミュニティだからで、ファンの願望交じりの狂言の可能性も捨て切れない。  それでもマキは賭けてみることにする。  それ以外に「彼」に会う方法は今の所ないのだから。  未だIDを取得していないマキは、行きたいと思えば後輩の矢島の助けを借りるしかない。彼には真の目的を教えないままに遊びに行きたい旨を告げると、矢島は、紹介チケットを切ると言ってくれた。会員が非会員の人を紹介出来る制度が出来たのだそうだ。それで実際に登録に至ると更に特典があるらしい。  でも登録するかどうかは判らないよ、とマキが念を押すと、矢島はちょっと残念そうに笑っていた。  とにもかくにも、こうして24時間有効のチケットを入手したマキは、今度はアバタとしてバウンスに「入る」ことにした。  チップごと接続するのと違い、アバタだけで入る分には少し前に流行した3Dのオンラインゲームのようなものだ。画面の中に映る「自分」を操作して、クラブのあちこちを歩き回る。  階段下のバーカウンターでぼんやりとフロアの喧騒を眺めることにして、視点を切り替える。自分を表すアバタが画面から消えて、アバタの視点=画面の映像になるように。この辺の操作は、アバタで入っていると横でオンライン・マニュアルを開いて見ながら操作出来るだけ楽かも知れない。  盛り上がるにはまだ早い時間帯なのか、人はさほど多くない。何人かの会話が耳に入って来る。どうやら今ブースにいるのはファイの方らしいという言葉が聞こえて、マキは慌てて席を立った。  《S.T.》はいるだろうか?  フロア以外の周辺部をキョロキョロと覗いて回る。ほんの僅かな視点のタイムラグで3D酔いしそうになるのはまだ慣れていないせいだろうか。とにかくも少しずつ休憩を挟みながら、相手が動いている可能性もあるので、何度も何度も同じ場所を見直して歩く。  DJが交替してしまうと、また会えなくなる。  焦りの方が強くなり始めたその時に、ようやく彼の姿を見つけた。  螺旋階段とブースをつなぐキャットウォーク。もしかしてこれからブースに向かう所だったのかも知れない。マキは急いで彼に呼びかける。 「田口さん」  そう呼びかけてしまったのは、──同じ会社で働いていた時のクセのようなものだったのかも知れない。そう「呼んで」しまってから、もしかして《S.T.》として再構築された彼は「田口翔太」という本名はインプットされていないかも知れないと思い当たっても後の祭りだった。  でも。  彼はその名前に反応した。  ちらりとマキを振り返って、不思議そうに首を傾けた気がした。  暗くて細かい表情までは判らなかった。でも物音に気付いたというよりは呼ばれて反応した感じが明らかにしたので、マキはそのままキャットウォークに歩を進めた。 「あの……お久し振りです」  自分のアバタは自分の外見をそのまま使ってある。多少最適化されているとはいえ、知り合いが会えばすぐに判る程度には。ただし。この《S.T.》が田口翔太でなければ、マキという人間のこと自体を覚えているはずなどない。  マキは話しかけた後は、曖昧にただ笑って反応を待った。マキが彼の死後にクラブカルチャーの一端に触れて来たことは、もし《S.T.》が田口翔太であっても知るはずがなく、ただの勘違いで近付いて来た元の会社仲間のようなフリをした方がごまかせると思ったのだ。 「……ええと」  困ったように《S.T.》も笑う。  言葉を探そうとして苦労しているかのように、視線が逸れる。  ──それで充分だった。少なくとも今のマキにとっては。 「あ、いえ、いいんです。覚えてはいないかも知れないですね。会社で、何度か会った程度ですし」  用意していたごまかすシナリオでその場を取り繕った。彼は──この《S.T.》は、少なくとも田口翔太の記憶を持ってはいないのだ。もちろん、そう演じている可能性もない訳ではないのだが、演じているのだとしたら、これ以上食い下がっても望む答えを引き出せるとは思えない。  マキは軽く手を振ってキャットウォークを離れ、そのまま出口に直行する。チケットはまだ20時間以上残っていたので店員さん(ただのホログラムだ)に勿体ないと言われたのだけれど、構わずそのままログアウトした。  ※  その再会がマキにとって大きな意味を持つようになったのは、それから更に一週間後のことだった。  日々の仕事に追われるだけで、実の所すっかり頭の中から《S.T.》のことは消えてしまっていた。忙しい時期とそうでない時期に波がある仕事なので、仕事が詰まっている時期になると会社と寮を往復するだけであまり余裕はなくなる。  1日に何通もやって来るメールに追い立てられるように仕事を片付けて、少しの残業を終えて帰ろうとしていたその時に。  そのメールはやって来た。  何気なく受信したマキは、新着メールが振り分けられたその先を見て心臓が止まりそうになった。  メールボックスのフォルダ。もう届くことのなかったはずの『彼』専用のいれもの。  ──そこに、新着・未読を表す数字がひとつ、ぽつんと現れたのだ。  ※  ──fromを誰かが偽装したのかと思った。いや、そんな風に思わなければ落ち着けなかった。  彼がまだ「生きて」いて、電子メールという手段で彼女と連絡の取れる所にいると、そう判断してしまうと頭がどうにかなりそうになる。  彼という存在は、少なくとも戸籍上は、自分が消してしまったも同然なのに。  彼の魂の戻る器だったかも知れないものを、この世で灰にしてしまったのは自分なのに。  ──どう償えばいい? 彼がもし……還るための場所を探しているとすれば。  マキの手は震えていた。メールソフトにマウスカーソルを近づけようとしても指先がうまく動かない。  彼が最後に書いていた言葉が、微かにしか聞いたことのない彼の肉声で、マキの頭の中で再生される。 『それでもあなたは信じてくれますよね。ぼくの存在を。今までそうしてくれたように。こんなことを言えるのはあなただけです。  あなたのアドレスが、その時までどうか無事生き延びてくれますように。』  そう。生き延びてさえいれば。こっちのアドレスが生き延びてさえいれば、いつか彼は「つながる」気でいたのかも知れない。  今がその時だというのだろうか。  こんなタイミングで。  未読を示すボールドの数字の1。  マキは静かな深呼吸とともにそのフォルダを開ける。  現れた未読メールが、メッセージペインに展開されるまでほんの一瞬。  そして。  ──そこには、何の文字も書かれていなかった。  マキは詰めていた息をいっぺんに吐き出した。  自分が何を期待して、あるいは恐れていたのかはよく判らないけど、真っ白なそのメッセージは少なくともマキの多少の安堵を与えてはくれた。彼が、自分を責めるために連絡して来た訳ではなかったのだから。  それにしても──何のために送信したんだろう?  真っ白じゃスパムフィルターも役に立たないからどうしようもないけれど、アドレス生存のために送られただけなんだろうか。  ──もう彼のアドレスを使っているのは彼ではないかも知れないのだし。  マキは真っ白いプレビュー画面を眺めながら、何の気もなしにヘッダ画面を出した。メールが配送された経路を示す部分にぼんやりと目を遣る。  いつも通りの彼の「道」。でもその先は以前とは違っている。  あの時と同じだった。そのサーバは多分、……Cyber Onlineだ。《S.T.》がいる場所。これで、少なくとも会社サーバにアクセスして来る怪しい誰かさんが、今luciferのアドレスも一緒に握っている可能性は高くなった。  それが彼本人だとすれば、……それはSFの世界。  それが彼ではなく、彼の死後、何かの手段で彼が持っていたアカウント情報をまるごと乗っ取った(ハックした)他人である、という可能性もある。だとしても、一括で全部盗まれて(ハックされて)しまうなんて、何だか彼らしくない気はしないでもないけど、何せ「死んでしまっている」のだから管理することなんか出来やしないのだ。当然だが。  いずれにせよその目的は判らない。この真っ白なメッセージからは。  何かを期待して返信なんてことはしてはいけない。このアドレスの先にいるのは「誰」なのか判らないのだから。  小さな溜め息とともにメールソフトを閉じて、着信確認のチェッカーだけを起動しておく。  ただの偶然だと思うことにしよう。自分が彼に会いに行った、その直後に着信するなんて。あるいは、ハックした誰かさんが、その元の持ち主のことを知っていたという可能性もあるのかも知れない。彼のアカウントのメールサーバ内にまだマキとやり取りしたメールが残っていたのだとしたら、イタズラで空メールはありえる話なのかも知れない。  そんな風に考えると、逆に少し落ち着ける気がした。  ──期待してしまう方が怖い気がするのだ。彼の生存。彼が──帰って来る、なんてことに。  ※  マキと小百合の小さな交流はそれからも続いていたけれど、ほとんどが雑談レベルのものだった。でも、今Cyber Onlineにいる彼が誰なのかということについては、疑問を共有出来る唯一の仲間であることには違いない。マキは、彼女に会った時からずっと隠し続けていた「lucifer@ei-ai.lab」の存在のことを、小百合に話してみようかと思い始めていた。  思い始めてから、今の自分にとってそのアドレスが持つ意味が日に日に重くなり続けているのだということに、うっすらと気付いた。  田口翔太という現実の男性ではなく、luciferというメールアドレスを持つ誰か。彼の言葉ひとつひとつが、今のマキにとっては宝で。でも、宝物だからと言ってずっと心の奥底にしまったままでいると、その輪郭はどんどんぼやけて行ってしまう。  それにもう1つ。空メールが届いたその日から、嫌な可能性が頭の隅っこに生まれて、そして消えなくなってしまっていた。  かつてマキは、たった1度だけのPath辿りで、lucifer@ei-ai.labの先にいたのが田口翔太と気付いてしまった。気付いた、つもりでいた。──でも。  そのたった1度、Pathを辿ることが出来たその時の1通だけが田口翔太の手によるものだったとしたら。──そう、lucifer@ei-ai.labの本当の持ち主は別人で、あの時、たまたま、田口こそがそのメールを盗んだハッカーだったのだとすれば。  マキには、このアドレスが「誰」なのかを知る術は、もう、残されていないのかも知れない。  ただ、あの時の1通と他のメールと、明らかに文体が違うとか、発信者が別人であるかのような感じはしなかった。話も(ある程度は)つながっていたし。だからこそマキはlucifer=田口と認識したのだから。  いずれにせよもう今となっては確認しようがないことだ。それだけに、やって来た空メールの件が余計に引っかかるのだ。  考えればどんな可能性でも考えられる。インターネットは常に偽装との戦いだったのだから。  でも。この空メールだけは、何かの偽装と考えるにはあまりにもあからさま過ぎる気がして。ついうっかり、とか、ふと出してみたくなって、とか、そんな風な空気の方が色濃く出ている気がして。  ネットの海を泳ぐことを生業とする彼女なら、そこから何かを読み取ってくれそうな気がして。  ただ、ネットの上で彼女にそのことを話すのは何となく躊躇ってしまった。相手がもし田口翔太ではなく、そのアカウントを盗んだだけの悪意あるハッカーだったとしたら、そのメールボックスを覗いてマキを知ってしまった第三者だとしたら、マキのネッワークパケットが不正に盗まれる可能性もない訳ではないと思ったからだ。  それで。  マキは彼女に会う気になった。  それまで1度も会っていなかったネット上だけの友人に。  マキが「ネット友達」に対してそういう気持ちになったのは初めてのことだった。  いつもの雑談の隙間から、マキが何かを迷っている様子なのは小百合にも判ってしまったようだった。  ネット上の文字だけのやり取りなのに、そういう機微も伝わってしまうものなのかなと思ってみたり、逆に文字だけなのに伝わってしまう程に自分が表に出していたのかなと思ってみたり、マキはパソコンの画面の片隅に浮かぶIMの小さな窓を眺めながら少しだけ気恥ずかしくなった。  ただ、実際に面と向かって顔色を見ているわけではないので、小百合が真っ先に心配してくれたのはマキの体調だったのだけれど。  少しだけ改まってマキはIMの画面に文字を打ち込む。  小百合はいつものようにさりげなく話を促してくれる。  マキは──相手にそれが見えるわけじゃないけれど──ゆっくりと大きく深呼吸を1つしてから、 「オフラインで話せたらなあって思うことがあるんだけど」  口の中で呟きながらIMメッセージを送信する。  小百合はしばらく何もメッセージを返して来なかった。とはいえ、IMの設定で相手がメッセージをタイプしているかどうかは見えるようにしてあったので、小百合が何もしていないわけではないのはマキにも見えていた。  小百合は迷っているのかも知れない。どういう言葉を返すべきか。  マキに出来ることはただ待つことだけだった。少なくとも無言で「落ちる」ような失礼は小百合はしない。何かしら応えてもらえる言葉があるなら、ただ、受け取ることしか出来ないのだから。 『もしかして杞憂かもしれないんだけど』  ……小百合からの次のメッセージはそんな言葉。そしてまだ、彼女はキーを叩き続けている。  マキに出来ることはただ待つだけ。緊張を紛らわせるようにお茶を一口口に含む。 『彼の、ことかな』  小百合の返事は、経過した時間に似合わない短いものだった。  でも。  その逡巡は……情報を共有しているが故の戸惑いなのだとマキは察することが出来た。  彼女もまた同じ危惧を抱いているのだ。『彼』のこと──《S.T.》、または田口翔太のことを、たとえIMとはいえオンラインに乗せてしまうことの危険性。 「うん」  マキは短く頷くように打ち返す。 『わかった』  今度は小百合の応答も素早かった。  そう遠くない街に住んでいることはお互いもう既に知っている。2人が(物理的に)会うことが出来る、ある地下鉄駅近くのシアトルカフェを指定して、その日は会話を終わらせた。  ブラウザを立ち上げて経路と地図をネットで確認しながら、マキは少しずつ考えをまとめようとしていた。  既にluciferとの会話はマキにとって「思い出」で──だから、後から後から不思議なくらい溢れて来て止まらなくなることがある。  ただのメル友、しかもかなり一方的なメッセージだけのメル友だったのに、それでもマキは彼との間に確かに「絆」のようなものを感じてしまっている。それすらも今となってはホンモノかどうかなんて判りはしないのに。それでも、メールボックスに届き続けたメッセージの形で、当時の「lucifer」がマキとつながり続けようとしてくれていた、その意志だけは少なくともリアルだったはずだから。  最後まで、彼が何を望んでいたのかはマキには掴み切れなかった。  ただ彼は最期に、マキのアカウントの生存を願ってくれた。  いつなのかは判らなくても。彼が再びオンラインにつながるその時までは、マキは──彼とメールを交わしたあのアカウントは「生きて」いなくてはならないのだ。  ──それが、彼の遺言だったのだから──マキにとっては。  パソコンの電源を落とす前に、彼女はちらりと会社のアカウントをwebメール経由で覗いてみた。事務連絡のメールが数通。彼のための振り分けフォルダには、もう何も届いていない。webページのロードが終わったのをぼんやり眺めながら、マキは少しだけ、自嘲気味に笑いを落とした。
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