- 2 - drug

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「狂ってる」  苛ついてカレンダーと時計とディスプレイを睨んでいたアヤは、ようやく動いた誠の体に同じ言葉ばかりを叩きつけていた。  どんよりと曇った目は、ただ単に徹夜仕事が続いて疲れているそのせいだと信じていた。今となっては現存しない「クラブカルチャー」の空気を再現するためにレンダリングを繰り返していたせいだと思っていた。だが今は違う。この男は明らかに取り憑かれている。 「誠、もう時間がない、判ってる?」  面倒臭そうに誠は首をアヤの方に向ける。瞳孔の奥にチラつく赤い光。 「ジャックアウトしてよ!」アヤの声は殆ど悲鳴。「いい加減に『出て』来て!!まじめに話聞いてよ、あたしも、あなたも、コレでご飯食べないといけな……」  言いかけて口ごもる。我ながらあまりに前時代的な例えが口をついて出て来たことが情けなくなる。  誠は、もう少し狂えば「食べ」なくても生きていける。  彼がまだ肉体を捨てずにいる理由は判らないが、誠のように、肉体の組織を変え、自分の脳の全てをチップに押し込んでまでサイバースペースに留まりたがっている人は現に存在するのだ。  食べないで生きている「人間」もいる。アヤの唇が僅かに震えて止まったその後で、 「俺があの企画書を書いたのは3年前だ」  まるでマシン・ヴォイスのように無感情な声。 「その時から」 「……乗っ取らせる気だった訳ね、あの《S.T.》とやらに」  誠は瞼を閉じる。 「どうするの。cyber onlineのテスト・ランまで1週間しかない。その間にこれを」ディスプレイをとんと叩く。「同時に200人の『クラバー』が押しかけてもみんなが快適に動ける空間にしないといけないんだよ?」 「《S.T.》と話させて」 「誠っ」  肉体は抜け殻になる。死体と区別がつかない、意志のない肉の塊。ディスプレイの中で自分を描画することさえ拒否した誠が何をしているのかはアヤには見えない。CPUの近くに鎮座している小さなチップ。中で行われている計算まで辿ることは不可能だ。アヤの目に映るのは──"軽く"するために少しぎこちないポリゴンに落ちた《S.T.》がフロアに佇む姿だけ。  アヤは時計を見上げる。午前4時。キーボードに頭を突っ伏した途端に、メールが届いたことを知らせる音が彼女の耳元で小さく鳴った。  中を見ると、初期化ファイルらしい文字列が並んでいる。 「……これでリブートすればいいの?」  アヤがチャットウインドウを開いてそのまま入力しようとすると、それより早くチャットウインドウに文字が流れて来た。 『そのとおり』 「……誰?」  ディスプレイの中で《S.T.》のポリゴンは穏やかに笑っている。  アヤは誠にジャックアウトするよう呼びかける。誠は自分の体にすら戻って来ようとしない。自分自身をsleepさせる。 「キチガイ」  アヤは誰に言うともなく呟いてマシンをシャットダウンする。 「キチガイよ、何でこんなちっぽけな感情チップになんかなりたがるの??」  うつぶせた誠の抜け殻を、ヒールの低い靴の爪先でつつく。 「人間なんて──えっ?」  起動したマシンのディスプレイが今までと違う動きを見せていることに気づく。 「何?」  木の扉。"enter id & password"と点滅する小さなロゴ。 『アヤ』  誠の文字が呼びかける。 『AYAとAYAで入っておいで』 「自動起動(autorun)の設定なんていつの間に」 『どうせこのマシンはこれ専用になるんだ、テストランだってそれでいいはずだろ』 「まだ何も終わってない」 『そうさ』  音楽のヴォリュームが上がる。 『これから始まるんだ、アヤ』  薄暗い部屋に切り込むまばゆい光。煙の向こうのDJ。  それぞれの個性で選んだ服と、ここでだけ成立する尖端の友情。  音楽。  人いきれ。  それはあまりにリアル過ぎる場所だった。  自分がかつて1度も来たことも見たこともない場所なのに、不思議な温もりと人の声がする。  体の中に、粒子となって音が重なる。自分が音になって行く。  包まれて行く。  闇の安寧。 『……誠』  蛍光ピンクのゴシック体が誠の視界に飛び込んで来る。 『どうすればジャックアウト出来るの……』 『ドアから出るんだ』  当たり前のような顔をして誠はドアを指さした。  アヤは自分の体と意識に起こった変化が明らかにおかしいと感じていた。のろのろとドアに向かう。  これは違う。  これは、その昔にもっとプリミティヴな快楽のために人が踊っていた場所の空気じゃない。もっと違う何かが作用しているとしか思えない。  僅かに残った理性を常に喚かせ、急かすように自分を仕向ける。そうでなければこれに溺れてしまう、アヤはドアだけを目指した。ノブを回し、外に出る。軋む音と風。冷たい空気。彼女はまばたきを繰り返して全てのリアリティを追い払う。  誠は入ったままだ。アヤは冷静になればなるほど恐怖も強まるのを感じている。  この空間は、おかしい。確かにこれがonlineに乗ればきっとたくさんの客を集めるだろう。クライアントは喜ぶだろう。しかし──  これは新種のドラッグだ。しかもかなり危険な。  肉体を放棄した人間達のためだけの、究極の精神依存のドラッグ・プログラム。 『誠』  彼は自分を描画していない。フロアには音が溢れている。  リブートする前より確かにかなり軽くなっていて、多少人が増えてもこのくらいならそう違和感はないだろうとは思えた。  《S.T.》──田口翔太の後ろ姿だけがそこにある。 『田口さん』  呼びかけて反応するどうか判らない、彼はまだ、誠の作ったプログラムでしかないはずなのだから。ただアヤは──その空間を作り出した誠の狂気の産物が、どんな動きを見せるのか、全く予想出来ないと感じていた。 『そうでしょうね』  《S.T.》は笑う。歪んだ微笑。 『──え?』 『あなたはまだここに残っていますよ』  煙の中に薄く浮かび上がる影。  アヤはそれに目を凝らして、それが他でもない自分の姿だと認識すると、考えるより先にウインドウを閉じた。自分の頭の中で、何かが音を立てるのが判った。
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